メッセージ。 - diary
2006-10-03
# もっとも貴重なリソース
批判しているぼくでさえ、「失敗したらぼくが責任を取ります」と言うことができない。
大きな問題がもう近くに迫っているのに、「いま自分はこっちをやらなきゃいけないから」と
自分に言い聞かせて、些事にかまけてしまう。恐怖から目を逸らしてしまう。
だけど、そんなものに時間をかけても意味がないのだ。やるべきことをやらなければいけない。
そんなこと、ちょっと考えれば誰だって分かる。にもかかわらず、ほとんどの人間は些事にかまけてしまう。
そういうムードになってしまっている。
「やれないからやらない」だって? 馬鹿言うな。やれる。あなたは、やれる。
人間を縛るのは、結局自分自身。自分を騙すのは、自分だ。
コロンブスの卵を発見できる人間というのは、少ない。多くの人が、恐怖を直視できない。
本当は、失敗してもいいから、とにかく何かをやればいいはずなんだ。
でも、失敗を恐れる。いまのままやっていれば、少なくとも失敗はないと思って安心する。
でも、それじゃあ成功もないんだ。待っているのは破滅だけ。それなのに、怖い現実から目を背ける。
それを積極的に乗り越えようという意思を持てない。その結果、ゆでがえるになってしまう。
だからぼくは思うのだ。人間を救うのは、現実を直視する勇気と、現実を見ようとする意思にほかならない。
どれだけ強い力を持っていても、どれだけ賢い頭脳を持っていても、勇気と意思がないならば生き残れない。
勇気と意思こそが、もっとも貴重なリソースなんだ。
大きな問題がもう近くに迫っているのに、「いま自分はこっちをやらなきゃいけないから」と
自分に言い聞かせて、些事にかまけてしまう。恐怖から目を逸らしてしまう。
だけど、そんなものに時間をかけても意味がないのだ。やるべきことをやらなければいけない。
そんなこと、ちょっと考えれば誰だって分かる。にもかかわらず、ほとんどの人間は些事にかまけてしまう。
そういうムードになってしまっている。
「やれないからやらない」だって? 馬鹿言うな。やれる。あなたは、やれる。
人間を縛るのは、結局自分自身。自分を騙すのは、自分だ。
コロンブスの卵を発見できる人間というのは、少ない。多くの人が、恐怖を直視できない。
本当は、失敗してもいいから、とにかく何かをやればいいはずなんだ。
でも、失敗を恐れる。いまのままやっていれば、少なくとも失敗はないと思って安心する。
でも、それじゃあ成功もないんだ。待っているのは破滅だけ。それなのに、怖い現実から目を背ける。
それを積極的に乗り越えようという意思を持てない。その結果、ゆでがえるになってしまう。
だからぼくは思うのだ。人間を救うのは、現実を直視する勇気と、現実を見ようとする意思にほかならない。
どれだけ強い力を持っていても、どれだけ賢い頭脳を持っていても、勇気と意思がないならば生き残れない。
勇気と意思こそが、もっとも貴重なリソースなんだ。
# 日々
・ 2006/10/03(Tue) 00:06:49 レジのとこで、財布から100円玉2つ取り出したつもりが、トレーに載せてみたら 50円玉と 5円玉で、あまりの出鱈目さにびっくりした。
なんか、やたらと可笑しかった。「可笑しい」という字はたぶん生まれて初めて使ったけど、この字がぴったりくる感じ。
それにしても、ricaさんとこみたいに、ちょろっと書いてまたちょろっと仕事に戻れるような、そういうのをうちも欲しいなぁ。
2006-10-01
# Yahoo!はGoogleより確かにいいよ。うん
ちと思考実験をば。
たとえばホームページを作りたくなったとする。どうせなら格好いいホームページにしたい。壁紙は凝ったものを何パターンか用意して、見出しは格好いいフォントを使って。みんなが振り向くようなサイトを作ろう。じゃあ素材探すか。検索してみる。うげーっ! 素材配布サイト大杉! めどい! 「これ使っとけば大丈夫」っていうのないの? え? ヤフーで紹介しているやつ使えばいい? そりゃそうか。みんなそこを使ってるんだもんな。「これ使っとけば大丈夫」のはずだ。よしよし。素材ゲッツ! 変なサイトで探してきた変な素材を使ってたらバカにされるかもしれんけど、ヤフーなら大丈夫だろう。いつもテレビとかでよく聞くし。
こんな感じなんじゃなかろうか。と、ふと思った。やっぱり、自分の専門外のことを知ろうと思ったとき、インターネットは情報大杉だもん。もう、めんどくさい。やってられない。標準的なものをポンと出してほしい。とくに、デザインとかよく分からん分野のものは、ググって深いところ掘っても、それぞれのサイトの良さがよく分からんし。
日本でYahoo!が強いのは、やっぱり「標準的なものが一般的にも良い」と判断するのが妥当だからなのかもしれない。たとえばデザインなんかは、国によって好みの色合いや形がある。でも、日本みたいに比較的均質に人間がいるところでは、そこで標準的に使われているものが(人に見せるという目的がある以上)選ばれるのは自然なことだろう。
デザイン以外の場合はどうか。たとえば、亀田がなんとかっていう雑談、首相がどうしたという話題、流行っている洋服は何か、芸能人がどうしたこうした。そういう話題は他人と共有するために検索するのであって、標準的なもの、誰かが編集して用意してくれたもので十分なのかもしれない。「みんなが使っている」ということが重要なんだろうし、「人手が介している」というのもむしろプラスに感じるのかもしれない。
あくまで受け手としてネットを利用するのなら、「消費するための情報」を提供するサイトとして、GoogleよりもYahoo!のほうが適しているだろうし。日本は比較的ネットの普及率が高いから、「受け手」としてネットを使っているユーザーの比率も高そうだ。とくに日本というのは、文化を浪費するようなところがある。本も芸能人もファッションも、パッと流行ってパッと消えていく。消費のための文化活動を行う傾向が強いのかもしれん。
はっ。気が付けばそういう文章になっていた。
たとえばホームページを作りたくなったとする。どうせなら格好いいホームページにしたい。壁紙は凝ったものを何パターンか用意して、見出しは格好いいフォントを使って。みんなが振り向くようなサイトを作ろう。じゃあ素材探すか。検索してみる。うげーっ! 素材配布サイト大杉! めどい! 「これ使っとけば大丈夫」っていうのないの? え? ヤフーで紹介しているやつ使えばいい? そりゃそうか。みんなそこを使ってるんだもんな。「これ使っとけば大丈夫」のはずだ。よしよし。素材ゲッツ! 変なサイトで探してきた変な素材を使ってたらバカにされるかもしれんけど、ヤフーなら大丈夫だろう。いつもテレビとかでよく聞くし。
こんな感じなんじゃなかろうか。と、ふと思った。やっぱり、自分の専門外のことを知ろうと思ったとき、インターネットは情報大杉だもん。もう、めんどくさい。やってられない。標準的なものをポンと出してほしい。とくに、デザインとかよく分からん分野のものは、ググって深いところ掘っても、それぞれのサイトの良さがよく分からんし。
日本でYahoo!が強いのは、やっぱり「標準的なものが一般的にも良い」と判断するのが妥当だからなのかもしれない。たとえばデザインなんかは、国によって好みの色合いや形がある。でも、日本みたいに比較的均質に人間がいるところでは、そこで標準的に使われているものが(人に見せるという目的がある以上)選ばれるのは自然なことだろう。
デザイン以外の場合はどうか。たとえば、亀田がなんとかっていう雑談、首相がどうしたという話題、流行っている洋服は何か、芸能人がどうしたこうした。そういう話題は他人と共有するために検索するのであって、標準的なもの、誰かが編集して用意してくれたもので十分なのかもしれない。「みんなが使っている」ということが重要なんだろうし、「人手が介している」というのもむしろプラスに感じるのかもしれない。
あくまで受け手としてネットを利用するのなら、「消費するための情報」を提供するサイトとして、GoogleよりもYahoo!のほうが適しているだろうし。日本は比較的ネットの普及率が高いから、「受け手」としてネットを使っているユーザーの比率も高そうだ。とくに日本というのは、文化を浪費するようなところがある。本も芸能人もファッションも、パッと流行ってパッと消えていく。消費のための文化活動を行う傾向が強いのかもしれん。
はっ。気が付けばそういう文章になっていた。
# ハッカーすげえよハッカー!
オープンソースマガジンの「ハッカー養成塾!」という連載を見ていると、「すげぇ」とうなってしまうことがある(うならないこともあるけど)。なんというか、粒がそろいすぎ。リレー形式でバトンを回しているのだけど、面白い人がザクザク掘れる。
感心するのは、彼らの洞察が、計算機以外のいろんなところにも及ぶことだ。たとえばチームワークであるとか、会社経営であるとか、成果を上げるとはどういうことなのかとか。彼らの文章を読んでいると「ああそうか!」と気付かされる。頭のいい人というのがいるのだなぁ。しかも、彼らは頭がいいだけじゃなく、腐らない。「やるべきことをやろう」という姿勢を感じる。
鋭い洞察に気付かされるだけじゃなくて、心を動かされさえするのだ。すごいなぁと思う。なんというか、一般紙(新聞ね)でも十分通用する面白さだと思うんだよなぁ。計算機の世界だけに埋もれさせておくのがもったいないと感じる。けどやっぱり、表に引っ張り出すのは、彼らを不幸にしてしまうのかなぁ……。
2006年10月号で登場した中嶋謙互さんが、「業種は違うが、本田宗一郎氏や井深大氏は、まぎれもなくハッカーだったと思う」と書かれているけど。逆に、養成塾に出てくる人たちを見ていると、「本田さんや井深さんもこんな感じの人だったんだろうな」というぐらい、可能性を感じるときがあるよな。
# ……ちょっと褒めすぎたかもしれない。たまたま面白いのを読んだもので。
感心するのは、彼らの洞察が、計算機以外のいろんなところにも及ぶことだ。たとえばチームワークであるとか、会社経営であるとか、成果を上げるとはどういうことなのかとか。彼らの文章を読んでいると「ああそうか!」と気付かされる。頭のいい人というのがいるのだなぁ。しかも、彼らは頭がいいだけじゃなく、腐らない。「やるべきことをやろう」という姿勢を感じる。
鋭い洞察に気付かされるだけじゃなくて、心を動かされさえするのだ。すごいなぁと思う。なんというか、一般紙(新聞ね)でも十分通用する面白さだと思うんだよなぁ。計算機の世界だけに埋もれさせておくのがもったいないと感じる。けどやっぱり、表に引っ張り出すのは、彼らを不幸にしてしまうのかなぁ……。
2006年10月号で登場した中嶋謙互さんが、「業種は違うが、本田宗一郎氏や井深大氏は、まぎれもなくハッカーだったと思う」と書かれているけど。逆に、養成塾に出てくる人たちを見ていると、「本田さんや井深さんもこんな感じの人だったんだろうな」というぐらい、可能性を感じるときがあるよな。
# ……ちょっと褒めすぎたかもしれない。たまたま面白いのを読んだもので。
2006-09-30
# 口内炎
ぐっすり寝たら、ちょっとマシになった気がする。
肩とか頭とか、まだだいぶ重いけど、よくなるんじゃないかなぁ。
ご心配をおかけしました。
薬について。昨日薬は嫌いだって書いたんですけど、
なんで嫌いかというと、薬というやり方がちょっと
乱暴なような気がするというのも1つの理由なんです。
病気になるのは、原因があると思うのですよね。
いま出ている症状が、生活習慣や、別の病気が遠因となって
引き起こされているのかもしれない。
そう考えるので、薬を飲んで単に症状を抑えるというのは、
どうも嫌なんです。原因を解決しなければ、また問題は
起こるかもしれない。原因を見つけておけば、また次回
同じ問題が起こったときに対処できるし、無理に薬で
症状を抑え込むと、別のところに無理が出る気がするんです。
まぁ、病気にもいろいろあって、十把一絡げにできないとは
思いますが。
なんというか、病気になるのも楽しみたいような気がします。
病気になったとして、なぜ自分が病気になったかを理解できると
うれしいですし、病気とは何かを見つめることには、価値が
あるように思えるんです。
薬というよく分からないもので、なんでか知らないけど
症状が治ったというのは、なんかちょっと面白くない。
病気になるというのも、なにか理由があると思いたい。
体質に原因があるのなら、ご先祖さまはどう対処していたのか
とか、年齢によって起こる病気なら、過去の偉人たちが
その歳ごろにどう感じていたのかな、とか。
そう考えるほうが、何か楽しいんですよね。
肩とか頭とか、まだだいぶ重いけど、よくなるんじゃないかなぁ。
ご心配をおかけしました。
薬について。昨日薬は嫌いだって書いたんですけど、
なんで嫌いかというと、薬というやり方がちょっと
乱暴なような気がするというのも1つの理由なんです。
病気になるのは、原因があると思うのですよね。
いま出ている症状が、生活習慣や、別の病気が遠因となって
引き起こされているのかもしれない。
そう考えるので、薬を飲んで単に症状を抑えるというのは、
どうも嫌なんです。原因を解決しなければ、また問題は
起こるかもしれない。原因を見つけておけば、また次回
同じ問題が起こったときに対処できるし、無理に薬で
症状を抑え込むと、別のところに無理が出る気がするんです。
まぁ、病気にもいろいろあって、十把一絡げにできないとは
思いますが。
なんというか、病気になるのも楽しみたいような気がします。
病気になったとして、なぜ自分が病気になったかを理解できると
うれしいですし、病気とは何かを見つめることには、価値が
あるように思えるんです。
薬というよく分からないもので、なんでか知らないけど
症状が治ったというのは、なんかちょっと面白くない。
病気になるというのも、なにか理由があると思いたい。
体質に原因があるのなら、ご先祖さまはどう対処していたのか
とか、年齢によって起こる病気なら、過去の偉人たちが
その歳ごろにどう感じていたのかな、とか。
そう考えるほうが、何か楽しいんですよね。
2006-09-29
# いかん
またフワフワな文章を書いてしまった。まいっか。
ちなみにご質問を受けたヨーグルトの件ですが、もちろんぼくは甘いのが好きです。ここ数日で、ブルーベリーとかチェリーが入ったのを食べました。だってそっちのほうがおいしいし、ビタミンが入ってそうに思うじゃん? 甘いものが口内炎に良くないなんて、知らなかったよ……。
あ、あと、栄養ドリンクみたいなのは好きじゃないんですよね。。。なんか、「それ目的」っていうのがあまり好きじゃないのです。天邪鬼なので、ストレートに必要なものを欲しがるのが苦手というか。回りくどくいきたいんですよね。中島らもも、「ええか? ものごとというのは、ややこしーくなるようにするんや」とおっしゃる噺家の意見をよく紹介されていました。
それとそれと。同じような理由で、お医者さんも嫌なんすよね。10年に1回ぐらいしか行きません。
ちなみにご質問を受けたヨーグルトの件ですが、もちろんぼくは甘いのが好きです。ここ数日で、ブルーベリーとかチェリーが入ったのを食べました。だってそっちのほうがおいしいし、ビタミンが入ってそうに思うじゃん? 甘いものが口内炎に良くないなんて、知らなかったよ……。
あ、あと、栄養ドリンクみたいなのは好きじゃないんですよね。。。なんか、「それ目的」っていうのがあまり好きじゃないのです。天邪鬼なので、ストレートに必要なものを欲しがるのが苦手というか。回りくどくいきたいんですよね。中島らもも、「ええか? ものごとというのは、ややこしーくなるようにするんや」とおっしゃる噺家の意見をよく紹介されていました。
それとそれと。同じような理由で、お医者さんも嫌なんすよね。10年に1回ぐらいしか行きません。
# 遊びの時間
なんというか、ぼくの中では、「自分の書いたものは100%自分のもの」と思っていないところがある。自分の書いたものが好評だったにせよ、悪評だったにせよ、それはぼくだけの功績ではない、という感じで認識している。
たとえば、アラン・ケイさんに意見したちょっと前の文章は、彼の発言があってはじめて書き得た。また、matakimikaさんに触発されて書いた「常識なんてないっす」という文章も、matakimikaさんの書いたものを読んだからこそ「書いてみよう」という気になった。
ぼくはあの2つの文章を書いて楽しかったけれども、それは彼ら先行者の文章があったからこそ書けたものだ。彼らは十分優秀で、感受性が鋭く、共感させる力がある。彼らのその力が、ぼくの頭と心を耕して、ぼくにあの文章を書かせてくれた。彼らのアイデアや感性が素晴らしいからこそ、ぼくも何かに気付き、また「負けないぞ」と何かを書きたくなった。
逆に、つまらない文章というのも毎日いっぱい目にする。共感できないし、「ハッ」とさせられることもないし、クスリと笑うこともない文章。そういったものを見ても、どうにも何も書く気がおきない。「つまらない」と書く気さえおきない。そんなことするのは時間の無駄だと感じてしまう。
だから、どんな内容にせよ、ぼくが何かを書くときは、その文章に触発されたときだ。「つまらない」と評したときでさえ、「つまらない」と書かせるだけの何かを、その文章から受け取っている。「つまらない」とぼくに書かせた人に、内心ぼくは舌を巻く。「やられちゃったな」と、心の中で頭を掻く。
何かを書いているとき、ぼくは彼らと遊んでいるような気分になる。とても楽しいのだ。怒ったり、悲しんでいるときでさえ、ある意味楽しい。本当は、「遊んでいるような気分になる」どころじゃない。それは完全な遊びで、実際にぼくはそれを「遊び」と呼んでいる。どんな喧嘩をしても、とっくみあいで激論を交わしても、別れぎわには「また遊ぼうね」と言いたくなる。
彼らでなくてはならない。彼らでなくては、ぼくを怒らせることも、悲しませることも、喜ばせることもできない。彼らの鋭い感受性や、正義感や、ウィットや、優しさや、せつなさ、そういったものがぼくの心と頭を震わせる。怒る(否定したくなる)というのも、笑う(肯定したくなる)というのも、どちらも励起という意味で同じ。相手からエネルギーを受け取るからこそ、ぼくは励起する。
そうやって文章を書いているので、ぼくがこのサイトに書いて置いているものは、全部みんなで遊びながら作ったものでしかあり得ない。先行して書いてくれた人との遊び、ぼくが書いたものにコメントやリンクで意見を聞かせてくれた人との遊び。また、じっとそこにいて読んでくれている人たちも大事な遊び相手だ。
ぼくはこの遊びを、「自分が楽しいから」という理由でやっているけれども、でもその遊びの結果を文章にしてここに置けているのは、読んでくれている人がいるからだ。ぼくは文章を書くとき、「読んでいる人が分かるように書こう」と思う。そのとき、ぼくの頭の中では、いろんな人と対話しているのだ。
その人たちが、そこにいてくれるから、ぼくは文章を書きとおせる。「あの人はこの表現で分かってくれるかな」とか、「この文章があの人を悲しませないといいな」と思いながら書く。そして、そうやっていろんな人を想像し対話することで、また新たなインスピレーションが湧く。書ける内容が変わってくる。楽しい。自分の手が何かを書いているけれども、自分の力で書いているなんてとんでもない。
そんな感じ。書くことだけじゃないけれどね。
たとえば、アラン・ケイさんに意見したちょっと前の文章は、彼の発言があってはじめて書き得た。また、matakimikaさんに触発されて書いた「常識なんてないっす」という文章も、matakimikaさんの書いたものを読んだからこそ「書いてみよう」という気になった。
ぼくはあの2つの文章を書いて楽しかったけれども、それは彼ら先行者の文章があったからこそ書けたものだ。彼らは十分優秀で、感受性が鋭く、共感させる力がある。彼らのその力が、ぼくの頭と心を耕して、ぼくにあの文章を書かせてくれた。彼らのアイデアや感性が素晴らしいからこそ、ぼくも何かに気付き、また「負けないぞ」と何かを書きたくなった。
逆に、つまらない文章というのも毎日いっぱい目にする。共感できないし、「ハッ」とさせられることもないし、クスリと笑うこともない文章。そういったものを見ても、どうにも何も書く気がおきない。「つまらない」と書く気さえおきない。そんなことするのは時間の無駄だと感じてしまう。
だから、どんな内容にせよ、ぼくが何かを書くときは、その文章に触発されたときだ。「つまらない」と評したときでさえ、「つまらない」と書かせるだけの何かを、その文章から受け取っている。「つまらない」とぼくに書かせた人に、内心ぼくは舌を巻く。「やられちゃったな」と、心の中で頭を掻く。
何かを書いているとき、ぼくは彼らと遊んでいるような気分になる。とても楽しいのだ。怒ったり、悲しんでいるときでさえ、ある意味楽しい。本当は、「遊んでいるような気分になる」どころじゃない。それは完全な遊びで、実際にぼくはそれを「遊び」と呼んでいる。どんな喧嘩をしても、とっくみあいで激論を交わしても、別れぎわには「また遊ぼうね」と言いたくなる。
彼らでなくてはならない。彼らでなくては、ぼくを怒らせることも、悲しませることも、喜ばせることもできない。彼らの鋭い感受性や、正義感や、ウィットや、優しさや、せつなさ、そういったものがぼくの心と頭を震わせる。怒る(否定したくなる)というのも、笑う(肯定したくなる)というのも、どちらも励起という意味で同じ。相手からエネルギーを受け取るからこそ、ぼくは励起する。
そうやって文章を書いているので、ぼくがこのサイトに書いて置いているものは、全部みんなで遊びながら作ったものでしかあり得ない。先行して書いてくれた人との遊び、ぼくが書いたものにコメントやリンクで意見を聞かせてくれた人との遊び。また、じっとそこにいて読んでくれている人たちも大事な遊び相手だ。
ぼくはこの遊びを、「自分が楽しいから」という理由でやっているけれども、でもその遊びの結果を文章にしてここに置けているのは、読んでくれている人がいるからだ。ぼくは文章を書くとき、「読んでいる人が分かるように書こう」と思う。そのとき、ぼくの頭の中では、いろんな人と対話しているのだ。
その人たちが、そこにいてくれるから、ぼくは文章を書きとおせる。「あの人はこの表現で分かってくれるかな」とか、「この文章があの人を悲しませないといいな」と思いながら書く。そして、そうやっていろんな人を想像し対話することで、また新たなインスピレーションが湧く。書ける内容が変わってくる。楽しい。自分の手が何かを書いているけれども、自分の力で書いているなんてとんでもない。
そんな感じ。書くことだけじゃないけれどね。
# ITmedia +D Blogって、閉鎖するのか……
+D Blogは、この度9月30日をもって終了させていただくこととなりました。これまでのご愛顧、ご愛読ありがとうございました。 なお、9月25日には新たなエントリやコメント・トラックバックができなくなります。また、10月1日以降は、ページ自体を閉鎖させていただくことになります。何卒ご理解いただきますようお願い申し上げます。9月19日 +D Blog事務局 中川純一最新更新日時(2006/09/19 15:12)"
なにそれ……。こんなんでいいの? 読者と書き手はこれで納得できているの? いろいろやりきれなさを感じる。そりゃあ運営側にもいろいろ事情があるんだろうけど……。なんなんだいったい。
率直に言って、9月19日に閉鎖を発表して、10月1日にコンテンツアンリーチャブルって急すぎるように感じる。これまでにエントリを書いた人、コメントを付けた人、そういった人たちの気持ちや、文書の価値、今後誰かが文章を読む可能性、久しぶりに楽しみにページを開いて、何も見つけられない人が今後現れるだろうことを想像すると、この処置が良いものであるか、パッと思いつく限りでは否定的な見解を持ってしまうなぁ……。
消す必要ないっすよね。いや、維持しておくコストとかあるだろうし、コンテンツ自体が運営者にとって毒になるのかもしれないけど。しかし、消すか……? 消してしまうのか? うーん。
たとえばうちのサイトでも、いただいたコメントや、引用させていただいた文章などの扱いに非常に気を遣う(何回も失敗しているけど、一応これでも気を遣っている)。自分の場合は、いただいたコンテンツを(積極的に)消すというのは、よっぽどの苦境時ぐらいだ。
# いい子ぶっても仕方ないので白状すると、上記のようなことを言っていながら、yaswiki.cgiのほうは現在正常に動作していないし、管理人はそれを認識しなら長らく放置している。すみませんすみません。
どっちが「良い」のかはちゃんと議論しなきゃいけない、別の話だけどね。ただ、なんとなく今回の対応は村人っぽいやり方のように感じる。モヒカンやブログ文化からすれば、「置いときゃいいじゃん。もったいない」という心情になる気がする。もったいない。404は、あまり心臓に良いものではないっす。
# 「なぜ、学びはじめるのか」
なぜ、学びはじめるのか、学びに「ハマる」のか、ということである。
小飼さんは、ぼくと同じ結論に達しているみたいだなぁ。
あるいは、ぼくは小飼さんと同じ結論に達しているみたいだなぁ。
結論ではなく通過点かもしれないけど。
# 「好きなことやるほうがいいんです。やってから考えるといいんです。」
# 今晩の投票先は……
http://www.ipa.go.jp/jinzai/esp/2004youth/mdata/99-01.html
「そういや平内さんどうしてるのかなぁ。けっこう好きだったんだけどなぁ……」などと検索していて見つけたページ。笑っちゃった(後ろのほうの図)。こんなの作ってたんだねぇ。元気にしてるのかなぁ。
「そういや平内さんどうしてるのかなぁ。けっこう好きだったんだけどなぁ……」などと検索していて見つけたページ。笑っちゃった(後ろのほうの図)。こんなの作ってたんだねぇ。元気にしてるのかなぁ。
# 『入門Common Lisp』
2006-09-28
# やりたいことを分かっていない企業がSIを使いこなすのは難しい
分裂勘違い君劇場 - 「IT投資」という考え方そのものが間違っている
あ、これは本当によいことを言っていると思った。このレベルまで考えられる人が経営人であって、なおかつ組織が健全であるところ以外は、必要以上にITを導入してもうまくいかないと思う。というのも、ITというのは、高くて使いこなしにくい道具だから。
ITは本に似ている。どれほど良い本を読んでも、その知識をお金に変えられる人は1%とかそんな数になってしまう。それは「そういうもの」。本やシステムを買っても、当初期待したとおり実践するのは難しいし、既存の習慣やシステムともバッティングしがち。
ドラッカーさんの本を読むと、「プロジェクトを成功させるためには、まずどうなったら成功かを定義しなければいけない」ということが書いてあるけど、多くの現場ではそんなことしていない。
「本当にやりたいこと、やるべきことは何か」が見えていないところで、SIが成功するはずないっすよ。要件が、「社内政治に使いたいから」とか「他社が導入しているのでとりあえず入れたい」とかの現場が多すぎる。
だからむしろ、いまやりたいことが決められない企業は、ITの稼働個所を削減してみるとか、人員の異動なども含めたリファクタリングしてみるとかしたほうがいいような気がする。
あ、これは本当によいことを言っていると思った。このレベルまで考えられる人が経営人であって、なおかつ組織が健全であるところ以外は、必要以上にITを導入してもうまくいかないと思う。というのも、ITというのは、高くて使いこなしにくい道具だから。
ITは本に似ている。どれほど良い本を読んでも、その知識をお金に変えられる人は1%とかそんな数になってしまう。それは「そういうもの」。本やシステムを買っても、当初期待したとおり実践するのは難しいし、既存の習慣やシステムともバッティングしがち。
ドラッカーさんの本を読むと、「プロジェクトを成功させるためには、まずどうなったら成功かを定義しなければいけない」ということが書いてあるけど、多くの現場ではそんなことしていない。
「本当にやりたいこと、やるべきことは何か」が見えていないところで、SIが成功するはずないっすよ。要件が、「社内政治に使いたいから」とか「他社が導入しているのでとりあえず入れたい」とかの現場が多すぎる。
だからむしろ、いまやりたいことが決められない企業は、ITの稼働個所を削減してみるとか、人員の異動なども含めたリファクタリングしてみるとかしたほうがいいような気がする。