メッセージ。 - diary

2006-09-27

# はー。これから自分、どうなるんだろう……

ちなみに、「先生がいない」というのは結構本気で悩んでいるのです。趣味で先生がいないだけならいいけど、仕事でもそうなんですよね……。ぼくは、計算機をやるには学校の勉学を理解できなさすぎたし、文章をやるには正式な訓練を積んでいないので、なんか本当に、基本がなってなくて、毎日いろいろ申し訳ない気分になります。

会社に入っても、真面目にサラリーマンをやれる能力がないみたいなんですよね……。「我流だからこそ、セマンティクスに迫れるのだ」とも思ってたりするのですが、本当にそれが「良い」のかどうかは自信がなく、どっちに行くにせよ行き止まりです。できるだけ人さまに迷惑をかけないようにと祈るばかりです。ほんとに。
2006-09-27 23:23:51 / ふじさわ / Comment: 2 / Trackback: 0

# ヌーの赤ちゃんの話

そういえば、先日テレビの「どうぶつ奇想天外」で、サバンナに暮らすヌーの赤ちゃんを紹介していた。

ヌーの赤ちゃんは、生後すぐに立って歩けるようになり、群にしたがって移動しながら餌場を回遊するようになるらしい。ただし、生まれて1か月ほどの赤ちゃんは、草を食べず、母親の乳だけを口にする。

ところが、テレビで紹介されていた赤ちゃんヌーは、大きな川を渡るときに母親からはぐれてしまった。母親を探してサバンナを歩きまわる赤ちゃん。早く母親に会わなければ、体力を消耗して力尽きてしまう。

危険なサバンナを何日も歩き、同じように母親とはぐれた赤ちゃんヌーと友達になったりしながらの旅。だけどやっぱり、母親には会えなかった。力尽きて木陰で息を引き取ろうとしている2頭の赤ちゃんヌー。もうこれでおしまいか……。

そう思ったとき、1頭の赤ちゃんヌーが突然立ち上がり、草を食べはじめた。通常草を食べないはずの赤ちゃんヌーが、草を食べたのだ。そして彼は、群のもとへ向かった。草を食べるということは、一人前のヌーとして生き始めるということ。乳を飲めず力尽きる赤ちゃんがいる一方で、そうやって生きる赤ちゃんもいる。

これを見たのはつい数日前かなぁ。今日ふと気付いたのだけど、この話はカエルの話と相似形をなしている。ヌーの赤ちゃんも、目の前に大量の草がありながら、それを食べられずに生きたり死んだりする。そのとき、生きる赤ちゃんと死ぬ赤ちゃんの違いが何なのかを、ぼくは知りたい。ぼくは、生きる赤ちゃんが好きだし、尊敬する。そういう風になりたいと思う。

じゃあ実際何が彼らの明暗を分けたのだろう。ぼくはずっとずっと、そういうことを考え続けている。そして思うのだ。明暗を分けたのは、科学とかそういうことなのだろうかと。いや、狭義の科学でなくていい。「科学」という言葉が指し示す何かや、科学に含まれるエッセンスがヌーの赤ちゃんを救ったのだろうか。

ぼくは、科学を否定したいわけじゃない。ただ、知りたいのだ。アラン・ケイさんの言う「科学」とは何なのか。赤ちゃんヌーを救ったものは何だったのか。そういうことを、考えている。
2006-09-27 10:55:23 / ふじさわ / Comment: 4 / Trackback: 0

2006-09-25

# 2つに分けること

ううう。なんか言いたくなるんだよなぁ。

 
 子供が科学で学ぶことの1つは、けっして物事を2つのカテゴリーに分けてはいけないということだ。一見すると、イエスとノー、正と誤に分けなければならない場合であっても。人間の神経システムは、物事を2つのカテゴリーに分けようとする。あなたと私、黒と白、善と悪。これは決定を早くする方法だ。だが科学では、あなたは3つに分類できないか5つはどうかと常に問う。多くのカテゴリーには名前もない。だからこそ難しい。

物事を2つのカテゴリーに分けてしまうのは、むしろ科学のほうだと思うのだよなぁ……。たとえば、「万有引力の法則が存在する」と言った場合、存在するかしないかの二者択一的に世界を把握している。それは、デジタルに世界を扱っているということ。2つのカテゴリでなくn個に分けるとしても、nが有限の数であるならば程度問題にすぎない。言葉を用いた表現は、すべてデジタルにあたる。

たとえば、「空が青い」、「海がきれいだ」、「このリンゴはうまい」、「ドーナツとバウムクーヘンは違う」。青いとか、きれいだとか、うまいとか違うとか、そういったものはデジタルだ。本当は、空は単に青いだけじゃない。薄い雲がかかって透き通るようだったり、西と東で色合いが違ったり、迫り来るような高い空だったり、うだるようにユラユラ揺れていたりする。

究極的には、空の青さや美しさというのは、言葉では表現しきれない。この感動を言葉にしても、100%それを誰かに伝えたり、思い出に残したりすることはできない。すべての景色も、感覚も、一期一会。自分自身でさえ、同じ空や絵や音楽を、見たり聞いたりして感じることは、今日と明日で違う。アナログだから。デジタルのような再現性がない。犬や猫や動物たちは、この世界をアナログのまま感じ理解している。本当は人間もそう。

再現性があるというのは、科学の1つの基本だよね。言葉や言語なくして、科学は成り立たない。だから、科学そのものはデジタルの権化だと思う。そして本質的に、言語による表現というものが、二者択一であったり、デジタルであったりすると思うんだよなぁ……。計算機は言語による表現と計算しかできない。でも人間は違う。計算機で人工知能や意識を作り出せないのは、デジタルであることも大きな理由だと思っとるのです。

物事を2つのカテゴリーに分けようとするのは、人間の神経システムではなくて、言葉だったり西洋思想だったりすると思う。犬も猫も、東洋思想も、あなたと私、黒と白、善と悪をことさら2つに分けようとしていない。あなたがうれしいと私もうれしいという自我境界のあいまいさ、食物連鎖が当たり前のものである野生。「thank you」ではなく「有り難う」。

それらは世界をn個に分けていない。物事を2つやn個のカテゴリーに分けているのは、むしろ(西洋)科学のほうだと思うのだよなぁ。
2006-09-25 23:08:43 / ふじさわ / Comment: 6 / Trackback: 0

# 科学でカエル病は治らない

 
  インタビューで、「餌を見ることができないで飢死するカエル」の話が何度か出てくる。これは以前、ケイ氏がスピーチの中で使った例えで、私たち無知な人間の象徴だ。カエルは動くハエしか餌として認識できないため、死んだハエを目の前に置いても気付かないのだそうだ。逆にボール紙などで作った疑似餌を動かすと飛びつくが、疑似餌だから食べられない。
 
  ケイ氏の話はこう続く。私たちも実はこのカエルと同レベルで、気付かない物事が多い。そしてそれを普通だと思い込み、すぐに二者択一的な考えをする。しかしまず自分が気付いていないということに気付いてみよ。すると、ほかに方法はないか考えるという科学的思考が始められるようになる。世の中の人が皆そのような理性を身につければ、科学は進歩し、短絡的な善悪判断による紛争もなくなるかもしれない。

いいことを言っているし、カエルの話はまさにそのとおりだと思う。ただぼくは、科学がカエル病の特効薬になるとは思わない。

たしかに、500年前のヨーロッパで識字率は1%だったのだろう。いまはもっとずっと高い。だけど、カエル病の人間は増えていないし減ってもいないんじゃないかなぁ。少なくとも近代日本の状況を見ているとそう感じる。科学は、カエル病を直したりはしない。

カエルに比べたら、人間は何百倍も賢いし、たくさんのことを知っているはずだ。だけど、カエルと人間を見比べて、どちらが愚かかを断言するのは難しい。

「科学は進歩し、短絡的な善悪判断による紛争もなくなるかもしれない」と言うけれども、これは間違いだと思うよ。なぜなら、いくら科学が進歩しても、短絡的な善悪判断は、人間の心の中から追い出せないだろうから。

というのも、「善悪」というのは主観的なものだからだ。たとえば「死」。多くの人は「死」を悪に分類するだろう。しかし、死などというものはこの世界に万遍なく存在している。いまこの瞬間も、地球の裏側で、海の底で、空のかなたで、砂漠の砂の中で、人も動物も植物も昆虫も死に瀕している。だけど、それを問題視する人はいないし、実際それは問題じゃない。

誰も死なない世界というのが望まれないからだ。誰も死なないのならば、誰も生まれ得ない。キャパシティは有限だから。ならば、誰かが死ぬしかない。有限なキャパシティ(つまりこの世界)を「善」と見なすなら、「死」もまた善だ。生もまた善。誰かが死に、誰かが生まれるのが「自然」だ。ただ、誰もがみな「自分が死ぬのは嫌」というだけ。

これを、短絡的な善悪判断と言わずして何と言おう。科学的に見て、死は善だ(この世界の、自然を善だとするならば)。だけど多くの人は、死に面して悲しみ、嘆き、それを避けようとする。別の誰かに死を押し付けようとする。それと同じエネルギーは、今日も地球のどこかで紛争に使われている。500年先もきっと同じ。科学的な意味での「善」が「悪」を引き起こしている。

科学は人の魂を救いなどしない。何も変えない。500年前の人類は、いまの人類と同じだけ幸せだったし、きっと500年後の人類も、カエルだって同じだけ幸せだ。ぼくはそう信じる。
2006-09-25 16:49:25 / ふじさわ / Comment: 2 / Trackback: 0

# 素朴な疑問

日本語の問題。

「お金で解決できる問題は、お金で解決したほうがいい」といったことをよく言いたくなるのだけど、このときの表現が冗長に聞こえていやだ。「お金で解決」というフレーズが2つ入っていてイーツとなる。言いかえるとすれば、どういうのがいいかなぁ。

「お金で解決できるならそうしろ」。これは、「そう」が曖昧すぎて、ちゃんと伝わるか不安。
「お金で解決できるならたやすい問題だ」。言いたいことが言えていない感じ。
「お金で解決できる問題に、あなたの貴重な時間を使うな」。これが明確で良いが、「あなた」という一時変数の導入が気になる。for-eachを使うべき個所でfor文を使うような。

そういえば、「x^2=-1を満たす自然数xは存在しない」というのも、嫌なんだよなぁ。xという一時変数を、なぜ使わねばならぬのか。xを使わないで表現できないのか。できなさそうだ。逆に言えば、xのような一時変数を使うほうが、正確な表現ができるのだろうなぁ。……xというのは、いったい何なんだ。
2006-09-25 12:51:19 / ふじさわ / Comment: 2 / Trackback: 0

2006-09-24

# お散歩日和

人から気にかけてもらうのって、ちょっと恥ずかしい気がします。
何か、守られているような気がして。
どうしていいか分からなくなって、変なことをしちゃうかもしれません。
あるいは、お布団をかぶって一日中寝たふりでもしようかという気になります。
今日は本当に、いいお天気。いったいどうしましょう。
2006-09-24 14:47:53 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# スーパーマリオに想う

昔、はじめてスーパーマリオをやったときは、楽しかったなぁ。あれは本当に面白く、ワクワクするようなゲームだった。好きだった。

スーパーマリオのどこが好きだったかというと、つまらないことかもしれないけど、結局のところぼくにとっては、「ジャンプ力がすごい」ということに尽きるのかもしれない。自分の背より高い場所にジャンプできて、降りるときもスーイスイ。頭突きすれば、ブロックさえ壊せてしまう強い脚と頭。

Bボタンを押せば、すごいスピードで走ることができて、さらに遠くまでジャンプできるというのも魅力的だった。スーパーマリオは本当に、やっていて楽しく、ワクワクするゲームだった。

そういうことをつらつら考えていると、あのゲームは『ドラえもん』に近かったのかもしれないなぁなどとも思う。「あんなこといいな。できたらいいな」。まさしくそれを、スーパーマリオは実現していた。亀たちとの戦い、土管につながる不思議な地下世界、深い水の底まで泳ぐことができ、雲の上を走り回る。そう考えると、楽しくないはずがない。

あのゲームは本当に原点であり、子供たちに大きな夢を与えたなぁと思う。
2006-09-24 13:21:31 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-09-21

# どうでもいい話の境界線上で

叫びたいから叫ぶ、かぁ……。

まぁ、それでもいいんだけどね。
ただ、本当はぼくは、伝えたかったんだ。
もし誤解されているなら、「誤解しないで。こうだから大丈夫」って伝えたくて。

でもね。実際にはその人が、誤解しているかどうかすら、ぼくには分からないんだ。
ぼくの言葉がその人にどう伝わって、何を感じてもらっているのか分からない。

そういう状況でさ。そういう人のところに行ってさ。
「誤解しないで。こうだから大丈夫」って言うことに、どれだけの意味があるだろう。
その人は、そもそも誤解なんてしてないかもしれない。
全然違うことを感じているかもしれない。
だとしたら、アホづらさげてその人の前に現れること自体が、誤解を生みかねない。

そういう、言葉の牢獄に、いまは囚われがちだなぁと思って。
「叫びたい」って、ぼくにとっては、「伝えたいけど、それができない」という
感じかもしれないなぁと、思った。

たとえば、「口内炎が痛いよー」とか、「アドバイスありがとう」とか。
そういう日常の何げないことも伝えたい気がする。でも、うまく言葉にならない。
最近は、そういう日々だなぁって。

叫びたいなら、叫べばいい。本当にそうだよね……。
いまはできそうにないけど。ありがとう。
2006-09-21 23:29:41 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 「口内炎には……」

「口内炎には、ビタミンB群のほかに、ビタミンCとカルシウムの摂取が……」と生徒会長が言うので、サラダを買って食べました。あと、「Vitamin Water」とかいうジュース。これで治るかなぁ?
2006-09-21 20:11:52 / ふじさわ / Comment: 2 / Trackback: 0

# いまのネットに常識は存在しないっす

 
 結局のところ、「これが常識だ」「それは常識ではない」という対立は、両者共に「常識外への不寛容」という点で一致しており程度が同じ。

「夜中のメールは非常識かどうか」という問題が昔あって、この件はいろいろ考えたなぁ。そのとき分かったことの1つは、「ネット上に常識は存在しない」ということ。これは定義から明らかなのだ。

というのも、ネットの歴史は浅い。というかネットにいる多くの人の経験が浅い。せいぜい5〜6年とか10年とかの人がほとんどでしょう。そして、その間にもネットに流通するアプリやコンテンツや人はどんどん変わってきたわけで。

そういった過去を考えれば、2006年現在において、そこにいる人たちの間に、共通認識や常識というものが固まっているはずがない。そんな短時間に、常識などというものは形成されない。ゆえに現在のネットに常識というものは存在しない。

「常識」という言葉を持ち出す人は、「言語感覚が粗雑」というよりは、たぶん世界認識の仕方にクセがあるんだと思うなぁ。それは言語感覚というよりメンタリティの問題な気がする。

「自分の身の周りにあるものが常識である」とすぐ判断してしまう考え方は、現在のネットと相性が悪い。常識という言葉には実は、「どこそこの常識」という「地域性」*1が隠されているのだ。なのにほとんどの人はそこを省略している。たぶん作為的に。その作為こそがメンタリティだ。

そして、そういうメンタリティ・考え方は、「そう思いたいからそう思う」という域を脱していない。その考え方は、あまりにも簡単に現実(現在のネット)とコンフリクトを起こしてしまっている。

「そう思いたいからそう思う」こと自体が悪いと、ぼくは思わない。ただ、「そう思いたいからそう思う」自己を知覚していないならば、つまりわざとやっているのでなければ、現実との摩擦や衝突は大きくなるばかりだろうなぁと思うのだ。

自分が、身の周りという村から出て行かず、現実との接触を少なく抑えることができるのなら、つまり遠く離れた文化圏の人とあまり接触しないならば、まぁ常識を判断基準にすればいい気もする。結局のところ、将来的に、ネットはある程度以上クラスタ化(ムラ化)し、多くの人はムラの中で生きていくだろう。

ただ、それが悪いと言ってるわけじゃない。常識など存在しないけれども、だからといって人間が、常識に基づいた判断を完全に、100%捨てるのは難しいと思う。常識を捨てるということは、観念を捨てることに等しい。それは自己を捨てるということだろうし、主体性を捨てることでもあると思う。仏教で言えば悟りの境地なわけで。それができるのは、異邦人でありシャーマンだろうなぁと思っとるっす。ネットにいる全員が、異邦人やシャーマンである必要はないだろうな、と。

# かなり抽象的になってしまった。こんな説明で分かりますかね?

 *1 正確に言えば、地域性だけでなく、時代性や主体性といった要素も隠されている。つまり、いつ誰が、なぜどこで、どのようにといった主観的な要素抜きに常識は説明できない。
2006-09-21 12:15:52 / ふじさわ / Comment: 4 / Trackback: 0

2006-09-20

# 日々

「ああ、秋が来たんだな」。誰もがそうぶやくほどの青い空。

お財布に五千円札が2枚。いつのまに? しかもその隣には二千円札もあるし! 逡巡して、五千円札を店員さんに渡す。

ところで、今日も自分の書いた文章が襲ってきた。最近はもう毎日だ。そこに書いた以上の意味はないのに。後から後から、思い悩む。

なにかが欲しいわけじゃない。そう叫びたい気持ち。でも、なぜ叫ぶの? その叫びを、誰に伝えたいの?

月頭ぐらいから口内炎がたくさん。熱はないけど、風邪っぽい。つかれてるのかなぁ。そう書こうとして、もう半月。やっと書いた。
2006-09-20 20:10:44 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# オタクって脇役好きなんじゃね?

あまり確証は持てないのだけど、オタクってのはそもそも脇役好きな気がする。自分が前面に立ちたくないというような感じ。自ら戦うのではなく、自分の現身を矢面に立たせたいという心情。だからオタクはものを作りたがる。ものを作って、それらを戦わせたり恋愛させたりする。それは、自らの肉体に対するcomplexity・不安感の現れだろうし、さらに言えば、その奥には父性/母性のアンバランスがあると思われる。サド/マゾの構図より、家族の中の自我という観点で捉えたほうが、よりシンプルに説明できるんじゃないかなぁ。
2006-09-20 13:39:37 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 後ろのほうにいたい症候群?

 
 映画というものが他人に語られたり、愛されたり、歴史に残ったりするときには、主な出演俳優と脚本と監督くらいしか話題にならないでしょう。あとは音楽と衣装とセットくらいですね。
 だけど実はそういうひとたちの陰に、大勢の無名なひとたちが集まって、自分たちの技術の限りを尽くしているわけじゃないですか。
 それがいいんですよね。

この感じはぼくもあるなぁ。ぼくの場合は、音楽でこれを意識する。メインボーカルっていうの? 一番前に出ている楽器や声じゃなくて、少し後ろを守ってる楽器や声が好きな感じ。これって、自分がそこを演奏するイメージで感情移入しているのかなぁなどとたまに考えるけどよく分からない。

あと、音楽だけじゃなくて、オタクアニメの艦橋シーンなんかもそう。「なんちゃらかんちゃら、オールグリーンです」、「よし、1番から3番まで砲門開けー!」、「なんちゃらかんちゃら充填、圧力95、砲門開きました!」みたいなやり取り。変なインジケータが(いくつか協調しながら)ニュニュニュニュニュと伸びるところなんかも、そういう感覚を刺激する#1。

背景にいる人たちや機械たちの働きが好きというか。みんなで一生懸命やってるって感じがいいのかなぁ。よく分からない。

 ----
#1 たぶん制作者側はこの心的構図を理解してわざとやっていると思われ、同様の表現はよく見られる。いわゆる「艦橋もの」。
2006-09-20 08:41:10 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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