メッセージ。 - diary
2006-11-08
# 自己愛とか
自己愛は、そりゃあるさ。あっていいものじゃないかと思う。ただ、なんつーのかな。
ほかの人にだっていいところがある。あの人はすごい。すごい賢いとか、すごい鋭いとか。すごい優しいとか、勇気があるとか、ある分野ですごい積み重ねを持ってるとか。自分は持っていないものを、他者の中に見つけることがある。
そういった、「自分は持っていないもの」を、単に好きでいればいいだけじゃないのかなぁ。自分のことも好きだけど、ほかのあの人のことも、この人のことも好き。自己を愛するのと同じだけ他者を愛することができるなら、総体として「自己愛が強すぎる」という状態にはならないと思う。
それでいいんじゃないの? よく知らんけど。そのほうが楽しいように思うべさ。
ほかの人にだっていいところがある。あの人はすごい。すごい賢いとか、すごい鋭いとか。すごい優しいとか、勇気があるとか、ある分野ですごい積み重ねを持ってるとか。自分は持っていないものを、他者の中に見つけることがある。
そういった、「自分は持っていないもの」を、単に好きでいればいいだけじゃないのかなぁ。自分のことも好きだけど、ほかのあの人のことも、この人のことも好き。自己を愛するのと同じだけ他者を愛することができるなら、総体として「自己愛が強すぎる」という状態にはならないと思う。
それでいいんじゃないの? よく知らんけど。そのほうが楽しいように思うべさ。
2006-11-06
# どうでもいい話の扱い
んー。たとえば新山さんの日記なんかを読んでいると、「どうでもいいけど」という書き出しを目にすることが多い(本人もそれを自覚していてパロディにしているフシがある)。
で、その背景にあるメンタリティは、明らかに「世間一般にはきっとどうでもいいことでしょうが」だと思うんだよなぁ。「このような文章を読んでも役には立たないでしょうけど、個人的には面白いと思ったので書きますよ」という感じ。そこには、「すみませんが」とか「でも何か価値があるかもしれない」というニュアンスを含んでいる。
役に立たない文章でお目汚しをして申し訳ないとか、あなたの時間を奪ってしまって申し訳ないとか、面白い文章を書く人の中に、そういうメンタリティを持つ人がいる。ぼくはそういう人の文章が好きだし、そういう人の「どうでもいいけど」は美しいと思う。
「どうでもいいけど」をまったく別の方法で使う人もいるというのは想像にかたくなかったけど。んー。「本当は「どうでもよくない」けど、読んでいただく価値があるかとためらう」もこのリストに含まれていてほしいものだ。
で、その背景にあるメンタリティは、明らかに「世間一般にはきっとどうでもいいことでしょうが」だと思うんだよなぁ。「このような文章を読んでも役には立たないでしょうけど、個人的には面白いと思ったので書きますよ」という感じ。そこには、「すみませんが」とか「でも何か価値があるかもしれない」というニュアンスを含んでいる。
役に立たない文章でお目汚しをして申し訳ないとか、あなたの時間を奪ってしまって申し訳ないとか、面白い文章を書く人の中に、そういうメンタリティを持つ人がいる。ぼくはそういう人の文章が好きだし、そういう人の「どうでもいいけど」は美しいと思う。
「どうでもいいけど」をまったく別の方法で使う人もいるというのは想像にかたくなかったけど。んー。「本当は「どうでもよくない」けど、読んでいただく価値があるかとためらう」もこのリストに含まれていてほしいものだ。
・本当は「どうでもよくない」のに、興味があると思われるのは悔しいので「どうでもよい」と言ってしまう。(意識、無意識纏めて)・本当に「どうでもよい」が、何らかの意図を持って話題にあげる。・中身については「どうでもよい」が、その中身によって起こる現象や状態や影響について興味があり分析を加える。
2006-11-02
# ご意見感謝
2. w3mこれは結構てこずりました。というか、なんとなく釈然としません。昔は、塚本さんのページでw3m+OpenSSL+libgc6というインストールでOK、となっていたんですがlibgccが0.9.8系に上がったのに伴い、yfさんのメッセージ。というHPで公開されている「OpenSSL0.9.8対応w3m」を入れて見たんですが・・・やれlibgcがないとか、libzがいるとか・・・結局動いたんですが、何か釈然としません。でも、ytさんのビルドされたバージョンの動作自体には満足しています。
あーなんか、すみませんすみません。ぼくも結構「よく分からんけど動いてる」という状態でパッケージを作っちゃってるもんで。ちゃんと仕組みを把握して、依存関係とか検証しないとなーとは思っとるんですが、なかなかスキルと時間が追い付かないのです。すんまそん。
2006-11-01
# 言葉の暴れる力とか
ソーシャルブックマークについてというページで、昔の日記に言及していただいているのに気付いた。
で、このコメントを拝見していて思ったのだけど、不快なのは、自分の知らないところで自分の書いたものが罵られていることではなくて、正確には自分を罵る言葉が共感をもって迎えられていることにあるんじゃないだろうか。
つまり、自分を批判し罵る言葉の存在自体が不快なんじゃなくて、自分を批判し罵る言葉や意見が、どこかの人たちに広まっていることが不快なのかなぁ、と。あと、書いたものを罵られることよりも、書いた人間を罵られることのほうが不快な気がする。
はてなブックマークのようなSBS(ソーシャルブックマーク)のコメントは、それを知らない人から見たら恐怖感を感じるものでありうる」という意見があった。自分の知らないところで自分の書いたものが評論され罵倒されているというのは不快だ...
で、このコメントを拝見していて思ったのだけど、不快なのは、自分の知らないところで自分の書いたものが罵られていることではなくて、正確には自分を罵る言葉が共感をもって迎えられていることにあるんじゃないだろうか。
つまり、自分を批判し罵る言葉の存在自体が不快なんじゃなくて、自分を批判し罵る言葉や意見が、どこかの人たちに広まっていることが不快なのかなぁ、と。あと、書いたものを罵られることよりも、書いた人間を罵られることのほうが不快な気がする。