メッセージ。 - diary
2006-10-08
# 『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』を観た
岡田斗司夫のプチクリ日記: 「オトナ帝国の逆襲」についてで紹介されていた映画。DVDで借りてきて観たのだけど、すごく面白かった。いままで観た映画の中でも一番面白かったと言っていいぐらい。以下ネタバレありなので要注意。ストーリーをざっと書きますね。
あるとき、しんちゃんたちが暮らす春日部に「20世紀博」がやってきた。そこは、20世紀の街並を再現した家族向けアトラクション施設。20世紀の街並に、20世紀の食べ物、20世紀の流行歌、20世紀の生活を思う存分楽しめる街。大人たちは夢中になり、誰も彼もが20世紀を懐かしみはじめた。ところがある朝、大人たちは急に大人であることをやめてしまった。仕事や家庭を放棄して、20世紀博に行ってしまったのだ。「悪の組織、イエスタデイ・ワンスモアに操られている」。そう勘づいた子供たちは、大人を助けに20世紀博に乗り込み……。といった感じ。
岡田さんは、
この映画は、ラストの直前までノスタルジーの素晴らしさを肯定する。それは確かに、現代に疲弊した我々の心を代弁している。「あのころはよかった」というメッセージで見る人を共感させ、現代に何もないと確認する。そのクライマックスが、岡田さんも挙げている、父ひろしが目を覚ますシーンだ。
でも、目を覚ましたひろしは泣いている。地面に横たわり、小さな子供のように目を閉じて泣いている。それは、現代に生きることのつらさ、かつて生きた時代の素晴らしさを捨てるつらさが原因だったとぼくは思う。目を覚ましたひろしは、大人としてさっと立ち上がり、しんのすけを抱き上げたりはしない。ただそっと、目をつむり泣いたまま、しんのすけを抱きしめる。そこには、「現代に生きるつらさから目を背けたい、できるならこの子を連れてあの頃に暮らしたい」という思いがあったんじゃないかとぼくは感じた。
科学に夢見ることもできず、国家というものの無力を思い知らされ、国境が失われる恐怖が迫り、何を頼りに、何を目指して生きていけばいいか分からない現代。あのころにはあった夕焼けの街や、あのころにあった温もりは、失なわれてしまった。確かに失われてしまった。あのころのほうが、現代よりも良かったじゃないか。現代には何もないじゃないか。現代に生きる人が感じている気持ち、絶望的な状況に対峙する悲しさを、強い力で突き付ける。ところがである。
「過去のほうがよかった。(しんのすけを過去に連れて行って)過去に生きたい」と願ったひろしは、もう一つの解を、観ている人の前に提示する。それは、観客たちの共感だ。この映画は、現代の空虚さ、失なわれてしまったあのころの温もりを徹底的に提示することで、観客たちに共感をもたらした。その共感は、「あのころの温もり」にほかならない。
この映画がもたらすメッセージで、大人も子供も共感する。現代に生きることのつらさや、苦しさを確認し共有する。その共感、匂いは、あのころ確かにあったものだ。ノスタルジーの世界には救いがある。そこに行きたい。だけど、「救い」は完全に失われたわけじゃない。それは現代にも作り出すことができるんだ。現代でだって、皆がちゃんと共感できるじゃないか。何がつらくて、何がほしいのか、みんなでちゃんと分かりあえるじゃないか。
そういうことを、この映画は提示した。それもちゃんと、ファミリー向け映画という枠組みの中で。そう考えると、ファミリー向け映画というものの芯の太さには感嘆する。それは時間つぶしのためのジャンルではない。子供たちに時代というバトンを渡し、未来を作るものだということを、制作者たちはとてもよく分かっている。この映画の真のテーマは、「現在を作る」ことじゃないかと思う。その問題意識と、感受性の鋭さ、子供を見つめる眼差し、そして現実に迫る迫力とスケールの壮大さ。これが素晴らしいと言わないで何と言おう。本当に、大人も子供も楽しめる映画。とても面白かったです。
あるとき、しんちゃんたちが暮らす春日部に「20世紀博」がやってきた。そこは、20世紀の街並を再現した家族向けアトラクション施設。20世紀の街並に、20世紀の食べ物、20世紀の流行歌、20世紀の生活を思う存分楽しめる街。大人たちは夢中になり、誰も彼もが20世紀を懐かしみはじめた。ところがある朝、大人たちは急に大人であることをやめてしまった。仕事や家庭を放棄して、20世紀博に行ってしまったのだ。「悪の組織、イエスタデイ・ワンスモアに操られている」。そう勘づいた子供たちは、大人を助けに20世紀博に乗り込み……。といった感じ。
岡田さんは、
とネガティブに表現しているけど、ぼくはやっぱり、この映画の趣旨は「家族の素晴らしさ」、「現在の素晴らしさ」ではないかなぁと思った(大きな変化球ではあるものの)。この映画のテーマは「家族の素晴らしさ」「現在の素晴らしさ」ではない。
この映画は、ラストの直前までノスタルジーの素晴らしさを肯定する。それは確かに、現代に疲弊した我々の心を代弁している。「あのころはよかった」というメッセージで見る人を共感させ、現代に何もないと確認する。そのクライマックスが、岡田さんも挙げている、父ひろしが目を覚ますシーンだ。
夕焼け迫る大阪万博会場、太陽の塔の前。ひろしは幼い姿、しんのすけと同年代の子供として登場する。「月の石をみたい!」「あんなただの石、見るために3時間も並べない」「ただの石じゃないもん!アポロが月からとってきた月の石だもん!」泣きじゃくるひろしの後ろに、いつのまにかしんのすけが立っている。「父ちゃん、迎えに来たよ。お家に帰ろう」抑えたセリフが逆に緊張感を盛り上げる。しかしひろしはしんのすけを、「大人になった自分」を認めようとはしない。靴下の匂いというギャグを交えた仕掛け。幼い頃のひろしから始まって、セリフいっさいなし・モンタージュのみの奇跡の長尺回想シーンの末、ひろしは目を覚ます。
でも、目を覚ましたひろしは泣いている。地面に横たわり、小さな子供のように目を閉じて泣いている。それは、現代に生きることのつらさ、かつて生きた時代の素晴らしさを捨てるつらさが原因だったとぼくは思う。目を覚ましたひろしは、大人としてさっと立ち上がり、しんのすけを抱き上げたりはしない。ただそっと、目をつむり泣いたまま、しんのすけを抱きしめる。そこには、「現代に生きるつらさから目を背けたい、できるならこの子を連れてあの頃に暮らしたい」という思いがあったんじゃないかとぼくは感じた。
科学に夢見ることもできず、国家というものの無力を思い知らされ、国境が失われる恐怖が迫り、何を頼りに、何を目指して生きていけばいいか分からない現代。あのころにはあった夕焼けの街や、あのころにあった温もりは、失なわれてしまった。確かに失われてしまった。あのころのほうが、現代よりも良かったじゃないか。現代には何もないじゃないか。現代に生きる人が感じている気持ち、絶望的な状況に対峙する悲しさを、強い力で突き付ける。ところがである。
「過去のほうがよかった。(しんのすけを過去に連れて行って)過去に生きたい」と願ったひろしは、もう一つの解を、観ている人の前に提示する。それは、観客たちの共感だ。この映画は、現代の空虚さ、失なわれてしまったあのころの温もりを徹底的に提示することで、観客たちに共感をもたらした。その共感は、「あのころの温もり」にほかならない。
この映画がもたらすメッセージで、大人も子供も共感する。現代に生きることのつらさや、苦しさを確認し共有する。その共感、匂いは、あのころ確かにあったものだ。ノスタルジーの世界には救いがある。そこに行きたい。だけど、「救い」は完全に失われたわけじゃない。それは現代にも作り出すことができるんだ。現代でだって、皆がちゃんと共感できるじゃないか。何がつらくて、何がほしいのか、みんなでちゃんと分かりあえるじゃないか。
そういうことを、この映画は提示した。それもちゃんと、ファミリー向け映画という枠組みの中で。そう考えると、ファミリー向け映画というものの芯の太さには感嘆する。それは時間つぶしのためのジャンルではない。子供たちに時代というバトンを渡し、未来を作るものだということを、制作者たちはとてもよく分かっている。この映画の真のテーマは、「現在を作る」ことじゃないかと思う。その問題意識と、感受性の鋭さ、子供を見つめる眼差し、そして現実に迫る迫力とスケールの壮大さ。これが素晴らしいと言わないで何と言おう。本当に、大人も子供も楽しめる映画。とても面白かったです。
2006-10-06
# 「絶対必要」なもの
インターネットって「絶対必要」? そんなことないよねぇ……? 別にそんなもの、ないならないで別の遊び方があるじゃん。たとえばぼくが江戸時代に生まれてて、インターネットなんかなかったとしても、別の方法でいまと同じだけ毎日を楽しんでいたと思う。みんなもそうでしょ?
なんというか、『インターネットが「絶対必要」』だなんて、与えられたものに依存しすぎな気がする。そんなもの、絶対必要でなんてあるはずがない。たとえば、オープンソースのハッカーたちは、名実ともにインターネットの利用度が最も高い人たちだと思うけど、彼らに聞いて「インターネットは絶対必要」とか言うか? 言わないように思う。
彼らは、「インターネット」がなければ自分で作るはずだ。それは、技術上の制約などから、「インターネット」という名前じゃないかもしれない。だけどきっと、インターネット的なものを彼らは作って、遊ぶと思う。
そもそも彼らが、現在オープンソースのプログラミングで遊んでいるというのは、インターネットを作るという行為と、ある意味論のうえで何の違いもない。オープンソースのハッカーたちが30年前に生まれていたら、きっと彼らはインターネットを作っていただろう。媒体は違うけど、やっていることはどっちもハック。ハックという意味で同じだ。
つまり、相似形をなしている。かつてインターネットを作った人たちは、現在オープンソースのハックをしている人たちと、きっと同じような気持ちで作業していたに違いないから。そしてそれは、オープンソースとか、インターネットとかに限らない。科学技術もそうだろうし、ルネサンスもそうだろうし、未開の地を開拓した人たちもそうだったろう。
「絶対必要」なものなど、本来この世界にはほとんどないんだ。だけど人は、ありもしないレールの上を外れないように歩こうと,毎日キュウキュウする生活に、容易にはまりこむ。つい10年前にはなかったものを、「絶対必要」だと思い込む。「これが絶対必要」だなどと容易に言うならば、それがなかった10年前、あなたの生活はそれほど惨めなものだったのか? 違うでしょう?
「絶対」が軽すぎる。「必要」が軽すぎる。それはつまり、自分が軽すぎるということ。でもそれって、つまらないと思うんだ。軽い絶対、軽い必要、軽い自分は、つまらない。だってそれって、どうでもいいってことでしょう? どうでもいいなんて、つまらないじゃないか。
インターネットが必要って言うけど、そうじゃないよね。もっと本当に必要なものがある。その本当に必要なものが手に入るなら、入手経路がインターネットかどうかなんて、どうでもいい。媒体なんて何だっていいんだ。その先にあるものが大事で、いま手の中にあるものが大事なんだ。どんな媒体でだって、ぼくらはあの目的に向かって突き進む。もっと人は、自分にとって「絶対必要」なものが何か、ちゃんと考えるべきじゃないかな。
なんというか、『インターネットが「絶対必要」』だなんて、与えられたものに依存しすぎな気がする。そんなもの、絶対必要でなんてあるはずがない。たとえば、オープンソースのハッカーたちは、名実ともにインターネットの利用度が最も高い人たちだと思うけど、彼らに聞いて「インターネットは絶対必要」とか言うか? 言わないように思う。
彼らは、「インターネット」がなければ自分で作るはずだ。それは、技術上の制約などから、「インターネット」という名前じゃないかもしれない。だけどきっと、インターネット的なものを彼らは作って、遊ぶと思う。
そもそも彼らが、現在オープンソースのプログラミングで遊んでいるというのは、インターネットを作るという行為と、ある意味論のうえで何の違いもない。オープンソースのハッカーたちが30年前に生まれていたら、きっと彼らはインターネットを作っていただろう。媒体は違うけど、やっていることはどっちもハック。ハックという意味で同じだ。
つまり、相似形をなしている。かつてインターネットを作った人たちは、現在オープンソースのハックをしている人たちと、きっと同じような気持ちで作業していたに違いないから。そしてそれは、オープンソースとか、インターネットとかに限らない。科学技術もそうだろうし、ルネサンスもそうだろうし、未開の地を開拓した人たちもそうだったろう。
「絶対必要」なものなど、本来この世界にはほとんどないんだ。だけど人は、ありもしないレールの上を外れないように歩こうと,毎日キュウキュウする生活に、容易にはまりこむ。つい10年前にはなかったものを、「絶対必要」だと思い込む。「これが絶対必要」だなどと容易に言うならば、それがなかった10年前、あなたの生活はそれほど惨めなものだったのか? 違うでしょう?
「絶対」が軽すぎる。「必要」が軽すぎる。それはつまり、自分が軽すぎるということ。でもそれって、つまらないと思うんだ。軽い絶対、軽い必要、軽い自分は、つまらない。だってそれって、どうでもいいってことでしょう? どうでもいいなんて、つまらないじゃないか。
インターネットが必要って言うけど、そうじゃないよね。もっと本当に必要なものがある。その本当に必要なものが手に入るなら、入手経路がインターネットかどうかなんて、どうでもいい。媒体なんて何だっていいんだ。その先にあるものが大事で、いま手の中にあるものが大事なんだ。どんな媒体でだって、ぼくらはあの目的に向かって突き進む。もっと人は、自分にとって「絶対必要」なものが何か、ちゃんと考えるべきじゃないかな。
2006-10-03
# もっとも貴重なリソース
批判しているぼくでさえ、「失敗したらぼくが責任を取ります」と言うことができない。
大きな問題がもう近くに迫っているのに、「いま自分はこっちをやらなきゃいけないから」と
自分に言い聞かせて、些事にかまけてしまう。恐怖から目を逸らしてしまう。
だけど、そんなものに時間をかけても意味がないのだ。やるべきことをやらなければいけない。
そんなこと、ちょっと考えれば誰だって分かる。にもかかわらず、ほとんどの人間は些事にかまけてしまう。
そういうムードになってしまっている。
「やれないからやらない」だって? 馬鹿言うな。やれる。あなたは、やれる。
人間を縛るのは、結局自分自身。自分を騙すのは、自分だ。
コロンブスの卵を発見できる人間というのは、少ない。多くの人が、恐怖を直視できない。
本当は、失敗してもいいから、とにかく何かをやればいいはずなんだ。
でも、失敗を恐れる。いまのままやっていれば、少なくとも失敗はないと思って安心する。
でも、それじゃあ成功もないんだ。待っているのは破滅だけ。それなのに、怖い現実から目を背ける。
それを積極的に乗り越えようという意思を持てない。その結果、ゆでがえるになってしまう。
だからぼくは思うのだ。人間を救うのは、現実を直視する勇気と、現実を見ようとする意思にほかならない。
どれだけ強い力を持っていても、どれだけ賢い頭脳を持っていても、勇気と意思がないならば生き残れない。
勇気と意思こそが、もっとも貴重なリソースなんだ。
大きな問題がもう近くに迫っているのに、「いま自分はこっちをやらなきゃいけないから」と
自分に言い聞かせて、些事にかまけてしまう。恐怖から目を逸らしてしまう。
だけど、そんなものに時間をかけても意味がないのだ。やるべきことをやらなければいけない。
そんなこと、ちょっと考えれば誰だって分かる。にもかかわらず、ほとんどの人間は些事にかまけてしまう。
そういうムードになってしまっている。
「やれないからやらない」だって? 馬鹿言うな。やれる。あなたは、やれる。
人間を縛るのは、結局自分自身。自分を騙すのは、自分だ。
コロンブスの卵を発見できる人間というのは、少ない。多くの人が、恐怖を直視できない。
本当は、失敗してもいいから、とにかく何かをやればいいはずなんだ。
でも、失敗を恐れる。いまのままやっていれば、少なくとも失敗はないと思って安心する。
でも、それじゃあ成功もないんだ。待っているのは破滅だけ。それなのに、怖い現実から目を背ける。
それを積極的に乗り越えようという意思を持てない。その結果、ゆでがえるになってしまう。
だからぼくは思うのだ。人間を救うのは、現実を直視する勇気と、現実を見ようとする意思にほかならない。
どれだけ強い力を持っていても、どれだけ賢い頭脳を持っていても、勇気と意思がないならば生き残れない。
勇気と意思こそが、もっとも貴重なリソースなんだ。
# 日々
・ 2006/10/03(Tue) 00:06:49 レジのとこで、財布から100円玉2つ取り出したつもりが、トレーに載せてみたら 50円玉と 5円玉で、あまりの出鱈目さにびっくりした。
なんか、やたらと可笑しかった。「可笑しい」という字はたぶん生まれて初めて使ったけど、この字がぴったりくる感じ。
それにしても、ricaさんとこみたいに、ちょろっと書いてまたちょろっと仕事に戻れるような、そういうのをうちも欲しいなぁ。
2006-10-01
# Yahoo!はGoogleより確かにいいよ。うん
ちと思考実験をば。
たとえばホームページを作りたくなったとする。どうせなら格好いいホームページにしたい。壁紙は凝ったものを何パターンか用意して、見出しは格好いいフォントを使って。みんなが振り向くようなサイトを作ろう。じゃあ素材探すか。検索してみる。うげーっ! 素材配布サイト大杉! めどい! 「これ使っとけば大丈夫」っていうのないの? え? ヤフーで紹介しているやつ使えばいい? そりゃそうか。みんなそこを使ってるんだもんな。「これ使っとけば大丈夫」のはずだ。よしよし。素材ゲッツ! 変なサイトで探してきた変な素材を使ってたらバカにされるかもしれんけど、ヤフーなら大丈夫だろう。いつもテレビとかでよく聞くし。
こんな感じなんじゃなかろうか。と、ふと思った。やっぱり、自分の専門外のことを知ろうと思ったとき、インターネットは情報大杉だもん。もう、めんどくさい。やってられない。標準的なものをポンと出してほしい。とくに、デザインとかよく分からん分野のものは、ググって深いところ掘っても、それぞれのサイトの良さがよく分からんし。
日本でYahoo!が強いのは、やっぱり「標準的なものが一般的にも良い」と判断するのが妥当だからなのかもしれない。たとえばデザインなんかは、国によって好みの色合いや形がある。でも、日本みたいに比較的均質に人間がいるところでは、そこで標準的に使われているものが(人に見せるという目的がある以上)選ばれるのは自然なことだろう。
デザイン以外の場合はどうか。たとえば、亀田がなんとかっていう雑談、首相がどうしたという話題、流行っている洋服は何か、芸能人がどうしたこうした。そういう話題は他人と共有するために検索するのであって、標準的なもの、誰かが編集して用意してくれたもので十分なのかもしれない。「みんなが使っている」ということが重要なんだろうし、「人手が介している」というのもむしろプラスに感じるのかもしれない。
あくまで受け手としてネットを利用するのなら、「消費するための情報」を提供するサイトとして、GoogleよりもYahoo!のほうが適しているだろうし。日本は比較的ネットの普及率が高いから、「受け手」としてネットを使っているユーザーの比率も高そうだ。とくに日本というのは、文化を浪費するようなところがある。本も芸能人もファッションも、パッと流行ってパッと消えていく。消費のための文化活動を行う傾向が強いのかもしれん。
はっ。気が付けばそういう文章になっていた。
たとえばホームページを作りたくなったとする。どうせなら格好いいホームページにしたい。壁紙は凝ったものを何パターンか用意して、見出しは格好いいフォントを使って。みんなが振り向くようなサイトを作ろう。じゃあ素材探すか。検索してみる。うげーっ! 素材配布サイト大杉! めどい! 「これ使っとけば大丈夫」っていうのないの? え? ヤフーで紹介しているやつ使えばいい? そりゃそうか。みんなそこを使ってるんだもんな。「これ使っとけば大丈夫」のはずだ。よしよし。素材ゲッツ! 変なサイトで探してきた変な素材を使ってたらバカにされるかもしれんけど、ヤフーなら大丈夫だろう。いつもテレビとかでよく聞くし。
こんな感じなんじゃなかろうか。と、ふと思った。やっぱり、自分の専門外のことを知ろうと思ったとき、インターネットは情報大杉だもん。もう、めんどくさい。やってられない。標準的なものをポンと出してほしい。とくに、デザインとかよく分からん分野のものは、ググって深いところ掘っても、それぞれのサイトの良さがよく分からんし。
日本でYahoo!が強いのは、やっぱり「標準的なものが一般的にも良い」と判断するのが妥当だからなのかもしれない。たとえばデザインなんかは、国によって好みの色合いや形がある。でも、日本みたいに比較的均質に人間がいるところでは、そこで標準的に使われているものが(人に見せるという目的がある以上)選ばれるのは自然なことだろう。
デザイン以外の場合はどうか。たとえば、亀田がなんとかっていう雑談、首相がどうしたという話題、流行っている洋服は何か、芸能人がどうしたこうした。そういう話題は他人と共有するために検索するのであって、標準的なもの、誰かが編集して用意してくれたもので十分なのかもしれない。「みんなが使っている」ということが重要なんだろうし、「人手が介している」というのもむしろプラスに感じるのかもしれない。
あくまで受け手としてネットを利用するのなら、「消費するための情報」を提供するサイトとして、GoogleよりもYahoo!のほうが適しているだろうし。日本は比較的ネットの普及率が高いから、「受け手」としてネットを使っているユーザーの比率も高そうだ。とくに日本というのは、文化を浪費するようなところがある。本も芸能人もファッションも、パッと流行ってパッと消えていく。消費のための文化活動を行う傾向が強いのかもしれん。
はっ。気が付けばそういう文章になっていた。
# ハッカーすげえよハッカー!
オープンソースマガジンの「ハッカー養成塾!」という連載を見ていると、「すげぇ」とうなってしまうことがある(うならないこともあるけど)。なんというか、粒がそろいすぎ。リレー形式でバトンを回しているのだけど、面白い人がザクザク掘れる。
感心するのは、彼らの洞察が、計算機以外のいろんなところにも及ぶことだ。たとえばチームワークであるとか、会社経営であるとか、成果を上げるとはどういうことなのかとか。彼らの文章を読んでいると「ああそうか!」と気付かされる。頭のいい人というのがいるのだなぁ。しかも、彼らは頭がいいだけじゃなく、腐らない。「やるべきことをやろう」という姿勢を感じる。
鋭い洞察に気付かされるだけじゃなくて、心を動かされさえするのだ。すごいなぁと思う。なんというか、一般紙(新聞ね)でも十分通用する面白さだと思うんだよなぁ。計算機の世界だけに埋もれさせておくのがもったいないと感じる。けどやっぱり、表に引っ張り出すのは、彼らを不幸にしてしまうのかなぁ……。
2006年10月号で登場した中嶋謙互さんが、「業種は違うが、本田宗一郎氏や井深大氏は、まぎれもなくハッカーだったと思う」と書かれているけど。逆に、養成塾に出てくる人たちを見ていると、「本田さんや井深さんもこんな感じの人だったんだろうな」というぐらい、可能性を感じるときがあるよな。
# ……ちょっと褒めすぎたかもしれない。たまたま面白いのを読んだもので。
感心するのは、彼らの洞察が、計算機以外のいろんなところにも及ぶことだ。たとえばチームワークであるとか、会社経営であるとか、成果を上げるとはどういうことなのかとか。彼らの文章を読んでいると「ああそうか!」と気付かされる。頭のいい人というのがいるのだなぁ。しかも、彼らは頭がいいだけじゃなく、腐らない。「やるべきことをやろう」という姿勢を感じる。
鋭い洞察に気付かされるだけじゃなくて、心を動かされさえするのだ。すごいなぁと思う。なんというか、一般紙(新聞ね)でも十分通用する面白さだと思うんだよなぁ。計算機の世界だけに埋もれさせておくのがもったいないと感じる。けどやっぱり、表に引っ張り出すのは、彼らを不幸にしてしまうのかなぁ……。
2006年10月号で登場した中嶋謙互さんが、「業種は違うが、本田宗一郎氏や井深大氏は、まぎれもなくハッカーだったと思う」と書かれているけど。逆に、養成塾に出てくる人たちを見ていると、「本田さんや井深さんもこんな感じの人だったんだろうな」というぐらい、可能性を感じるときがあるよな。
# ……ちょっと褒めすぎたかもしれない。たまたま面白いのを読んだもので。
2006-09-30
# 口内炎
ぐっすり寝たら、ちょっとマシになった気がする。
肩とか頭とか、まだだいぶ重いけど、よくなるんじゃないかなぁ。
ご心配をおかけしました。
薬について。昨日薬は嫌いだって書いたんですけど、
なんで嫌いかというと、薬というやり方がちょっと
乱暴なような気がするというのも1つの理由なんです。
病気になるのは、原因があると思うのですよね。
いま出ている症状が、生活習慣や、別の病気が遠因となって
引き起こされているのかもしれない。
そう考えるので、薬を飲んで単に症状を抑えるというのは、
どうも嫌なんです。原因を解決しなければ、また問題は
起こるかもしれない。原因を見つけておけば、また次回
同じ問題が起こったときに対処できるし、無理に薬で
症状を抑え込むと、別のところに無理が出る気がするんです。
まぁ、病気にもいろいろあって、十把一絡げにできないとは
思いますが。
なんというか、病気になるのも楽しみたいような気がします。
病気になったとして、なぜ自分が病気になったかを理解できると
うれしいですし、病気とは何かを見つめることには、価値が
あるように思えるんです。
薬というよく分からないもので、なんでか知らないけど
症状が治ったというのは、なんかちょっと面白くない。
病気になるというのも、なにか理由があると思いたい。
体質に原因があるのなら、ご先祖さまはどう対処していたのか
とか、年齢によって起こる病気なら、過去の偉人たちが
その歳ごろにどう感じていたのかな、とか。
そう考えるほうが、何か楽しいんですよね。
肩とか頭とか、まだだいぶ重いけど、よくなるんじゃないかなぁ。
ご心配をおかけしました。
薬について。昨日薬は嫌いだって書いたんですけど、
なんで嫌いかというと、薬というやり方がちょっと
乱暴なような気がするというのも1つの理由なんです。
病気になるのは、原因があると思うのですよね。
いま出ている症状が、生活習慣や、別の病気が遠因となって
引き起こされているのかもしれない。
そう考えるので、薬を飲んで単に症状を抑えるというのは、
どうも嫌なんです。原因を解決しなければ、また問題は
起こるかもしれない。原因を見つけておけば、また次回
同じ問題が起こったときに対処できるし、無理に薬で
症状を抑え込むと、別のところに無理が出る気がするんです。
まぁ、病気にもいろいろあって、十把一絡げにできないとは
思いますが。
なんというか、病気になるのも楽しみたいような気がします。
病気になったとして、なぜ自分が病気になったかを理解できると
うれしいですし、病気とは何かを見つめることには、価値が
あるように思えるんです。
薬というよく分からないもので、なんでか知らないけど
症状が治ったというのは、なんかちょっと面白くない。
病気になるというのも、なにか理由があると思いたい。
体質に原因があるのなら、ご先祖さまはどう対処していたのか
とか、年齢によって起こる病気なら、過去の偉人たちが
その歳ごろにどう感じていたのかな、とか。
そう考えるほうが、何か楽しいんですよね。