メッセージ。 - diary

2006-10-31

# 「知らない言葉」からつらつらと

うー。チラシの裏。

原稿を作るとき、ぼくが気になるのは「知らない言葉がないかどうか」です。技術文書なんかはとくにそうですけど、専門用語が頻出して、門外漢にとっては読むのが大変なんですよね。

ある一定以上、知らない語句が文章に含まれていると、人はその文章を理解できなく(読む気力がなく)なるように思っています。また、読者が知らないだろう言葉を使うときは、まず定義の説明があって、そのあとその言葉を文章の中で使うべきだと思っています。(逆に言えば、そうなっていない文章が多いです。)

そのほか、あまりにもバズワードが多い文章や、「こんな言い回し、どこの誰がするんだ」という文章も、非常に読みにくいし、「読者に分かってもらおうという意思があるのかな?」と憤りさえ感じてしまうことがあります。

言語感覚にクセがある人っているので、それはそれでしょうがないのですが、本人のためにも、周りのためにもならないなぁと思いながら校正します。また、「読者が知らない(かもしれない)言葉」に対して鈍感な態度を取る人も、「もうちょっと頑張ってくれよぅー」と思いながら校正しています。

そういう文章をいただいた場合、単に文言を変更するだけでなく、前後の段落を入れ替えたり、コラムを追加したり、ブロックレベルで変更しなければいけないことも多いんですよね。もうこうなると、校正か推敲か分からないです。

校正と推敲の境界は本当にあいまいで、多くのケースで編集者が実際にやるのは、校正ではなく推敲になってしまっていると思います。そのこと自体が、良いとか悪いとかは検証の余地があるとは思いますが、とりあえず直近の問題として、自分の文章に手を入れられるのが嫌なら、自分でよく推敲したほうがいいと思うんですよね。

編集者も、やりたくて推敲をしているわけじゃないので。いや、一部にはやりたくてやっているような、人格や技術やセンスに問題のある編集者もいるとは思いますけど。

技術者もそうですけど、編集者も職人的な技を要求されるところが多いです。また、デザインセンス(工業デザインにおけるセンス)のようなものを求められる仕事です。

たとえば、高度な技術で作られたソフトウェアが実際に「デザインに優れたソフトウェア」かというと、そうではないわけで。ソフトウェアの使い勝手が良かったり、メンテナンスしやすかったりすることと、高度な技術が組み込まれているかどうかは、純粋に正比例するわけではないと思うのですよね。

あー脱線しましたけど。言いたかったのは、能力やセンスのない編集者にあたる危険というのもありますねということで。運不運も大きくて一概には言えない。ただ、なんていうんですかねぇ。チームでやるわけですから、お互いの優れた能力を使いあって、結果的に良いものを作りたいと、ぼくは思います。

相手の優れた能力を、ぼくは見くびることはしたくない。チームの構成員には、悪いところもあるけれども、とても優れたところもある。その優れたところは、自分にはないもので、ぜひ使わせてもらいたい。

ぼくが問題を指摘するのは、別に怒っているわけじゃなくて、否定したいわけじゃなくて、「いいところがある」、「この原石には磨く価値がある」と思うからこそ、頑張っているつもりだったりします。まぁ、自分で自分のことを頑張っているなんていうこと自体が、救いようのないアホなんですけど。

なんつーのかなぁ。チームを運営するというのは難しいなぁと。こんなところに書いてないで、直接相手に言えばいいんですけど。でも、なんかそれも違うかなぁという気もするんですよね。言わなきゃ分からないやつには言っても分からないじゃないけど、言わなきゃ分かってもらえないなら、自分のやっていることがまずい可能性もあるわけで。

言葉で発するメッセージと、行動で発するメッセージに齟齬があるのなら、それはよくない状態です。体が右を向いている状態で、「ぼくは左へ行こうと思います」って言うことは良い結果を生まない。ぼくの体が実際に右を向いているつもりでも、相手からそう見えていないのでは、何かどこか解決すべき問題が残っている。まーいつも、そういう状態と戦っております。
2006-10-31 13:37:36 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 0.999...は1か

 
 1/3は0.333… 2/3は0.666…では3/3は0.999…でなくてなんで1になるんでしょうか。子供の頃からずっと疑問に思っていました。
 僕は典型的な文系人間なので、そんな僕にも理解できるように、なるべくわかりやすくお願いします。

少し前にはてなブックマークで話題になっていたやつ。ふと思い出して、考えてみたくなったのでメモ。ポイントは、0.999...は1であるか否か、なんだと思うんだよなぁ……。リンク先のリンク先(Wikipedia?)では、0.999...=1が数学的に証明されているらしいけど、どうも腑に落ちない。

それにしても、これはいい疑問の持ち方だと思う。ふとした疑問を、「なぜだろう?」とずっと考え続けるというのはすごくいい。(「すごくいい」ってのは、「いい」の定義があいまいだけど。とにかくぼくはこの人の精神の有り様が好きだ。)
2006-10-31 09:08:35 / ふじさわ / Comment: 11 / Trackback: 0

# まぁ、それだけじゃないんですけど

趣旨とは違うところに反応してみますが。

 
 ところで私というのは、自分で言うのもなんですが、至極素直な性質でして、なんというか、
 「目の前で相手が何かを力説すれば、とにかくそれをその場では信じる」
 タイプです。
 
 (中略)
 
 私はあくまで「その場では信じる」タイプの人間なので、その場というやつが通り過ぎると、あっという間に正気に戻り、一瞬前の自分を疑ってかかりはじめます。

お前は俺か、と思った。




……どうでもいいけど、こういうタイプの女性は、傾向として魅力的だと思う。映画のヒロインなんかにもありそうだけど、熱いところと冷めたところが共存してて、思わぬところで切り替わるような人。素直な表情と冷めた思考/強い意思みたいなのも高ポイント。いま笑ったと思ったら突然怒りだしたりするのもまたよし。
2006-10-31 00:04:53 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-10-30

# 孤島からビンを流す会

孤島からビンを流す会 だそうです。こういうのもなんかいいですね。ロマンチックな感じがします。


あー。あとそう。ログインしてみて、テキストエリアを目にして、これ、いい感じだなと思いました。「この仕組みなら、気軽に好きなことを書けるかな」って。

たとえばここに置いている文章とかって、どうしても「誰かの役に立つように」と思ったり、「こうやって書いて誤解されないかな、炎上しないかな」と思いながら書いちゃってる部分があります。あ、それとここの読者さんの期待に応えたいなとか。

それはそれで楽しいのですけど。ただ、孤島からビンを流す会のテキストエリアを前にして、「これ、ちょっと楽だな」と感じたのです。ビンを流すというのは、見知らぬたった一人の人に語りかけるわけで、「普段の自分」とか「自分らしさ」みたいなのから解放されたような気がしました。

あと、まだ人が少ないからってのもあるかもしれないけど、孤島でなら、「誰かに会えただけでうれしくなるかなー」という感じもあって、ビンを流すのが気楽にできるような予感を持ちました。孤島という感じがしっくりくるインタフェースもいいっす。
2006-10-30 21:21:37 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# [経済][現代] 「池田信夫 blog:過剰の経済学 」

池田信夫 blog:過剰の経済学

昨日、仕事の合間にちょっと読んで興味深く感じた。スケールの大きい人がいるものだ。あとで再読してもうちょっと考えようっと。
2006-10-30 11:20:26 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 「ほんとの問題はそういうことじゃないのに」

 
 こういう、ホントは互いに言いたいことがあるんだけど片方の不満だけしか表明を許されないようになってしまってる事柄ってなんかあるよなあ… そしてそれが表明された場合、それまで溜まっていた分、具体的な誰か以上に、そのカテゴリー一般に敵意が向けられてしまう(そしてそういう風にとられもする)というのがやりきれない。そしてそれを表明した人に非難が集中する。ほんとの問題はそういうことじゃないのに。

ああ、そう。そういうことってありますね。「ほんとの問題はそういうことじゃないのに」、インターネットを見ているとそう思うことが本当に多い。いや、インターネットだけじゃないか……。

「ある人に非難が集中する」ことってよくあるけど、本質的には、その人が(その人だけが)悪いわけじゃないんだと思う。ただ、皆苦しさを抱えていて、出口を探している。スキを見せる人がいると、そこに一斉に恨みの言葉が投げ込まれる。

みんなその人を嫌いなわけじゃない。その人が悪いわけじゃない。ただ、何かに恨みの言葉をぶつけないと、もうどうしようもないのだろう。そういうストレスが、多くの人をおおっている。

まるで、ネズミの群れが川へ飛び込むように。それで問題が解決するわけじゃなくて、それで救われるわけでもなくて、むしろそれをすれば自分が惨めになるだけなのに、そうせざるを得ない人たちがいる。

だからたぶん、炎上みたいなのは、単なる現象でしかない。誰が悪いわけでもないのに、言説は炎上する。空気が乾燥しているとよく山火事が起こるけど、そんなようなもんだ。気にしすぎないほうがいい。

空気が乾燥するのは誰のせいでもない。そこに山があるのも、誰のせいでもない。山火事が起こるのは、悪いこととは限らない。世の中には、そういうこともあるのだと思う。
2006-10-30 10:20:23 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-10-29

# にゃー。

普段夢はほとんど見ないのですけど、2日ほど前、久しぶりに夢を見ました。
「さくらさんからメールが来た!」という夢でしたょ……。┃*ノノ)
2006-10-29 23:03:45 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-10-28

# 「だまされたと思って」

子供のころからそうなんだけけど、「だまされたと思って○○しろ」の意味が分からないんだよなぁ……。だまされたと思ったら、腹が立ってそれ以上その人の言うことを聞かないっすよ。

それともアレなのかなぁ。「催眠術にかかったように、何も考えずに○○してみろ」ということなのかなぁ。言いたいことは分かるけど、説得力がないしなぁ。「悪いことは言わないから」のほうがまだマシというかそれでも嫌だけど。

「だまされたと思って」と言われても、「じゃあやってみようかな」と思えなさすぎる。全然心を動かされないいんだよなぁ。なんなんだろう。
2006-10-28 18:00:58 / ふじさわ / Comment: 6 / Trackback: 0

# 訪問したページを全て記録して検索(2)

訪問したページを全て記録して検索が案外好評だったので、改良と不具合修正をしてみました。→http://pikapika.to/~yf/source/cproxy-0.02.scm

改良点
・データの保存形式を変更しました。いままではHTTPヘッダーとコンテンツをくっつけて保存していたのが、ヘッダを除いたファイル本体のみ保存するようにしました。
・保存先はYYYY-MM-DD形式のディレクトリ下に、取得したURIをファイル名として保存します。これによって、ファイルブラウザからのアクセス性と閲覧性が向上し、プロキシ動作のレスポンスも向上しています。
・デバッグメッセージというか、アクセスログを適当に標準出力に吐き出していたのを止めました。
・過去ログ閲覧/検索画面が分かりにくかったので、文言を変更するなどしました。

不具合修正
・過去ログの検索で不具合があり、実際には検索できなかったのを修正しました。
2006-10-28 02:58:00 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# うわー。今週のヤングジャンプは表紙が強いっすね〜

川村ゆきえたんえっちぃよハァハァって、手に取ってみたら巻頭グラビアで「こんにちは!藤森沙紀です!」って、なんでやねん!
2006-10-28 01:33:29 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-10-27

# [目からウロコ]

 
 極めつけに「アンタ、一生、その男を養うつもりなの」。
 
 ‥‥つーかさ、自分はずっと夫に養ってもらってるよね。それを不思議だとは思ってないでしょ。専業主婦は人として恥ずかしいからなんでもいいから働けって言われたことがあるんだろうか。

目からウロコでした。言われてみえばたしかになぁ。女が男を養うのだって、別に変なことじゃないかー。なるほどなぁ。
2006-10-27 23:34:07 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 仕事をしていて密かに思っていること

あー。

紙メディアには紙メディアなりの流儀があって、それを知っていて損はないのになぁと思うのですが……。

たとえば、紙のメディアってのはああ見えて、結構日本語表現に気を使っています。文法的におかしな表現をしていないかとか、新語を濫造していないかとか。見えないところで気を使っている部分が多いのですよね。

日本語表現を間違えていると、それを読んだ人が「こんな書き方していいんだ」と考えたりしますし、新語を濫用していると、ついていけない人がでてきます(ご老人とかとくに)。

そういうことがないように、紙メディアの編集者などは普段とても気を使っているのです。たとえば、新聞社や出版社には校正セクションというのがありまして、一日中ゲラを読んで表現の間違いがないか、意味不明瞭なところがないかをチェックしている人たちがいます。

彼らは本当に、一般紙から専門書レベルの文章まで、ありとあらゆるものを「読むプロ」です。「こんな専門家向けの文章、読んでたら絶対寝ちゃうよ」という文章を読んで、間違いを正確に指摘できる彼らを、ぼくは本当にすごいと思います。

紙のメディアに載るということは、いただいた原稿や素材に、メディア側で手を入れてしまうという負の側面も当然あります。ただそれは、間違った表現を直したり、いたずらに読者や作者を傷付けることがないよう手直ししたりするという正の側面もあるのですよね。

そういった側面は、メディアとしてあながち間違っていないように、ぼくは思います。紙のメディアは、ある程度読者の模範となるべき役割を担っている部分がありますし、たくさんの人に理解してもらえるものを作る必要がありますから(それは、日本語表現という意味と、内容面の両方においてです)。

メディアの仕事のクオリティは、各媒体やそこで働いている人の能力による部分も大きいですけど、メディアの裏側には、上でご紹介した校正セクションの人たちのようなプロがいることを、心の片隅に置いていてもらえればなぁと思うのです。

これから既存のメディアは衰退して、インターネットに取ってかわられる部分が少なからずあるでしょう。いまネットで活躍している人たちは、間違いなくその最前線を走り、既存メディアを叩き壊す人たちです。だからこそ、最前線を走る人たちには、既存のメディアの負の側面と、正の側面を知ってもらいたい。

既存メディアには悪いところもあるけど、良いところもある。それらを知って、新しいネットメディアを作るうえでの踏み台としてほしいなぁと思います。
2006-10-27 14:04:24 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# マスコミの報道の仕方について

日本のマスコミは右へならえ傾向が強すぎて、それが問題なんじゃないだろうか。最近の医療事故の報道もそうだし、マンションの耐震偽装問題、三菱自動車炎上問題なんかも同じだけど、ある一社が報道すると、ほかのメディアもこぞって報道するようになる。

「日本の医療はこんなにひどい」とか、「マンション販売の黒い実態」とか。多くのメディアが、同時に同じ話題を扱うので、関係者は袋叩き状態になることが多い。それは、いじめとほとんど変わらない。なんでかなぁと考えてみるに、どのメディアも「右へならえ」をしているのが問題のような気がしてきた。

つまり、ある問題を発見したとき、それを率先して報道するのを皆怖がっているのではないか。「これが問題だ」と声を上げて、間違っていたら責任が自分に来る。また、世論が自分に味方してくれなければ、批判した相手につぶされてしまう。マスコミはそれを怖がっているような気がする。

だから、どこも二番手を演じるのではないか。先頭に立つ者がいれば、二番手以降を走る自分は矢面に立たずにすむ。そうやって、二番手以降のプレイヤーが増えていき、ある程度一対多の構図になればしめたものだ。ある一人のターゲットをたくさんのメディアで攻撃すれば、それぞれのメディアは半匿名の立場に立つことができる。

「これだけたくさんの人間が石を投げていれば、自分のところに反撃の手は及ばないだろう」というムードが、そのときのマスメディアを支配しているように感じられる。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」というやつだ。この社会では、マスメディアでさえ匿名でしか意見しないという現実がそこにある。

奇異に感じるのは、これをマスメディアというcelebrityが行っていることだ。本来、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」というのは、庶民が持つ感覚であり、搾取される側が陥りがちなメンタリティだ。それを、マスメディアが率先して行っているというこの矛盾。celebrityが子供のいじめと何ら変わらないメンタリティで駆動している(ように見える)というのは、危険な感じがする。
2006-10-27 10:45:04 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 日々

影絵:奥山清行の課外授業「デザインは大切な人のために」 - livedoor Blog(ブログ)

NHKの「課外授業ようこそ先輩」、一度見てみたいんだよなぁ……。ということで、重い腰を上げて録画予約した。



影絵:NNNドキュメント「子供たちの心が見えない」 - livedoor Blog(ブログ)

子供たちの心、かぁ……。この文章を読む限り、ぼくらのころとそんなに変わっていないような気がした。

 「どんな先生ならいいの?」という女性スタッフの質問に、女の子はふざけた声で「超イケメン」と答える。

というのは、「誰が来てもダメだよ」っていう諦めのように聞こえる。「誰も私を救えない」というか。でもそれは、裏を返せば、「救ってほしい」という自意識の表れの気がするんだよなぁ。
2006-10-27 09:13:12 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 5年後、10年後

 
 俺はこの先、すごく都合のいい嫁さんが向こうから全部お膳立てして求婚でもしてくれない限り結婚する気ないんで、おそらく一生独り身。普通の老後とか諦めてます。この仕事が何歳まで続けられるものなのかまったく分からんし、要するにノー・フューチャーなわけです。ボケたり寝たきりになったりしたらどうにもならない。
 
 そういうところをあんまり考えずに今生き甲斐になるようなことだけ追いかけて生きている以上、どうなろうが覚悟は出来ている。何か望むとするならば、せめて親が生きてる間はちゃんと稼いで生計を立てて、あまり心配しないで済むようにしてあげたい、ってくらいかな。
 
 最後は別に無縁仏でもいいや。とりあえず暮らしていける程度のお金は欲しい。あとネット環境だけは欲しいなあ。なんらかの創作活動が続けられればいい。
 
 アカギに言わせれば、ギャンブルしているとき以外の日常生活も女もなにもかも、とどのつまりは「休憩」なんだそうで。俺もそんな生き方が理想です。日常的な幸福なんて要りません。創作をするための肉体が維持できればそれでいい。世間が何を言おうが知ったことか。もともと(狭い業界内評価を除いて)世間に褒めてもらったことなんて今までなかったしね。

こういう感じ方はいいなぁ。好きな感じです。
2006-10-27 08:45:19 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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