メッセージ。 - diary

2007-02-13

# 組織という器、人という器

On Off and Beyond: 日本はエラくもないが卑下したもんでもないを読んで。なんとなく、この記事に出てくるエライ人は、承認欲求が行動原理になっているんじゃないかと思った。どっちが上でどっちが下かを確認し、上から承認してもらおうとばかりしているように感じる。「やっても認めてくれないからやってもしょうがない」という意識も、承認欲求で説明できる。

承認欲求は誰にでもあるもので、それが一概に悪いとは思わない。でも、組織の論理や行動原理が、個人的な承認欲求の延長線上で決められているのだとしたら、良くないことではないか。承認というのは確かに、個人や組織の存在として許される(と考える)に足る根拠と言えなくはない。だけど、承認されることが中心的目的になってしまうなら、それは矮小だ。
2007-02-13 10:33:17 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-02-10

# 怖いもの、怖くないもの

モジモジ君の日記。みたいな。 - 野宿者を怖がること

うーん。いろいろ考えさせれた。興味深い考えだなぁ……。

ぼくは自分自身を、「あまり怖がらない人間」だと思っている。いざとなったら野宿者とコミュニケーションする心の準備があるし、実は野宿者だけでなく、痴漢、強盗、幽霊、悪魔(神様)、病気、死とだって取り引きしてもいい(あるいはしてみたい)と思っている。

たとえば、もし将来幽霊が身の回りに出てきたら、ぜひ友達になりたいとぼくは思う。だって幽霊の友達が一人いたら、将来別の幽霊とトラブルがあったときに、仲裁をお願いできる可能性があるでしょう? 幽霊の友人が一人いたら、どんなに心強いだろう。はやく出てきて!幽霊さん☆

てなことをけっこう本気で考えていると、怖いものなんてほとんどなくなってしまうんだよね。ぼくが、痴漢や強盗や幽霊や悪魔(神様)や病気や死を怖がらないのは、ある程度そういったものと、普段から心のどこかで触れ合っているからという面がある。彼らはぼくの心の中で排除されていない。彼らに触れて、知っているからこそ、彼らが怖くない。

ぼくは子供のころ大阪に住んでいた。大阪というのは治安の悪い町で、スリやひったくりやホームレスやヤクザや浪速のおっちゃんらや、その他モロモロ問題も多い。だけど、そういった問題が多い町の中で暮らしていたことで、まぁ一言でいえば強くなった。

あるいは子供のころ、多少いじめられたりもした。だけど、いじめられたときにほかのグループのリーダー格の子供に仲裁してもらったり、いじめっ子とコミュニケーションを取って楽しませることで、問題を中和できることを覚えた。

不潔なところで暮らすからこそ、健康で強い体を作れるという面はあると思うんだよね*1。彼らを怖い怖いと言って排除していたら、どんどんどんどん、自分の心と居場所が狭くなる。怖がって避けることが、余計に状況を悪くし自分を怖がらせる。そういう構図は、世の中にとても多い。

……あのね。こう思うの。怖いものって、本当は排除できないんじゃないかなぁって。それは自分の心の中にあるんじゃないかなって。「怖い怖い」って他者を追い出しても、どんどんどんどん心の中から怖いものが湧き出てくる。その気持ちは、ぼくも分かるんだよ。分かるんだけどね。でも、という話。

 *1 もちろん、程度問題というのはあって、不潔すぎたり無理しすぎるのはよくない。
2007-02-10 09:40:48 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-02-08

# 傷付くこと、表現すること

あのね。こう思うんだ。
文章を書いて誰かに見せたり、何かを言ったりするというのは、
相手の人やその何かが好きだからじゃないかなって。
好きな人に読んでもらいたいとか、好きな人に教えてあげたいと思って、
人は何かを表現するものだと思うんだ。
きっと誰だって、誰かを好きだし、何かを好きだ。

でもね。世の中にはあなたのことを好きじゃない人がいる。
あるいは、あなたが伝えたいと思っている相手の人を、好きじゃないかもしれない。
そういった人にとっては、あなたの言葉は傷の元なんだよね。

それか、あなたのつづった言葉を気に入らないケースもある。
「青空がすごく綺麗だった」とか、「ごはんがおいしかった」という言葉さえ、
目の見えない人には傷付くかもしれない。今日の食べ物に飢えている人たちを傷付けるかもしれない。

どんな言葉だって誰かを傷付け得る。
でもね。だからといって、「じゃあ何も表現しないことが良いことだ」とは、ぼくは思わない。
だって、誰も何も表現しなかったら、つまらないじゃん。

誰かに「何かを表現するな」と言うと、自分にも返ってくる。
自分も何も、表現できなくなる。
それはつまらない。間違っていたとしても、何かを表現することは楽しいし善いことだ。

だって、何かを表現したくなるというのは、誰かや何かを好きってことだから。
表現が存在するのは、「好き」っていう気持ちが存在するから。
誰かや何かを好きだっていう気持ちが存在するのは、悪ではない。
それが悪だと言うならば、きっと生きていることが悪だし、この世界そのものが悪だ。

だからぼくは、少なくともぼくは、あなたに「表現をするな」とは言わない。
あなたの表現したものが間違ってたり、あるいはそれが誰かを傷付けるものであったり、
ぼくを否定するものであったとしても、あなたに表現をしてほしいと思ってる。
あなたが感じたことを聞かせてほしい。
きっとあなたの身の回りの人も、そう思ってるんじゃないかな。
2007-02-08 10:24:34 / ふじさわ / Comment: 1 / Trackback: 0

2007-02-07

# 書くこと、傷付けること

Ladder to the Moon - 自分の書いた文章に責任を持つということ
 自分が、今、ここでブログを書くうえで、できることといえば、
  
 自分の書いた文章で、
  
  ・ 他者を傷つけることがあること
  
  ・ 自分も傷つくことがあること
  
 この2つを覚悟して、受け入れること。
  
 ただ、これだけである。
  
 「責任」なんて大層な言葉を使うまでもなく、
  
 結局のところ、自分には具体的に何をできるわけでもないのだ。
  
ふむ。好きな感じだなぁ。ええと、ぼくの基本的な考え方としては、メッセージ。 - 傷付くこと自体は悪ではない気がするという感じなんだけど。結論を簡単に言ってしまうと、傷付くことは生きることだと思ってる。

すべての生き物は、日々傷付くことなしに生きることが不可能だし、誰かを傷付けず生きることもできない。すべての生き物が他者の傷のうえに成り立っているし、傷付けられることで他者を生かしている。傷付くのも傷付けられるのも、生きること。

傷のない世界がいいと、ぼくは思わない。いったん生まれてしまった我々は、つきつめれば何もできない。ひたすら、それを受け容れるだけだ。ただそれは、悪いものじゃない。きっと悪いものじゃないとぼくは思ってる。だから今日も、誰かを傷付けるし、誰かに傷付けられる。

一緒にいたら、必ず傷付くんだ。傷付くのは、みんなが生きて一緒にいるから。生きていることも、一緒にいることも、そう悪くない。

「自分の書いた文章の責任をとること」とは、ぼくにとって自分が生きた責任を取ることに等しい。だから、ごまかさずに生きるだけだ。責任が取れるとしたら、そういう方法しかないと思ってる。謝ることはしない。どんな生き方であれ、それは謝るに値しない。
2007-02-07 21:30:35 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-02-06

# 1円の本の話

2007-02-06 09:22:04 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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