メッセージ。 - diary

2006-12-13

# ちかごろのわたくし

「もう仕事やめる!」とか言いながら、ズルズルと会社にいるふじさわです。なんかねー、職場が変わって、いままでとは結構違う仕事を割り振られました。システム半分、企画半分みたいな感じなんですけど、ラクですねー。いままでは、「システムのことやりたーい!」って内心思いつつ、実際はそっちに時間を割けない状態だったのですよね。

でもいまは、ぼく以外にシステム分かる人がいないということもあって、なんでもありという感じです。積読になっている本に目を通したり、気になっていた技術トピックを掘り返したりと、結構楽しくやっています。もちろん企画系の仕事もあるわけですけど、扱うテーマが身近で、「ここは自分の庭だ」といった感じです。

あとはやっぱり、何にしても新しいというのはうれしいですね。同じところに長くいると、どうしてもやる気が減退してしまう質なので、「新しいところで新しいことをやってる」というだけで生産性が上がります。ただ、その代わりというか、ネットにつながりにくい環境になっちゃったので、Webの巡回などはだいぶアクティビティが落ちています。
2006-12-13 21:49:03 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-12-10

# 夢の話。

先日、夢を見た。

夢の中でぼくは、どこかへ行こうとしていた。どこかへ行こうと一本道を歩いていて、そこには見知らぬ人たちもたくさんいた。

その道は、人を試すような険しさがあり、いくつか障害を乗り越えてぼくは歩いていた。しかし、しばらく行くと、そこには崖があった。

崖の向こうには道が続いており、なんとか渡らないと向こうへは行けない。周りにいる人たちも、どうやら向こうへ行けなくて立ち往生しているようだった。

ふと見ると、この崖は降りられそうだ。壁づたいに歩いて向こうへ行けそうだと感じたぼくは、とりあえず幅30cmほどの足場を見つけて飛び降りた。ところが。

その足場は思っていたより狭く、壁づたいに歩けるような余裕はなかった。「これは無理だ」と思い、壁をよじ登ろうとする。でも、どうにも上がれない。手を伸ばせば、元いた道に手が届きそうなのに、体が上がらないのだ。

「困った。どうしよう」……と思ったところで、目が覚めて気付いた。

ぼくはそういうとき、「助けてくれ」と上にいる人に声を掛けられない人間だ。「助けてくれ」と言って、「嫌だね」と返されたらどうしようと思ってしまう。そもそも崖に降りる前に、周りの人と相談してもよかったのだ。だけどぼくはそうしなかった。そうしようと思い付きさえしなかった。

いや、もし周りの人が、「よし分かった。危なそうだったら助けてやるから、降りてみな」と言ってくれても、ぼくが降りた後で、「お前のことなんて知らない」と言われたらどうしようと思ってしまう。ぼくはそういう人間だった。
2006-12-10 09:48:08 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-12-09

# Binary 2.0カンファレンス2006だって。

いやなブログ - Binary 2.0カンファレンス2006

おほ! スルー力を試されてる?
2006-12-09 23:18:15 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-12-08

# 「自己中」の話。

ぼくは「自己中」という省略の仕方は、あんまり気にならないなぁ。携帯電話を「携帯」と呼ぶのには、抵抗があるけど。

どうして「自己中」が良くて、「携帯」は駄目なのか。つらつらと考えるに、どうもぼくは、関西的合理主義と、音感指向でそれを捉えようとしているからかなと思った。

まず、「携帯」の何が嫌って、「携帯○○」ってのがほかにもあるから嫌な感じがしちゃうんだよなぁ……。たとえば携帯傘とか、携帯灰皿とか。「携帯」という言葉そのものも、単体で扱ってよいほど意味が確立しているように感じる。

一方「自己中」は、存在が一人立ちしてる気がするんだよね。「ジコチュウ」っていう「すわ、外来語か?」というように可愛い音感だし、「自己中○○」みたいな類似の言葉もない。

「自己中」っていうのは、「あってもいいかな」という気がする。「自己中心的」って言葉は、よく使うわりに長くて言いにくいから。言いにくいところに、その言葉のニクニクシサが込められるのかもしれないけど、「そこを無理矢理可愛くして、笑い飛ばしてしまおう」というような言葉遣いが関西ではなされる。

実は関西人はけっこう合理主義で、この手の表現は多い。たとえば「マクドナルド」は、上と同じ理由で「マクド」だし、「ファミリーマート」は「ファミマ」。「サークルケー」は「サクケー」で、「びっくりドンキー」は「びくド」になる。

なんつーのかなぁ。関西人からすると、「携帯」も「マック」も、ちょっと乱暴な感じがする。一括りにできないような一般的な言葉を、固有のモノに対して適用するようなのは、あまり関西では好かれない。逆に関西では、そういった言葉の持つニュアンスや人の心のセグメントを、うまく使おうとするような精神がある気がするなぁ。

そういえば昔、「神奈川県が地元」という女友達がいた。彼女は「保土ヶ谷バイパス」という道路を指して、「ワタシたちはそれを『保土ヶ谷』と省略するけど」と言ってて、そのお馬鹿なニュアンスに笑いあったっけ。(「保土ヶ谷」というのは地名で、駅や区の名前になる程度に一般的な言葉です)
2006-12-08 13:01:56 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 日記

2006-12-08 09:04:38 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-12-07

# どういたしまして

あなたがいてくれてよかった。ありがとう。
2006-12-07 20:23:49 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# なぜ組織の中で敵対的闘争が起こるのか

小野和俊のブログ:ふたつ下のヒューマンマネジメント:5分で人をダメにする技術 - 優秀な部下の能力の芽を摘み取る無能な上司

うーん。小野さんの論点では、ぼくはどっちが良いとも言えないなぁ……。ただ思うのは、どうして職場で、こういった敵対的闘争が行われるのかということ。そこが問題じゃないかなぁ。

ぼくは、否定的な意見、反対的な意見は、グループ内部に必要だと思っている。イエスマンばかり集めると組織が腐るから。だから、言うことを聞かない部下というのは、そう悪いものではない。

「良薬は口に苦し」という。苦いものがすべて良薬とは限らないけれども、少なくとも、苦いというだけで薬を嫌ってはいけない。その薬が本当に役に立つのかどうかを見極めなければいけない。

でもこの上司は、リンク先のストーリーの中で、部下が「良薬」かどうか判断できていないように感じる。なぜならあの文章には、部下に対する憎しみがあるように思うから。苦いものが、「良薬」かどうか判断しなきゃいけないときに、憎しみがあっては判断が偏向する。

また、どんな状況であれ、憎しみで人を味方に変えることはできない。たとえ一時的に部下を掌中に収められても、心の中に生まれてしまった憎しみは消えない。それはずっと心の中でくすぶり、部下を貶め続ける。いずれ部下は潰れてしまうだろう。

部下を味方に付けたいのなら、まずは自分が彼の味方になるべきだったんじゃないかなぁ。そうやって味方を増やすことは、実はビジネスの本質だと思うのだけど。結局のところ、社内の組織も味方だし、顧客も味方だ。ビジネスというのは、イコールそういった人たちを増やすということだと思う。

まぁともあれ、ぼくにとって気を付けなきゃいけないのは、上司がこういった策を弄する人間かどうか、また、信じられるのは誰かをきちんと見極めて、立ち居振る舞いをしていかなきゃいけないということだね。ん? そんなこたぁ元から分かってるって? そうだね。この世界は、人狼BBSと、そう大きく違わない。

あまり関係ないかもしれないけど、ref: なぜ、会社と社員の利害が対立するのか?
2006-12-07 18:23:04 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 男は女に……の補足

 
 「男は女にやさしくすべき」ではなく、「PMSである人に、周りの人が」という問題なんじゃね?

ああ、そう。そうなんだよなぁ……。そういうことを書きたかったのだけど、なぜかぼくは書けなかったなぁ。かなり正確にポイントをまとめられてて、しかも悪意がなく指摘されてて感心した。
2006-12-07 07:50:01 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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