メッセージ。 - diary
2019-08-06
# にゃー
「電子書籍なんて、実際のところはあまりメジャーじゃないですよね?このなかで、電子書籍を読んでいる人ってどれくらいいます?」と聞いたら、飲み会に参加していた4人中、ぼく以外はみんな読んでいて「ないと暮らせない」という人すらいた。ズコーッとなった。本、読んだほうがいいのかなぁ。たしかに、ネットのコンテンツより本のほうがなんというか「良さ」があるようには感じるけど(ネットにはネットの良さがあって、いろんな人とインタラクションができたりアウトプットできたりするのはとても良いが)。最近は、本もネットもほとんど見ない生活だからなぁ。
2019-07-31
# にゃー
アメリカのバイク好きの中に「ラット」という流派があると、その昔聞いたことがある。ラットというのはネズミのことだけど、彼らのバイクはドブネズミのように汚いという。油で汚れたボロ切れが巻いてあったり、パーツは日に焼け、埃をかぶり、錆びてボロボロになっている。誰が見ても「捨てられてるんだな。放置バイクだ」と思うような状態なのだけど、そこに持ち主がやってきてエンジンをかけると一発で始動するという。見た目はボロだけど中身はバッチリメンテされてるんだぜっていう。
恥ずかしいってことでいうと、ぼくは「(自分が)恥ずかしいかどうかは自分で決める」と思っている。通常、恥ずかしいという感覚は、決めるものでなく感じるものだ。なんとなく自分だけ人と違って恥ずかしいとか、忘れ物をして恥ずかしいとか、自分だけできなくて恥ずかしいとか。そういう風に感じているのは誰なのか。自分なのか。自分だとしたら、なぜ自分はそれを恥ずかしいと感じるのか。客観的に見て、自分に瑕疵があるのか、逆に自分だからこそやれることだってあるんじゃないか。本当に「自分」がそのすべての責を負い、責められるべき事柄なのか。「自分」の範囲はどこからどこまでか。
恥ずかしいと感じる感情は、他の人と比べたときに発生する。他の人ができていることが、自分にはできないとか、他の人が皆同じなのに自分だけ違うとか、本来こうすべきなのにできていないとか。だけど、猫も猿も鳩も裸だ。お金持ちや顔の良い人がいる一方で、全然そうでない人もいる。太った人もいれば痩せた人もいる。若い人もいれば年老いた人もいる。そういった状況のなかで、何が恥ずかしくて何が恥ずかしくないのか。いったい誰と何を、何のために比べるのか。
恥ずかしいってことでいうと、ぼくは「(自分が)恥ずかしいかどうかは自分で決める」と思っている。通常、恥ずかしいという感覚は、決めるものでなく感じるものだ。なんとなく自分だけ人と違って恥ずかしいとか、忘れ物をして恥ずかしいとか、自分だけできなくて恥ずかしいとか。そういう風に感じているのは誰なのか。自分なのか。自分だとしたら、なぜ自分はそれを恥ずかしいと感じるのか。客観的に見て、自分に瑕疵があるのか、逆に自分だからこそやれることだってあるんじゃないか。本当に「自分」がそのすべての責を負い、責められるべき事柄なのか。「自分」の範囲はどこからどこまでか。
恥ずかしいと感じる感情は、他の人と比べたときに発生する。他の人ができていることが、自分にはできないとか、他の人が皆同じなのに自分だけ違うとか、本来こうすべきなのにできていないとか。だけど、猫も猿も鳩も裸だ。お金持ちや顔の良い人がいる一方で、全然そうでない人もいる。太った人もいれば痩せた人もいる。若い人もいれば年老いた人もいる。そういった状況のなかで、何が恥ずかしくて何が恥ずかしくないのか。いったい誰と何を、何のために比べるのか。
2019-07-30
# にゃー
猫は裸だけど、恥ずかしいなんて思ってない。猫自身も思っていないし、周りの誰も思っていない。
あるいは。誰かは恥ずかしいと思っているのかもしれない。誰かが恥ずかしいと声をあげたら皆も恥ずかしく感じるのかもしれない。いずれにせよ、「恥ずかしい」というのはそういう性質のものだ。
恥ずかしいと思えば恥ずかしいし、恥ずかしくないと思えば恥ずかしくない。ほら、こうして何度も書かれた言葉を読んでいると、恥ずかしいという言葉が、何と読むのか、正しく書かれているのか不安になってくる。
何が恥ずかしいのか、何が恥ずかしくないのか、なぜ恥ずかしいのか、なぜ恥ずかしくないのか、なぜここにいるのか、自分は一体何をしているのか、自分とは一体何か。分からなくなる。というか、よく考えたら分からない。元からわかってなどいなかった。
人間とはそういうものだと思う。「猫は何にも知らない」と人間は思っているけれども、猫と人間の間にそんな大きな違いはあるだろうか?知らないことだらけだけど、猫だって自分の道を歩んでいる。自分の次元を生きて、死んでいく。
あるいは。誰かは恥ずかしいと思っているのかもしれない。誰かが恥ずかしいと声をあげたら皆も恥ずかしく感じるのかもしれない。いずれにせよ、「恥ずかしい」というのはそういう性質のものだ。
恥ずかしいと思えば恥ずかしいし、恥ずかしくないと思えば恥ずかしくない。ほら、こうして何度も書かれた言葉を読んでいると、恥ずかしいという言葉が、何と読むのか、正しく書かれているのか不安になってくる。
何が恥ずかしいのか、何が恥ずかしくないのか、なぜ恥ずかしいのか、なぜ恥ずかしくないのか、なぜここにいるのか、自分は一体何をしているのか、自分とは一体何か。分からなくなる。というか、よく考えたら分からない。元からわかってなどいなかった。
人間とはそういうものだと思う。「猫は何にも知らない」と人間は思っているけれども、猫と人間の間にそんな大きな違いはあるだろうか?知らないことだらけだけど、猫だって自分の道を歩んでいる。自分の次元を生きて、死んでいく。
# にゃー
昔から、漫画雑誌の表紙に水着の女の子の写真が載ってるのは違和感があった。季節感がないし、なにより本の内容を表していない。たしかにある年ごろの男の子にとって、(水着の)女の子(の写真)は興味深いものであるだろうけれども、そこにどういった意味や価値を見出すのか。最近は、雑誌の表紙だけでなく、街のいくらかにも女の子のイラスト・アイコンが進出している。人の営みや文化の表出には、表現されたもの自体には、必ずしも意味や整合性などない。しかし、それが編み出され表出され、居場所を見つけるに至った背景には、何らかの物語や(個人的・集団的な)意味があると思う。それらを想像するのは面白い。