メッセージ。 - diary
2006-10-12
# ブファッ!
# 職場におばちゃんを導入するのはどうか
SI業界の問題で、「そもそも、コミュニケーションコストが高すぎるんだよなぁ……」と考えていてフト思い付いたんですけど、職場におばちゃんを導入するのはどうでしょう? なんかトラブルがあったときに、「大丈夫。あんたいい仕事してた。あたしゃ見てたよ」とか、「間に合わないんだからしょうがないわよ。あたしが一緒に謝りに行ってあげる」とか言ってくれるの。
こういうおばちゃんがいれば、トラブルとか吹っ飛んじゃうし、細かいことはどうでもよくなって全体としての生産性も上がる気がするんだよなぁ。やっぱり、職場に毒男ばっかりってのはバランスが悪くって、有象無象の悪影響が出ているんじゃないかなぁと思ったり。ソフトの仕様を考えたり打ち合わせしたりするんでも、おばちゃんの(ある意味)無垢なパワーは非常に強力なツールとなる気がする。
こういうおばちゃんがいれば、トラブルとか吹っ飛んじゃうし、細かいことはどうでもよくなって全体としての生産性も上がる気がするんだよなぁ。やっぱり、職場に毒男ばっかりってのはバランスが悪くって、有象無象の悪影響が出ているんじゃないかなぁと思ったり。ソフトの仕様を考えたり打ち合わせしたりするんでも、おばちゃんの(ある意味)無垢なパワーは非常に強力なツールとなる気がする。
# SI業界と多重請け負い
MyNewsJapan NTTデータが偽装請負 直接指示どころか下請け富士ソフト社員を奴隷扱い、指摘後も対応せず
奴隷扱いをうけた飛田さんは可哀想だと思うけど、SI業界ではこのくらいの扱いが普通なんですよね。むしろ、このような形で抗議するのは、業界ではモラルに反するようにさえ感じてしまいます。
なんというか、「道路を制限速度ちょうどで走る人は迷惑」みたいな、そんな感じ。この国では、法律よりも運用が優先されていて、ここで挙げられている多重請け負いも、一般的なIT業界の運用や慣習からそう外れているわけじゃないんですよね。
だから、批判されたNTTデータの人も富士ソフトの人も、「はぁ? じゃあどうすりゃいいのよ」って感じだと思いますよ。「みんなそうしてるし、そうするのが暗黙の了解事項だったはず」って。とくに富士ソフトABCなんて、この業界では劣悪な労働環境で有名な会社です。(記事では「ABC」を省略してるけど、富士ソフトABCですよね?)
# 2006-10-12追記。「富士ソフトABC」は、2006年7月1日に社名を変更して「富士ソフト」になったようです。
また、直接の雇用主である富士ソフトABCに訴えるべきことを、NTTデータが悪いとしてネットに直訴するなんてのも変です。他者に法令を遵守すべきと言うなら、まず自分がそうしなければ。富士ソフトABCの社員として働いているんだから、労働環境に問題があるなら、富士ソフトABCに苦情を言うべき。聞き入れられないなら富士ソフトABCと戦うべきです。なのにそうしないで、こんなところでNTTデータの名前を出したら、名誉毀損が目的と取らざるを得ません。こんな戦い方はやめたほうがいいです。
たしかに、この記事に書かれているT氏の行動は、人間としてどうかと思います。また、NTTデータや富士ソフトABCは法令違反をしていて悪いのかもしれません。でも、本当に悪いのはその二者だけではないのです。業界全体が、ゼネコン構造になっていて法令違反など常態になっているのです。どこでもやっている。だから悪いのは、法令違反を強制しているゼネコン構造か、あるいは多重請け負いを禁止している法律が現実にそぐわないことのはずなんです。どうせやるなら、そっちを問題にしましょうよ。そうでないと、何の解決にもならない。
今回の記事は、私怨から書かれたもののように、ぼくからは見えてしまいます。
奴隷扱いをうけた飛田さんは可哀想だと思うけど、SI業界ではこのくらいの扱いが普通なんですよね。むしろ、このような形で抗議するのは、業界ではモラルに反するようにさえ感じてしまいます。
なんというか、「道路を制限速度ちょうどで走る人は迷惑」みたいな、そんな感じ。この国では、法律よりも運用が優先されていて、ここで挙げられている多重請け負いも、一般的なIT業界の運用や慣習からそう外れているわけじゃないんですよね。
だから、批判されたNTTデータの人も富士ソフトの人も、「はぁ? じゃあどうすりゃいいのよ」って感じだと思いますよ。「みんなそうしてるし、そうするのが暗黙の了解事項だったはず」って。とくに富士ソフトABCなんて、この業界では劣悪な労働環境で有名な会社です。(記事では「ABC」を省略してるけど、富士ソフトABCですよね?)
# 2006-10-12追記。「富士ソフトABC」は、2006年7月1日に社名を変更して「富士ソフト」になったようです。
また、直接の雇用主である富士ソフトABCに訴えるべきことを、NTTデータが悪いとしてネットに直訴するなんてのも変です。他者に法令を遵守すべきと言うなら、まず自分がそうしなければ。富士ソフトABCの社員として働いているんだから、労働環境に問題があるなら、富士ソフトABCに苦情を言うべき。聞き入れられないなら富士ソフトABCと戦うべきです。なのにそうしないで、こんなところでNTTデータの名前を出したら、名誉毀損が目的と取らざるを得ません。こんな戦い方はやめたほうがいいです。
たしかに、この記事に書かれているT氏の行動は、人間としてどうかと思います。また、NTTデータや富士ソフトABCは法令違反をしていて悪いのかもしれません。でも、本当に悪いのはその二者だけではないのです。業界全体が、ゼネコン構造になっていて法令違反など常態になっているのです。どこでもやっている。だから悪いのは、法令違反を強制しているゼネコン構造か、あるいは多重請け負いを禁止している法律が現実にそぐわないことのはずなんです。どうせやるなら、そっちを問題にしましょうよ。そうでないと、何の解決にもならない。
今回の記事は、私怨から書かれたもののように、ぼくからは見えてしまいます。
2006-10-11
# 喋りすぎ
あー。しまったなぁ。今日はごちゃごちゃ喋りすぎた。
喋るのはとても楽しかったけど、自分の言いたいことを言っただけなんじゃないかと自己嫌悪。分かったようなことを言って、ぼくはどれだけ分かっているのか。分かってなんかいないはずだ。ぼくなんかの言うことを、黙って聞いてくれるなんて優しい人たちだ。
言うだけなら誰でもできる。まさしく、ぼくが指摘した罠に、自分がはまってしまっているようで嫌だ。言うだけじゃなくて、やらなきゃいけない。本当にやる気なら、問題がどこにあるかだけじゃなくて、どこに進むべきか、道を指し示さなきゃいけない。
大事なのは、当事者意識をもって問題に取り組むこと。「彼のためにやっているから」とか、「彼がこうしないと嫌がるから」と言い訳しながらやっても、結果は出ない。自分のためにやらなきゃいけない。自分も、チームの仲間も。それがないから失敗するんだ。
喋るのはとても楽しかったけど、自分の言いたいことを言っただけなんじゃないかと自己嫌悪。分かったようなことを言って、ぼくはどれだけ分かっているのか。分かってなんかいないはずだ。ぼくなんかの言うことを、黙って聞いてくれるなんて優しい人たちだ。
言うだけなら誰でもできる。まさしく、ぼくが指摘した罠に、自分がはまってしまっているようで嫌だ。言うだけじゃなくて、やらなきゃいけない。本当にやる気なら、問題がどこにあるかだけじゃなくて、どこに進むべきか、道を指し示さなきゃいけない。
大事なのは、当事者意識をもって問題に取り組むこと。「彼のためにやっているから」とか、「彼がこうしないと嫌がるから」と言い訳しながらやっても、結果は出ない。自分のためにやらなきゃいけない。自分も、チームの仲間も。それがないから失敗するんだ。
# 数値化できない仕事
http://www.jitu.org/~tko/cgi-bin/bakagaiku.rb?bakaid=200610101
いや、格好いいと思いますよ。いつも、格好いいなぁと思いながら拝見しています。
たしかに、数値化できる部分の価値は低いです。自動化できるってことですからね。それはイコール、計算機でもできるってことで。計算機の価格が下がってきた現在では、わざわざそれを人間がやるのって、非効率なんですよね。
そんなの、人間がやるべきじゃない。絶対人間がやるべきじゃない。そう考える人のほうが、計算機技術者として純粋だと思います。また、そう考えて人間にしかできない仕事に取り組む人のほうが、人間として魅力的だと思います。
いや、格好いいと思いますよ。いつも、格好いいなぁと思いながら拝見しています。
たしかに、数値化できる部分の価値は低いです。自動化できるってことですからね。それはイコール、計算機でもできるってことで。計算機の価格が下がってきた現在では、わざわざそれを人間がやるのって、非効率なんですよね。
そんなの、人間がやるべきじゃない。絶対人間がやるべきじゃない。そう考える人のほうが、計算機技術者として純粋だと思います。また、そう考えて人間にしかできない仕事に取り組む人のほうが、人間として魅力的だと思います。
2006-10-10
# さて、どうしましょうね。
どーでもいいことですけど、いまの会社を辞めようかと思っとります。
辞めて何かあてがあるわけじゃないので、プータローをすることになりそうですけど。
生活力は、どっちかと言えばないほうなので、数年後には野垂れ死ぬかもしれません。でもまぁ、それも一興ですかね。いまの場所で、無目的に働き続けるよりは、パーッと何もかも捨てて、好きにやってみたい気がします。
この年になると、我慢ができなくなってくるのかもしれないですね。なんかもー適当でいいやーって気分。やりたいことをやりたいし、しょうもないことで我慢したくないです。もう散々我慢したもの。うまいものを食べて、面白い仕事だけして生きてみたいなぁ。
辞めて何かあてがあるわけじゃないので、プータローをすることになりそうですけど。
生活力は、どっちかと言えばないほうなので、数年後には野垂れ死ぬかもしれません。でもまぁ、それも一興ですかね。いまの場所で、無目的に働き続けるよりは、パーッと何もかも捨てて、好きにやってみたい気がします。
この年になると、我慢ができなくなってくるのかもしれないですね。なんかもー適当でいいやーって気分。やりたいことをやりたいし、しょうもないことで我慢したくないです。もう散々我慢したもの。うまいものを食べて、面白い仕事だけして生きてみたいなぁ。
2006-10-08
# 『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』を観た
岡田斗司夫のプチクリ日記: 「オトナ帝国の逆襲」についてで紹介されていた映画。DVDで借りてきて観たのだけど、すごく面白かった。いままで観た映画の中でも一番面白かったと言っていいぐらい。以下ネタバレありなので要注意。ストーリーをざっと書きますね。
あるとき、しんちゃんたちが暮らす春日部に「20世紀博」がやってきた。そこは、20世紀の街並を再現した家族向けアトラクション施設。20世紀の街並に、20世紀の食べ物、20世紀の流行歌、20世紀の生活を思う存分楽しめる街。大人たちは夢中になり、誰も彼もが20世紀を懐かしみはじめた。ところがある朝、大人たちは急に大人であることをやめてしまった。仕事や家庭を放棄して、20世紀博に行ってしまったのだ。「悪の組織、イエスタデイ・ワンスモアに操られている」。そう勘づいた子供たちは、大人を助けに20世紀博に乗り込み……。といった感じ。
岡田さんは、
この映画は、ラストの直前までノスタルジーの素晴らしさを肯定する。それは確かに、現代に疲弊した我々の心を代弁している。「あのころはよかった」というメッセージで見る人を共感させ、現代に何もないと確認する。そのクライマックスが、岡田さんも挙げている、父ひろしが目を覚ますシーンだ。
でも、目を覚ましたひろしは泣いている。地面に横たわり、小さな子供のように目を閉じて泣いている。それは、現代に生きることのつらさ、かつて生きた時代の素晴らしさを捨てるつらさが原因だったとぼくは思う。目を覚ましたひろしは、大人としてさっと立ち上がり、しんのすけを抱き上げたりはしない。ただそっと、目をつむり泣いたまま、しんのすけを抱きしめる。そこには、「現代に生きるつらさから目を背けたい、できるならこの子を連れてあの頃に暮らしたい」という思いがあったんじゃないかとぼくは感じた。
科学に夢見ることもできず、国家というものの無力を思い知らされ、国境が失われる恐怖が迫り、何を頼りに、何を目指して生きていけばいいか分からない現代。あのころにはあった夕焼けの街や、あのころにあった温もりは、失なわれてしまった。確かに失われてしまった。あのころのほうが、現代よりも良かったじゃないか。現代には何もないじゃないか。現代に生きる人が感じている気持ち、絶望的な状況に対峙する悲しさを、強い力で突き付ける。ところがである。
「過去のほうがよかった。(しんのすけを過去に連れて行って)過去に生きたい」と願ったひろしは、もう一つの解を、観ている人の前に提示する。それは、観客たちの共感だ。この映画は、現代の空虚さ、失なわれてしまったあのころの温もりを徹底的に提示することで、観客たちに共感をもたらした。その共感は、「あのころの温もり」にほかならない。
この映画がもたらすメッセージで、大人も子供も共感する。現代に生きることのつらさや、苦しさを確認し共有する。その共感、匂いは、あのころ確かにあったものだ。ノスタルジーの世界には救いがある。そこに行きたい。だけど、「救い」は完全に失われたわけじゃない。それは現代にも作り出すことができるんだ。現代でだって、皆がちゃんと共感できるじゃないか。何がつらくて、何がほしいのか、みんなでちゃんと分かりあえるじゃないか。
そういうことを、この映画は提示した。それもちゃんと、ファミリー向け映画という枠組みの中で。そう考えると、ファミリー向け映画というものの芯の太さには感嘆する。それは時間つぶしのためのジャンルではない。子供たちに時代というバトンを渡し、未来を作るものだということを、制作者たちはとてもよく分かっている。この映画の真のテーマは、「現在を作る」ことじゃないかと思う。その問題意識と、感受性の鋭さ、子供を見つめる眼差し、そして現実に迫る迫力とスケールの壮大さ。これが素晴らしいと言わないで何と言おう。本当に、大人も子供も楽しめる映画。とても面白かったです。
あるとき、しんちゃんたちが暮らす春日部に「20世紀博」がやってきた。そこは、20世紀の街並を再現した家族向けアトラクション施設。20世紀の街並に、20世紀の食べ物、20世紀の流行歌、20世紀の生活を思う存分楽しめる街。大人たちは夢中になり、誰も彼もが20世紀を懐かしみはじめた。ところがある朝、大人たちは急に大人であることをやめてしまった。仕事や家庭を放棄して、20世紀博に行ってしまったのだ。「悪の組織、イエスタデイ・ワンスモアに操られている」。そう勘づいた子供たちは、大人を助けに20世紀博に乗り込み……。といった感じ。
岡田さんは、
とネガティブに表現しているけど、ぼくはやっぱり、この映画の趣旨は「家族の素晴らしさ」、「現在の素晴らしさ」ではないかなぁと思った(大きな変化球ではあるものの)。この映画のテーマは「家族の素晴らしさ」「現在の素晴らしさ」ではない。
この映画は、ラストの直前までノスタルジーの素晴らしさを肯定する。それは確かに、現代に疲弊した我々の心を代弁している。「あのころはよかった」というメッセージで見る人を共感させ、現代に何もないと確認する。そのクライマックスが、岡田さんも挙げている、父ひろしが目を覚ますシーンだ。
夕焼け迫る大阪万博会場、太陽の塔の前。ひろしは幼い姿、しんのすけと同年代の子供として登場する。「月の石をみたい!」「あんなただの石、見るために3時間も並べない」「ただの石じゃないもん!アポロが月からとってきた月の石だもん!」泣きじゃくるひろしの後ろに、いつのまにかしんのすけが立っている。「父ちゃん、迎えに来たよ。お家に帰ろう」抑えたセリフが逆に緊張感を盛り上げる。しかしひろしはしんのすけを、「大人になった自分」を認めようとはしない。靴下の匂いというギャグを交えた仕掛け。幼い頃のひろしから始まって、セリフいっさいなし・モンタージュのみの奇跡の長尺回想シーンの末、ひろしは目を覚ます。
でも、目を覚ましたひろしは泣いている。地面に横たわり、小さな子供のように目を閉じて泣いている。それは、現代に生きることのつらさ、かつて生きた時代の素晴らしさを捨てるつらさが原因だったとぼくは思う。目を覚ましたひろしは、大人としてさっと立ち上がり、しんのすけを抱き上げたりはしない。ただそっと、目をつむり泣いたまま、しんのすけを抱きしめる。そこには、「現代に生きるつらさから目を背けたい、できるならこの子を連れてあの頃に暮らしたい」という思いがあったんじゃないかとぼくは感じた。
科学に夢見ることもできず、国家というものの無力を思い知らされ、国境が失われる恐怖が迫り、何を頼りに、何を目指して生きていけばいいか分からない現代。あのころにはあった夕焼けの街や、あのころにあった温もりは、失なわれてしまった。確かに失われてしまった。あのころのほうが、現代よりも良かったじゃないか。現代には何もないじゃないか。現代に生きる人が感じている気持ち、絶望的な状況に対峙する悲しさを、強い力で突き付ける。ところがである。
「過去のほうがよかった。(しんのすけを過去に連れて行って)過去に生きたい」と願ったひろしは、もう一つの解を、観ている人の前に提示する。それは、観客たちの共感だ。この映画は、現代の空虚さ、失なわれてしまったあのころの温もりを徹底的に提示することで、観客たちに共感をもたらした。その共感は、「あのころの温もり」にほかならない。
この映画がもたらすメッセージで、大人も子供も共感する。現代に生きることのつらさや、苦しさを確認し共有する。その共感、匂いは、あのころ確かにあったものだ。ノスタルジーの世界には救いがある。そこに行きたい。だけど、「救い」は完全に失われたわけじゃない。それは現代にも作り出すことができるんだ。現代でだって、皆がちゃんと共感できるじゃないか。何がつらくて、何がほしいのか、みんなでちゃんと分かりあえるじゃないか。
そういうことを、この映画は提示した。それもちゃんと、ファミリー向け映画という枠組みの中で。そう考えると、ファミリー向け映画というものの芯の太さには感嘆する。それは時間つぶしのためのジャンルではない。子供たちに時代というバトンを渡し、未来を作るものだということを、制作者たちはとてもよく分かっている。この映画の真のテーマは、「現在を作る」ことじゃないかと思う。その問題意識と、感受性の鋭さ、子供を見つめる眼差し、そして現実に迫る迫力とスケールの壮大さ。これが素晴らしいと言わないで何と言おう。本当に、大人も子供も楽しめる映画。とても面白かったです。
2006-10-06
# 「絶対必要」なもの
インターネットって「絶対必要」? そんなことないよねぇ……? 別にそんなもの、ないならないで別の遊び方があるじゃん。たとえばぼくが江戸時代に生まれてて、インターネットなんかなかったとしても、別の方法でいまと同じだけ毎日を楽しんでいたと思う。みんなもそうでしょ?
なんというか、『インターネットが「絶対必要」』だなんて、与えられたものに依存しすぎな気がする。そんなもの、絶対必要でなんてあるはずがない。たとえば、オープンソースのハッカーたちは、名実ともにインターネットの利用度が最も高い人たちだと思うけど、彼らに聞いて「インターネットは絶対必要」とか言うか? 言わないように思う。
彼らは、「インターネット」がなければ自分で作るはずだ。それは、技術上の制約などから、「インターネット」という名前じゃないかもしれない。だけどきっと、インターネット的なものを彼らは作って、遊ぶと思う。
そもそも彼らが、現在オープンソースのプログラミングで遊んでいるというのは、インターネットを作るという行為と、ある意味論のうえで何の違いもない。オープンソースのハッカーたちが30年前に生まれていたら、きっと彼らはインターネットを作っていただろう。媒体は違うけど、やっていることはどっちもハック。ハックという意味で同じだ。
つまり、相似形をなしている。かつてインターネットを作った人たちは、現在オープンソースのハックをしている人たちと、きっと同じような気持ちで作業していたに違いないから。そしてそれは、オープンソースとか、インターネットとかに限らない。科学技術もそうだろうし、ルネサンスもそうだろうし、未開の地を開拓した人たちもそうだったろう。
「絶対必要」なものなど、本来この世界にはほとんどないんだ。だけど人は、ありもしないレールの上を外れないように歩こうと,毎日キュウキュウする生活に、容易にはまりこむ。つい10年前にはなかったものを、「絶対必要」だと思い込む。「これが絶対必要」だなどと容易に言うならば、それがなかった10年前、あなたの生活はそれほど惨めなものだったのか? 違うでしょう?
「絶対」が軽すぎる。「必要」が軽すぎる。それはつまり、自分が軽すぎるということ。でもそれって、つまらないと思うんだ。軽い絶対、軽い必要、軽い自分は、つまらない。だってそれって、どうでもいいってことでしょう? どうでもいいなんて、つまらないじゃないか。
インターネットが必要って言うけど、そうじゃないよね。もっと本当に必要なものがある。その本当に必要なものが手に入るなら、入手経路がインターネットかどうかなんて、どうでもいい。媒体なんて何だっていいんだ。その先にあるものが大事で、いま手の中にあるものが大事なんだ。どんな媒体でだって、ぼくらはあの目的に向かって突き進む。もっと人は、自分にとって「絶対必要」なものが何か、ちゃんと考えるべきじゃないかな。
なんというか、『インターネットが「絶対必要」』だなんて、与えられたものに依存しすぎな気がする。そんなもの、絶対必要でなんてあるはずがない。たとえば、オープンソースのハッカーたちは、名実ともにインターネットの利用度が最も高い人たちだと思うけど、彼らに聞いて「インターネットは絶対必要」とか言うか? 言わないように思う。
彼らは、「インターネット」がなければ自分で作るはずだ。それは、技術上の制約などから、「インターネット」という名前じゃないかもしれない。だけどきっと、インターネット的なものを彼らは作って、遊ぶと思う。
そもそも彼らが、現在オープンソースのプログラミングで遊んでいるというのは、インターネットを作るという行為と、ある意味論のうえで何の違いもない。オープンソースのハッカーたちが30年前に生まれていたら、きっと彼らはインターネットを作っていただろう。媒体は違うけど、やっていることはどっちもハック。ハックという意味で同じだ。
つまり、相似形をなしている。かつてインターネットを作った人たちは、現在オープンソースのハックをしている人たちと、きっと同じような気持ちで作業していたに違いないから。そしてそれは、オープンソースとか、インターネットとかに限らない。科学技術もそうだろうし、ルネサンスもそうだろうし、未開の地を開拓した人たちもそうだったろう。
「絶対必要」なものなど、本来この世界にはほとんどないんだ。だけど人は、ありもしないレールの上を外れないように歩こうと,毎日キュウキュウする生活に、容易にはまりこむ。つい10年前にはなかったものを、「絶対必要」だと思い込む。「これが絶対必要」だなどと容易に言うならば、それがなかった10年前、あなたの生活はそれほど惨めなものだったのか? 違うでしょう?
「絶対」が軽すぎる。「必要」が軽すぎる。それはつまり、自分が軽すぎるということ。でもそれって、つまらないと思うんだ。軽い絶対、軽い必要、軽い自分は、つまらない。だってそれって、どうでもいいってことでしょう? どうでもいいなんて、つまらないじゃないか。
インターネットが必要って言うけど、そうじゃないよね。もっと本当に必要なものがある。その本当に必要なものが手に入るなら、入手経路がインターネットかどうかなんて、どうでもいい。媒体なんて何だっていいんだ。その先にあるものが大事で、いま手の中にあるものが大事なんだ。どんな媒体でだって、ぼくらはあの目的に向かって突き進む。もっと人は、自分にとって「絶対必要」なものが何か、ちゃんと考えるべきじゃないかな。