メッセージ。 - diary
2006-11-19
# 自分が惚れるような自分、または心の中に羅針盤を持つこと
自分の性的問題を解決するための指針としては、ぼくはこう考えてるっす。
要するに、「もし自分が異性だとしても、自分というのは惚れるに値するか? もしいまそれに値しないのだとしたら、いまなにをすべきか」。
モテたいと思ったとき、人は「自分に一般的な価値があるか?」と考えがちだけど、そうじゃなくてというところからスタートしています。多くの人から好かれたりモテたりすることが、本当の意味でモテなの?と。
いや、もし仮に多くの人から好かれることがモテだとしてもだよ? 自分がそうなりたいの? たとえばキムタクとか、多くの女性からキャーキャー言われてるけど、ああなりたいの? 本当の本当に、キムタクのように多くの人から好かれることがあなたの人生にとっての至上命題なの? もしそうなれたら満足なの?
違うでしょう? きっとキムタクになれたとしても、どこかで不満は残る。多くの女性にキャーキャー言われたとしても、たった一人、自分の好きな人に振り向いてもらえないのなら意味がない。それに、自分のやりたいことってあるよね? 「キャーキャー言われること」が本当に自分のやりたいことなのか。多くの異性と付き合うために自分は生まれてきたのか。違うよね。
ねぇ、もし自分が異性だとして、自分のことを好きになれそうですか? ねぇ、自分がやりたいことを分かっていない人に、あなたは惚れますか? あなたはいったい、どんな人が好きなんですか? たった一人、自分の好きな人ってどんな人ですか? もしその人に会えたら、あなたはなにをしてあげたいですか?
そういうところをずっと考えていれば、多くの人からは好かれなかったとしても、見てくれる人はきっといると思う。少なくとも、自分が自分のことを見てやれないようじゃ、誰かに自分を見てもらおうなんてのは甘ったれていると思う。自分にモテない人間が、誰かからモテるはずがないし、顔や容姿が良くてモテたところでたいした意味はない(顔や容姿しか目に入らない(馬鹿な)男や女が欲しいのなら別だが)。そんなのは時間の無駄だ。
要するに、「もし自分が異性だとしても、自分というのは惚れるに値するか? もしいまそれに値しないのだとしたら、いまなにをすべきか」。
モテたいと思ったとき、人は「自分に一般的な価値があるか?」と考えがちだけど、そうじゃなくてというところからスタートしています。多くの人から好かれたりモテたりすることが、本当の意味でモテなの?と。
いや、もし仮に多くの人から好かれることがモテだとしてもだよ? 自分がそうなりたいの? たとえばキムタクとか、多くの女性からキャーキャー言われてるけど、ああなりたいの? 本当の本当に、キムタクのように多くの人から好かれることがあなたの人生にとっての至上命題なの? もしそうなれたら満足なの?
違うでしょう? きっとキムタクになれたとしても、どこかで不満は残る。多くの女性にキャーキャー言われたとしても、たった一人、自分の好きな人に振り向いてもらえないのなら意味がない。それに、自分のやりたいことってあるよね? 「キャーキャー言われること」が本当に自分のやりたいことなのか。多くの異性と付き合うために自分は生まれてきたのか。違うよね。
ねぇ、もし自分が異性だとして、自分のことを好きになれそうですか? ねぇ、自分がやりたいことを分かっていない人に、あなたは惚れますか? あなたはいったい、どんな人が好きなんですか? たった一人、自分の好きな人ってどんな人ですか? もしその人に会えたら、あなたはなにをしてあげたいですか?
そういうところをずっと考えていれば、多くの人からは好かれなかったとしても、見てくれる人はきっといると思う。少なくとも、自分が自分のことを見てやれないようじゃ、誰かに自分を見てもらおうなんてのは甘ったれていると思う。自分にモテない人間が、誰かからモテるはずがないし、顔や容姿が良くてモテたところでたいした意味はない(顔や容姿しか目に入らない(馬鹿な)男や女が欲しいのなら別だが)。そんなのは時間の無駄だ。
2006-11-17
# カッコよさの2つの要素、ソフトウェアはカッコいいか
ところが、ソフトウェアにはあんまり工学的なカッコよさを感じない。みんなソフトを使う側の効率のよさばかり異常に気にしているが、「作る側」の効率のよさはどれくらい考えられているのか。おそらくほとんど考えられてない。いつも、何か新しい機能が追加されてるのを見るたびに思うんだけど、ソフトウェアを作る側のコスト (およびそれを何年にもわたって保守していくコスト) と使う側のメリットを比べた場合、これらは本当に見合っているといえるのか。あやしい。
いつもの新山さんの日記から。とっかかりの考えは誰でも思い付きそうだけど、それを展開してここまでもっていくのはすごいなぁ。皆がぼんやり「これは問題だ」と感じていることが、明確に言語化されている。これはもう発見ですよ。
# お洒落とコミュニケーションに対する考え方
あくまで「ぼくはこうしてますよ」ってことなんだけど。
ぼくは、大事な人に会うときは、あまりお洒落をしないようにしている。というのも、大事な人には自然体の自分を見てもらいたいから。大事な人とは長く付き合いたいし、本当の意味で役に立てる存在になりたい。そう考えたとき、自然体じゃない自分というのは、あまりよくないような気がするんだよね。
だって、長く付き合うためには、ラクに付き合える自然体の自分で接するほうがいいでしょう? 無理に着飾って背伸びしても、イザってときには役に立たないと思うんだ。たとえば男女の仲でもさ、ずっと猫をかぶってるのはしんどいし、後になって本性がバレて「なーんだ」ってなったら嫌じゃん。
偽りの付き合いって、自分にとっても相手にとっても時間を無駄にするものだと思う。相手のことを好きなんだったら、その人の時間を無駄にするのって嫌じゃん? 本当に本当に、「ああ、一緒に時間を過ごせてよかった」って思ってもらいたいじゃん? だからさ。大事な人と過ごすときは、一番本当で、一番大事な自分を見せたい。
それでね。結局のところ、一番本当で、一番大事な自分って、「ありのままの自分」ってことなんだよ。一番見せるのが恥ずかしい自分、誰にも見せたことのない自分。それがやっぱり、価値があるよね。逆に好きな人には、そういうところこそ見せてほしいって思うでしょ?
なになに? 「ありのままの自分」なんて、お見せできないって? うん。そりゃあ分かるけどさ。でも、いつまでも隠しているわけにはいかないでしょ? いつまでも、心を許してもらえないって、嫌でしょ?
「お見せできない」てみじめに感じるのならさ。「ありのままの自分」を日頃から磨いておいたらどうかな? 大事な人に会うときに外見を着飾るんじゃなくて、日頃から中身を磨いておくの。あの人に釣り合うような自分、あの人の役に立てる自分になれるよう、努力することはできると思う。
そうやってさ。お互いがお互いのいいところを見ながらさ、「自分も負けないように」って頑張れたら楽しいと思う。それでこそ、二人でいることの意味があるよね。その人をを好きでいる自分を、褒めてあげたくなる関係だと思う。二人じゃなくてもさ。そういうチームが作れたら、本当に素敵じゃん。
だからぼくは、好きな人と会うとき、自分の一番好きな格好をすることをお薦めします。それは、着飾るということじゃないし、相手の好きな格好をするわけでもなくてさ。自分が自分を好きでいられる恰好、ありのままの自分でいられる恰好。きっと大丈夫だと思うんだ。あなたの好きなあの人も、きっとその恰好を好きだと言ってくれるはず。
だって、「あなたの好きな恰好」と、「あなたの好きな人」は、「あなたの好きな」って部分で、すごく相性がいいんだもの。それを信じれば大丈夫なんだよ。本当だよ? だって、嘘をついてもしょうがないもん。
ぼくは、大事な人に会うときは、あまりお洒落をしないようにしている。というのも、大事な人には自然体の自分を見てもらいたいから。大事な人とは長く付き合いたいし、本当の意味で役に立てる存在になりたい。そう考えたとき、自然体じゃない自分というのは、あまりよくないような気がするんだよね。
だって、長く付き合うためには、ラクに付き合える自然体の自分で接するほうがいいでしょう? 無理に着飾って背伸びしても、イザってときには役に立たないと思うんだ。たとえば男女の仲でもさ、ずっと猫をかぶってるのはしんどいし、後になって本性がバレて「なーんだ」ってなったら嫌じゃん。
偽りの付き合いって、自分にとっても相手にとっても時間を無駄にするものだと思う。相手のことを好きなんだったら、その人の時間を無駄にするのって嫌じゃん? 本当に本当に、「ああ、一緒に時間を過ごせてよかった」って思ってもらいたいじゃん? だからさ。大事な人と過ごすときは、一番本当で、一番大事な自分を見せたい。
それでね。結局のところ、一番本当で、一番大事な自分って、「ありのままの自分」ってことなんだよ。一番見せるのが恥ずかしい自分、誰にも見せたことのない自分。それがやっぱり、価値があるよね。逆に好きな人には、そういうところこそ見せてほしいって思うでしょ?
なになに? 「ありのままの自分」なんて、お見せできないって? うん。そりゃあ分かるけどさ。でも、いつまでも隠しているわけにはいかないでしょ? いつまでも、心を許してもらえないって、嫌でしょ?
「お見せできない」てみじめに感じるのならさ。「ありのままの自分」を日頃から磨いておいたらどうかな? 大事な人に会うときに外見を着飾るんじゃなくて、日頃から中身を磨いておくの。あの人に釣り合うような自分、あの人の役に立てる自分になれるよう、努力することはできると思う。
そうやってさ。お互いがお互いのいいところを見ながらさ、「自分も負けないように」って頑張れたら楽しいと思う。それでこそ、二人でいることの意味があるよね。その人をを好きでいる自分を、褒めてあげたくなる関係だと思う。二人じゃなくてもさ。そういうチームが作れたら、本当に素敵じゃん。
だからぼくは、好きな人と会うとき、自分の一番好きな格好をすることをお薦めします。それは、着飾るということじゃないし、相手の好きな格好をするわけでもなくてさ。自分が自分を好きでいられる恰好、ありのままの自分でいられる恰好。きっと大丈夫だと思うんだ。あなたの好きなあの人も、きっとその恰好を好きだと言ってくれるはず。
だって、「あなたの好きな恰好」と、「あなたの好きな人」は、「あなたの好きな」って部分で、すごく相性がいいんだもの。それを信じれば大丈夫なんだよ。本当だよ? だって、嘘をついてもしょうがないもん。
2006-11-16
# ジーンズをデートにはいてきちゃ駄目、かぁ……
watapocoの日記 - ジーンズをデートにはいてきちゃ駄目とかいう人は
watapocoさんの日記は毒が強くて面白いな。それはとても新鮮な毒という感じがする。ちょうど彼女らしい、いきいきとした毒気というか。まぁそれはどうでもいいとして。
ジーンズをデートにはいてきちゃ駄目、かぁ……。そんなこと言うやつはオタクなんだから放っておくしかないんじゃね? いちいち腹を立てるほどの問題じゃない気がする。たとえば、ジーンズはまぁ普通だけど、もし仮にデートの相手が、デートする格好として、あるいは人間としてあり得ない格好をしてきたらどうするかね?
「それはないやろ!」と心の中でツッコミを入れて、もう二度とデートに誘わないか、「ちょっとここはこうしたほうがええんちゃう?」と指摘して「うーん、なんだかなぁ」とモヤモヤするのが「正しい」、よね?
デートというのは、あくまで相手の人とのremixの面白さがあるわけで。「こうでなきゃだめ」というのはない。「ええ? ここでこう来るか?」とか、「ああ、ここはやっぱりこうだよね」とか、そういうのが楽しい。
期待どおりになったら楽しいし、期待に沿わないのもまた楽しい。それが楽しくないのだとしたら、もうその人とはNGということなんだよ。どちらが良いとか悪いとかじゃなくて、「合うか合わないか」、「一緒にいて楽しいか楽しくないか」という問題。
「なんで合わへんのや!」とか言って、怒って直させてオーケーとかそういう問題では絶対ない。合わないものは合わないから。直すことなんてできない。すくなくとも外見をいじることでは、問題は解決しない。だからそういうときは、黙って身を離すしかない。知ってるでしょう?
だからさ、「ジーンズをデートにはいてきちゃ駄目」とか言う人がいたとしても、怒る必要ってないと思うんだよね。「一緒にいて楽しいか楽しくないか」が問題なんだからさ。一緒にいない人とのことを、とやかく言う必要はまったくないなーとぼくなら思うな……。
こういうとき、こういう話題に対して怒る人ってさ、実際思い当たるフシがあるのかなぁ。自分の好きだった人や、付き合ってきた人からそういう視線や暗黙の要求みたいなのを感じていたとか。なんか、そういう経験があるから、プンプンと怒ってるのかなぁという気がする。いや、プンプン怒っているところも可愛いんだけどね。
watapocoさんの日記は毒が強くて面白いな。それはとても新鮮な毒という感じがする。ちょうど彼女らしい、いきいきとした毒気というか。まぁそれはどうでもいいとして。
ジーンズをデートにはいてきちゃ駄目、かぁ……。そんなこと言うやつはオタクなんだから放っておくしかないんじゃね? いちいち腹を立てるほどの問題じゃない気がする。たとえば、ジーンズはまぁ普通だけど、もし仮にデートの相手が、デートする格好として、あるいは人間としてあり得ない格好をしてきたらどうするかね?
「それはないやろ!」と心の中でツッコミを入れて、もう二度とデートに誘わないか、「ちょっとここはこうしたほうがええんちゃう?」と指摘して「うーん、なんだかなぁ」とモヤモヤするのが「正しい」、よね?
デートというのは、あくまで相手の人とのremixの面白さがあるわけで。「こうでなきゃだめ」というのはない。「ええ? ここでこう来るか?」とか、「ああ、ここはやっぱりこうだよね」とか、そういうのが楽しい。
期待どおりになったら楽しいし、期待に沿わないのもまた楽しい。それが楽しくないのだとしたら、もうその人とはNGということなんだよ。どちらが良いとか悪いとかじゃなくて、「合うか合わないか」、「一緒にいて楽しいか楽しくないか」という問題。
「なんで合わへんのや!」とか言って、怒って直させてオーケーとかそういう問題では絶対ない。合わないものは合わないから。直すことなんてできない。すくなくとも外見をいじることでは、問題は解決しない。だからそういうときは、黙って身を離すしかない。知ってるでしょう?
だからさ、「ジーンズをデートにはいてきちゃ駄目」とか言う人がいたとしても、怒る必要ってないと思うんだよね。「一緒にいて楽しいか楽しくないか」が問題なんだからさ。一緒にいない人とのことを、とやかく言う必要はまったくないなーとぼくなら思うな……。
こういうとき、こういう話題に対して怒る人ってさ、実際思い当たるフシがあるのかなぁ。自分の好きだった人や、付き合ってきた人からそういう視線や暗黙の要求みたいなのを感じていたとか。なんか、そういう経験があるから、プンプンと怒ってるのかなぁという気がする。いや、プンプン怒っているところも可愛いんだけどね。
# [技術] Xenのソースコードが取れない……
Xenのソースコードが欲しいのだけど、ダウンロードするにはMercurial(バージョン管理ソフト)が必要なんだって。Mercurialなんて、誰が使うんだよ〜(泣)と思いながらインストール。Xenのサイトにあるとおりコマンドを実行したらエラー。
hg init http://xenbits.xensource.com/xen-3.0.3-testing.hg
abort: cannot create new repository over "<function <lambda> at 0x403bc56c>" protocol
もう、もういやだよ。ねぇ、タカコ。私どうしたらいいの?
hg init http://xenbits.xensource.com/xen-3.0.3-testing.hg
abort: cannot create new repository over "<function <lambda> at 0x403bc56c>" protocol
もう、もういやだよ。ねぇ、タカコ。私どうしたらいいの?
2006-11-15
# Javaスクールの危険について
承前。
なんとなくだけど、「Javaを教えるな。C言語を教えろ」という意見には賛成できないなぁ。というのも、Javaというのは自動車みたいなものだ。昔はなかったけどいまは使える便利な道具としての自動車。現代において、自動車を運転するスキルというのは十分必要だと誰もが認めるだろう。実はJavaもそういう道具の1つなのではないか。
たとえば自転車。自転車があれば、身の回りをスイスイ素早く走り回って、日常の用事をこなすことができる。自転車で移動できる距離は、自動車には遠く及ばないけれども、身近な場所を走って路地裏を駆け回るなら、小回りをきかせられる自転車が有利だ。
たとえば徒歩。徒歩は自転車よりもスピードが出ない。遠くまで行くこともできない。だけど家の中を歩き回りたいなら、やっぱり自分の足で歩くのが一番だ。山を登ったり、川を渡ったり、自転車にも自動車にも踏破できない場所を、徒歩でなら進むことができる。スピードを気にしなければ、徒歩の有効性は高い。いざというときにも使えるし、「歩くのが下手」というのでは話にならない。
そう。いくら時代が進んでも、歩く技術の重要性は変わらない。それは基本としてすべての人がそなえておくべきスキルと言えるだろう。コンピュータで言うならばアーキテクチャといったところだろうか。しかし、だからといって自動車の運転技術を学ぶ必要がないとはいえない。
現代においては、多くの人が自動車の運転(あるいはJavaやLLやVBAでのプログラミング)技術を使って、仕事や遊びにいかしている。徒歩(あるいはアセンブラ)にはそれなりの良さがあるし、いざとなったらそういった方法論も必要だろう。しかし、もっぱらいま、フロンティアが存在するのは自動車やJavaプログラミングの領域なんじゃないだろうか。
現代では、自動車を運転し自動車で移動するからこそ、徒歩にはなかった新たな問題にぶつかることが予想される。自動車がこれだけ普及した現在において、自動車の運転技術をないがしろにすることは、運転する人にとっても社会にとっても幸福なこととは言えないはずだ。
せっかく自動車があって、それをうまく運転したり、自動車を改良したりすることで新たな土地に出かけられるのに、そこをないがしろにするわけにはいかない。もちろん、「自動車が壊れたらどうするんだ」、「目的地に近付いたら徒歩で移動するんだろう?」、「遠くに移動する必要はない」という意見があるのも分かる。しかし、どちらかを捨てることが唯一の答なんだろうか。きっと違うよね。
なんとなくだけど、「Javaを教えるな。C言語を教えろ」という意見には賛成できないなぁ。というのも、Javaというのは自動車みたいなものだ。昔はなかったけどいまは使える便利な道具としての自動車。現代において、自動車を運転するスキルというのは十分必要だと誰もが認めるだろう。実はJavaもそういう道具の1つなのではないか。
たとえば自転車。自転車があれば、身の回りをスイスイ素早く走り回って、日常の用事をこなすことができる。自転車で移動できる距離は、自動車には遠く及ばないけれども、身近な場所を走って路地裏を駆け回るなら、小回りをきかせられる自転車が有利だ。
たとえば徒歩。徒歩は自転車よりもスピードが出ない。遠くまで行くこともできない。だけど家の中を歩き回りたいなら、やっぱり自分の足で歩くのが一番だ。山を登ったり、川を渡ったり、自転車にも自動車にも踏破できない場所を、徒歩でなら進むことができる。スピードを気にしなければ、徒歩の有効性は高い。いざというときにも使えるし、「歩くのが下手」というのでは話にならない。
そう。いくら時代が進んでも、歩く技術の重要性は変わらない。それは基本としてすべての人がそなえておくべきスキルと言えるだろう。コンピュータで言うならばアーキテクチャといったところだろうか。しかし、だからといって自動車の運転技術を学ぶ必要がないとはいえない。
現代においては、多くの人が自動車の運転(あるいはJavaやLLやVBAでのプログラミング)技術を使って、仕事や遊びにいかしている。徒歩(あるいはアセンブラ)にはそれなりの良さがあるし、いざとなったらそういった方法論も必要だろう。しかし、もっぱらいま、フロンティアが存在するのは自動車やJavaプログラミングの領域なんじゃないだろうか。
現代では、自動車を運転し自動車で移動するからこそ、徒歩にはなかった新たな問題にぶつかることが予想される。自動車がこれだけ普及した現在において、自動車の運転技術をないがしろにすることは、運転する人にとっても社会にとっても幸福なこととは言えないはずだ。
せっかく自動車があって、それをうまく運転したり、自動車を改良したりすることで新たな土地に出かけられるのに、そこをないがしろにするわけにはいかない。もちろん、「自動車が壊れたらどうするんだ」、「目的地に近付いたら徒歩で移動するんだろう?」、「遠くに移動する必要はない」という意見があるのも分かる。しかし、どちらかを捨てることが唯一の答なんだろうか。きっと違うよね。
2006-11-14
# スパム対策
Webサーバーへのアクセスログを見ると、案外高い頻度でスパムコメントが投稿されているみたい。いまはコメント本文に「NGワード」が含まれているとデータベースに反映しないようにしているのだけど、たまにすり抜けられちゃうんだよなぁ……。ということで、もっと精度の高くて実用的なスパムフィルタリングについて考えてみた。
アクセスログをよく見ると、スパマーは特定のIPアドレスから投稿しているらしいので、送信元IPアドレスでフィルタリングするようにしようかな。たとえば、「NGワード」を含むコメントを受信した場合、送信元IPアドレスを「NGホスト」として記録するの。また、「NGホスト」から投稿されたコメント本文の中に含まれるURLは、「NGワード」に記録してしまうと。
つまり、
「NGワードを投稿するホスト」→「NGホスト」として登録
「NGホストから投稿される文言」→「NGワード」として登録
という感じ。
こうしておくと、データベースが自動的に成長して面白そうだなぁ。ちとやってみようっと。
アクセスログをよく見ると、スパマーは特定のIPアドレスから投稿しているらしいので、送信元IPアドレスでフィルタリングするようにしようかな。たとえば、「NGワード」を含むコメントを受信した場合、送信元IPアドレスを「NGホスト」として記録するの。また、「NGホスト」から投稿されたコメント本文の中に含まれるURLは、「NGワード」に記録してしまうと。
つまり、
「NGワードを投稿するホスト」→「NGホスト」として登録
「NGホストから投稿される文言」→「NGワード」として登録
という感じ。
こうしておくと、データベースが自動的に成長して面白そうだなぁ。ちとやってみようっと。