メッセージ。 - diary

2007-02-15

# 要するに

大事なことを先にやれってこと。
時間は限られているから、やりたいことすべてはこなせない。
必ず取りこぼしが出るんだ。
だから、大事なことからやらなければいけない。
最後に大事なことをやろうとしたら、一番大事なものを取りこぼすことになる。
2007-02-15 10:36:35 / ふじさわ / Comment: 1 / Trackback: 0

# ひとりごと

重要なのは、「きちんとやっていますよ」というポーズではない。
きちんとやること、あるいはきちんとやろうとすることだ。
体裁をまず気にするのはやめて。
他人の目ばかり気にしてもしょうがないでしょ?
重要なのは自分の目だ。
自分に睨まれることほど、怖いことはない。自分ほど強い敵はいない。
2007-02-15 10:22:45 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 科学とはなにか

『99.9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』(ISBN4-334-03341-5)を読了しました。「科学ってなんだろう?」ってところが自分でもよく分かっていなかったので、勉強になりました。相対性理論についての考え方とか、ホーキングの思想とかがすごく簡潔に説明してあって、そういうところも発見があってよかった。けっこう面白かったです。とりあえず、科学とはなにか一番説明してそうなところを引用してみます。

P.56
 常識はただの思いこみ
 これまであえて「常識」という言葉を使ってきました。その時代、その地域に生きているほとんどの人の頭にこびりついている考えのことです。
 問題は、ガリレオをあざ笑った教授たちにしても、プトレマイオスにしても、あるいはコペルニクスでさえも、後の時代からみると間違った常識にとらわれていた、ということです。
 それは現代に生きるわれわれでも同じです。
 今日、常識だと思っているものが、明日、天才科学者の出現によってまちがいであると判明するかもしれないのです。
 つまり、常識というやつは意外にもろいのです。常識はくつがえるものなのです。
 ですから、この本では、そういった常識のことも「仮説」と呼ぶことにしたいと思います。常識は仮説にすぎないのです。
 プロローグの飛行機の例をみてもわかるように、「科学的根拠」があると思われているものも、案外なにもわかっていなかったりします。
 われわれの世界観、われわれが親から教わること、われわれが学校で教わること、そういったものは、すべて仮説にすぎません。
 たとえば、いまみなさんは「光速より速いものはない」と教わっているはずですが、これだって仮説にすぎないのです。
 
 しかし、われわれの常識が仮説にすぎない、と自覚している人はあまりいません。いちいち、目のまえで起きる事件や現象を疑っていたのでは疲れてしまうからです。
 大部分の人は、右へならえ式に、他人から教わったことをそのまま鵜呑みにしているのです。常識は正しいに決まっている。飛行機が飛ぶしくみは科学的に一〇〇パーセントわかっているにちがいない。光速より速いものはない……。
 そんなふうに思いこんでいるのです。
 でも、この本でくりかえしでてくるように、実際は、われわれの頭の中身は仮説だらけなのです。「世界は仮説でできている」のです。
 そして、むかしもいまも、そして将来も、そういった仮説はつぎつぎと崩れて修正を受ける運命にあります。
 それが、それこそが科学なんです。
2007-02-15 09:36:54 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-02-14

# 国際状況についての印象

ひとこと書いておこっと。
個人的な感覚だけど、けっこう日本は海外から草の根的に評価されていると聞く。
みんなアメリカ中心主義で、アメリカ経由の情報しか日本にないから、
視野が狭くなっている人も多いんじゃないかな。

ぼくが聞いた話では、外国で日本の印象を聞くと「平和な国」という言葉が返ってくるらしい。
テレビで日本のことが放送されるときは、「桜が咲きました」とか
「どこそこの動物園でなんたらかんたら」とか、
平和で穏やかな国というイメージばかり映像が流れるそうだ。

途上国への支援が評価されているという話も聞くし、
ヨーロッパへ行ったら、どんな田舎でも日本の漫画ショップがあるという。
そういう意味では、日本というのはほかの国にない独特の立ち位置を
獲得していて、十分に評価されていると思う。

日本のメディアやアメリカ経由の情報ばかり見ていると暗い気持ちになるけど、
そこにしか道がないわけじゃない。ちょっと野へ目をやってみれば、
綺麗な小川もあるし荘厳な古い街並もある。
アメリカだけに目を向けるのではなく、世界に目を向けたほうが楽しいんじゃないかな。
2007-02-14 09:13:38 / ふじさわ / Comment: 2 / Trackback: 0

2007-02-13

# 組織という器、人という器

On Off and Beyond: 日本はエラくもないが卑下したもんでもないを読んで。なんとなく、この記事に出てくるエライ人は、承認欲求が行動原理になっているんじゃないかと思った。どっちが上でどっちが下かを確認し、上から承認してもらおうとばかりしているように感じる。「やっても認めてくれないからやってもしょうがない」という意識も、承認欲求で説明できる。

承認欲求は誰にでもあるもので、それが一概に悪いとは思わない。でも、組織の論理や行動原理が、個人的な承認欲求の延長線上で決められているのだとしたら、良くないことではないか。承認というのは確かに、個人や組織の存在として許される(と考える)に足る根拠と言えなくはない。だけど、承認されることが中心的目的になってしまうなら、それは矮小だ。
2007-02-13 10:33:17 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-02-10

# 怖いもの、怖くないもの

モジモジ君の日記。みたいな。 - 野宿者を怖がること

うーん。いろいろ考えさせれた。興味深い考えだなぁ……。

ぼくは自分自身を、「あまり怖がらない人間」だと思っている。いざとなったら野宿者とコミュニケーションする心の準備があるし、実は野宿者だけでなく、痴漢、強盗、幽霊、悪魔(神様)、病気、死とだって取り引きしてもいい(あるいはしてみたい)と思っている。

たとえば、もし将来幽霊が身の回りに出てきたら、ぜひ友達になりたいとぼくは思う。だって幽霊の友達が一人いたら、将来別の幽霊とトラブルがあったときに、仲裁をお願いできる可能性があるでしょう? 幽霊の友人が一人いたら、どんなに心強いだろう。はやく出てきて!幽霊さん☆

てなことをけっこう本気で考えていると、怖いものなんてほとんどなくなってしまうんだよね。ぼくが、痴漢や強盗や幽霊や悪魔(神様)や病気や死を怖がらないのは、ある程度そういったものと、普段から心のどこかで触れ合っているからという面がある。彼らはぼくの心の中で排除されていない。彼らに触れて、知っているからこそ、彼らが怖くない。

ぼくは子供のころ大阪に住んでいた。大阪というのは治安の悪い町で、スリやひったくりやホームレスやヤクザや浪速のおっちゃんらや、その他モロモロ問題も多い。だけど、そういった問題が多い町の中で暮らしていたことで、まぁ一言でいえば強くなった。

あるいは子供のころ、多少いじめられたりもした。だけど、いじめられたときにほかのグループのリーダー格の子供に仲裁してもらったり、いじめっ子とコミュニケーションを取って楽しませることで、問題を中和できることを覚えた。

不潔なところで暮らすからこそ、健康で強い体を作れるという面はあると思うんだよね*1。彼らを怖い怖いと言って排除していたら、どんどんどんどん、自分の心と居場所が狭くなる。怖がって避けることが、余計に状況を悪くし自分を怖がらせる。そういう構図は、世の中にとても多い。

……あのね。こう思うの。怖いものって、本当は排除できないんじゃないかなぁって。それは自分の心の中にあるんじゃないかなって。「怖い怖い」って他者を追い出しても、どんどんどんどん心の中から怖いものが湧き出てくる。その気持ちは、ぼくも分かるんだよ。分かるんだけどね。でも、という話。

 *1 もちろん、程度問題というのはあって、不潔すぎたり無理しすぎるのはよくない。
2007-02-10 09:40:48 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2007-02-08

# 傷付くこと、表現すること

あのね。こう思うんだ。
文章を書いて誰かに見せたり、何かを言ったりするというのは、
相手の人やその何かが好きだからじゃないかなって。
好きな人に読んでもらいたいとか、好きな人に教えてあげたいと思って、
人は何かを表現するものだと思うんだ。
きっと誰だって、誰かを好きだし、何かを好きだ。

でもね。世の中にはあなたのことを好きじゃない人がいる。
あるいは、あなたが伝えたいと思っている相手の人を、好きじゃないかもしれない。
そういった人にとっては、あなたの言葉は傷の元なんだよね。

それか、あなたのつづった言葉を気に入らないケースもある。
「青空がすごく綺麗だった」とか、「ごはんがおいしかった」という言葉さえ、
目の見えない人には傷付くかもしれない。今日の食べ物に飢えている人たちを傷付けるかもしれない。

どんな言葉だって誰かを傷付け得る。
でもね。だからといって、「じゃあ何も表現しないことが良いことだ」とは、ぼくは思わない。
だって、誰も何も表現しなかったら、つまらないじゃん。

誰かに「何かを表現するな」と言うと、自分にも返ってくる。
自分も何も、表現できなくなる。
それはつまらない。間違っていたとしても、何かを表現することは楽しいし善いことだ。

だって、何かを表現したくなるというのは、誰かや何かを好きってことだから。
表現が存在するのは、「好き」っていう気持ちが存在するから。
誰かや何かを好きだっていう気持ちが存在するのは、悪ではない。
それが悪だと言うならば、きっと生きていることが悪だし、この世界そのものが悪だ。

だからぼくは、少なくともぼくは、あなたに「表現をするな」とは言わない。
あなたの表現したものが間違ってたり、あるいはそれが誰かを傷付けるものであったり、
ぼくを否定するものであったとしても、あなたに表現をしてほしいと思ってる。
あなたが感じたことを聞かせてほしい。
きっとあなたの身の回りの人も、そう思ってるんじゃないかな。
2007-02-08 10:24:34 / ふじさわ / Comment: 1 / Trackback: 0
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