メッセージ。 - diary
2006-09-19
# Open Source Summit 2006
http://d.hatena.ne.jp/hyoshiok/20060919#p1
http://d.hatena.ne.jp/kinneko/20060916/p2
http://damedame.monyo.com/?date=20060916#p01
あー。行きたかったなぁ。行くべきだったなぁ。
16日だったのかぁ。すっかり忘れてますた。orz
http://d.hatena.ne.jp/kinneko/20060916/p2
http://damedame.monyo.com/?date=20060916#p01
あー。行きたかったなぁ。行くべきだったなぁ。
16日だったのかぁ。すっかり忘れてますた。orz
# 『フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元米国防長官の告白』を観た
フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元米国防長官の告白という映画DVDを借りてきて観た。ケネディ/ジョンソン時代の国防長官として活躍し、第二次世界大戦やベトナム戦争などに間近で携わったというマクナマラ氏。この映画では、85歳になったマクナマラ氏にインタビューし、氏が経験から得たという11の教訓を紹介する。
「人は善をなそうとして悪をなす」という言葉で検索していてたまたま見つけた映画。若くしてフォードの社長に抜擢されながらも、わずか数か月でそれを蹴って国防長官になったマクナマラ氏。アメリカを代表する超エリートの一人だろう。でも、そんなアメリカの超エリートが85歳になって人生を振り返る言葉には、東洋的な無常観に似たものがあって興味深いなぁと思った。
「人は善をなそうとして悪をなす」以外にも、「これで負ければ我々は戦争犯罪人だ」、「目で見た事実が真実であるとは限らない」という言葉が重い。国を動かし、多くの人の命を預ってきた人間が、齢を重ねるにつれ自分の無力さと罪にうちひしがれるのは、どんな気持ちなんだろう。社会的制裁を怖れてか、必要以上に自分の罪を認めたくないようだったが、その声は涙に震えていた。
戦後時間が経って、当時アメリカとベトナムの高官だった人たちが懇談会を持ったときのことも語られていて、そこでのやりとりも興味深い。冷戦のさなか、共産勢力の拡大を防ぐという観点でベトナムに介入していたアメリカは、北ベトナムの人がなぜあれほど抵抗するか理解できなかった。
「なぜあそこまで抵抗したのか? あのままいけば、ベトナム人は最後の一人まで失うかもしれなかったのですよ」と言うマクナマラ氏。かつてのベトナムの高官はこう答えたそうだ。「あなたは歴史を知らないのか」。「我々はもう何百年もの間、中国からの攻撃に抵抗して戦っているのだ。最後の一人になったとしても、我々は独立のために戦っただろう」。
「人は善をなそうとして悪をなす」という言葉で検索していてたまたま見つけた映画。若くしてフォードの社長に抜擢されながらも、わずか数か月でそれを蹴って国防長官になったマクナマラ氏。アメリカを代表する超エリートの一人だろう。でも、そんなアメリカの超エリートが85歳になって人生を振り返る言葉には、東洋的な無常観に似たものがあって興味深いなぁと思った。
「人は善をなそうとして悪をなす」以外にも、「これで負ければ我々は戦争犯罪人だ」、「目で見た事実が真実であるとは限らない」という言葉が重い。国を動かし、多くの人の命を預ってきた人間が、齢を重ねるにつれ自分の無力さと罪にうちひしがれるのは、どんな気持ちなんだろう。社会的制裁を怖れてか、必要以上に自分の罪を認めたくないようだったが、その声は涙に震えていた。
戦後時間が経って、当時アメリカとベトナムの高官だった人たちが懇談会を持ったときのことも語られていて、そこでのやりとりも興味深い。冷戦のさなか、共産勢力の拡大を防ぐという観点でベトナムに介入していたアメリカは、北ベトナムの人がなぜあれほど抵抗するか理解できなかった。
「なぜあそこまで抵抗したのか? あのままいけば、ベトナム人は最後の一人まで失うかもしれなかったのですよ」と言うマクナマラ氏。かつてのベトナムの高官はこう答えたそうだ。「あなたは歴史を知らないのか」。「我々はもう何百年もの間、中国からの攻撃に抵抗して戦っているのだ。最後の一人になったとしても、我々は独立のために戦っただろう」。
2006-09-17
# どうでもいい話の扱い
昨日は久しぶりに、友達らとお酒を飲みに行ったのだけど、延々どうでもいい話に終始して考えさせられるものがあった。1年ぶりに会ったというのに、人はどうして、どうでもいい話に時間を費やすのかなぁ。
ぼく自身は、場の空気を壊さないよう相槌を打ったり、ごくたまにツッコミを入れたりしていた。でも、本当は、ああいうのは苦手だ。頭の中ではずっと、その場の人たちがどうでもいい話を楽しめているのかや、どうすれば場の空気を変えられるのかを考えていた。
ここで、どうでもいい話というのは、「どこそこの散髪屋に行っていくらで髪を切っているとか」、「先月は旅行に行って、ああだったこうだった」というような話。そりゃあ確かに、そういう話で近況を知ることはできるけれども。でも、「それで?」。「それで何を、どうして、ぼくやあなたは知りたいの?」と思ってしまう。
ぼく自身は、場の空気を壊さないよう相槌を打ったり、ごくたまにツッコミを入れたりしていた。でも、本当は、ああいうのは苦手だ。頭の中ではずっと、その場の人たちがどうでもいい話を楽しめているのかや、どうすれば場の空気を変えられるのかを考えていた。
ここで、どうでもいい話というのは、「どこそこの散髪屋に行っていくらで髪を切っているとか」、「先月は旅行に行って、ああだったこうだった」というような話。そりゃあ確かに、そういう話で近況を知ることはできるけれども。でも、「それで?」。「それで何を、どうして、ぼくやあなたは知りたいの?」と思ってしまう。
# 意味
意味は、共通の体験や価値観を媒介として伝えられる。
たとえば、計算機と人間の間で意思疎通ができないのは、共通の体験も価値観も持たないからだ。計算機は体験というものをしない(いや、「体験」しなくもないかもしれない。ただ、少なくともそれは人間とはだいぶ違った方法であるだろう)。また、価値観というものを持たない。
一方で、動物と人間は比較的意思疎通できているように感じられる。たとえば飼い犬の様子を見ていると、一人でいるときは寂しそうにし、夜寝ているときは満足そうに思われる。信頼関係を築くことができるし、何が相手を傷付け、何が相手に好ましいと思わせるかを「知る」ことができる。
たとえば、計算機と人間の間で意思疎通ができないのは、共通の体験も価値観も持たないからだ。計算機は体験というものをしない(いや、「体験」しなくもないかもしれない。ただ、少なくともそれは人間とはだいぶ違った方法であるだろう)。また、価値観というものを持たない。
一方で、動物と人間は比較的意思疎通できているように感じられる。たとえば飼い犬の様子を見ていると、一人でいるときは寂しそうにし、夜寝ているときは満足そうに思われる。信頼関係を築くことができるし、何が相手を傷付け、何が相手に好ましいと思わせるかを「知る」ことができる。
2006-09-15
# 「もうGoogleでいいんじゃないか?」という見方
「もうグーグルでなくてもいいんじゃないか?」という見方 - CNET Japanという記事を読んで逆に思った。「もうGoogleでいいんじゃないか?」。この記事にあるような、一番使いやすく一番便利なものを、誰もが求めているわけじゃない。bestではなく、good enoughでいいんだ。
こないだ書いた「Rubyらしさ」とも関連するけど、PerlとかWindowsとかPHPとか、技術的には全然bestじゃないものが市場を支配することが多い。誰もがbestを見分けられるわけじゃないし、bestを見付けるにもコストが発生する。ならば、市場にとってはむしろgood enoughこそがbestなのかもしれない。日本でYahoo!が強かったりするのも、そういうところにあるんじゃないかなぁ。
こないだ書いた「Rubyらしさ」とも関連するけど、PerlとかWindowsとかPHPとか、技術的には全然bestじゃないものが市場を支配することが多い。誰もがbestを見分けられるわけじゃないし、bestを見付けるにもコストが発生する。ならば、市場にとってはむしろgood enoughこそがbestなのかもしれない。日本でYahoo!が強かったりするのも、そういうところにあるんじゃないかなぁ。
2006-09-14
# 面白さについて
http://nnri.dip.jp/~yf/momoka.cgi?op=readmsg&id=1640 は何がそんなに面白かったのか、面白さというのはなんなのか、ちょっと分かったような気がするので書いてみる。
あのとき、ぼくの中で「リリン」というのは予想外だった。C言語やプログラミングについての話をしているときに、エヴァンゲリオンのキャラクターや世界観について、ぼくは考えない。それらのボキャブラリは、ぼくの頭の中で、いや心の中で相当遠い位置に配置されていて、どちらかのことを考えているときは、もう一方について発想がつながらないのだ。
たぶん、心の中でそれらボキャブラリは、分類・セグメント化され管理されているのだろうと思う。もうちょっと言えば、層状になっているか、2ないし3次元的な空間において、距離を置いて配置されている。
一方でぼくは、誰かの文章を読んだり、誰かの話を聞いたりするときに、続きをある程度予測しながら内容を理解しようとしている。出てくる言葉を心の中の一時領域に配置し、「これについて語ろうとしているな」とか、「この人はこういう風にものごとを考える人なんだな」と思いながら話を聞いている。
# 蛇足ながら、ぼくはこれを一種の追体験であり、自分とは別人格を自分内部にロードするという心理クローニング(コピー)であると考えている。つまり、コミュニケーションとは、他者の人格を自己内部に取り込んでものごとを多面的に見たり、なにかの行為が許されるか否かを判断する基準としているだろうと。
人の話を聞くとき、人は自分との共通点を探したり、自分との相違点を見つけたりして、この世界と自己と他者を理解していくのだ。ところが、ぼくの心の中で、C言語の話題とエヴァンゲリオンの話題はあまりにも遠い。それらのボキャブラリは別セグメントに配置され、相似性という鍵も見出せない状態にある。両者を混在して扱うという発想が、まったくないのだ。
ぼくは、あろはたんのプログラミング話はよく理解できたし(理解できる気がするし)、ボキャブラリの心理内配置についても近いと感じている。また、ジョジョやエヴァンゲリオンといった嗜好についても、ある程度近いものがある。しかし、それらはぼくの中で、あまりにも強固にセグメント化されている。プログラミングの話からエヴァへ突然振られても、ぼくの心の中でボキャブラリスタックが伸びない。
そのどうしようもなさ、放り投げられた感じ、混ぜるな危険的な感じが、面白かった。予想を裏切られてパニックになったというか、心理クローニングをハックされたというか。面白さというのはそういうものであるように思った。
あのとき、ぼくの中で「リリン」というのは予想外だった。C言語やプログラミングについての話をしているときに、エヴァンゲリオンのキャラクターや世界観について、ぼくは考えない。それらのボキャブラリは、ぼくの頭の中で、いや心の中で相当遠い位置に配置されていて、どちらかのことを考えているときは、もう一方について発想がつながらないのだ。
たぶん、心の中でそれらボキャブラリは、分類・セグメント化され管理されているのだろうと思う。もうちょっと言えば、層状になっているか、2ないし3次元的な空間において、距離を置いて配置されている。
一方でぼくは、誰かの文章を読んだり、誰かの話を聞いたりするときに、続きをある程度予測しながら内容を理解しようとしている。出てくる言葉を心の中の一時領域に配置し、「これについて語ろうとしているな」とか、「この人はこういう風にものごとを考える人なんだな」と思いながら話を聞いている。
# 蛇足ながら、ぼくはこれを一種の追体験であり、自分とは別人格を自分内部にロードするという心理クローニング(コピー)であると考えている。つまり、コミュニケーションとは、他者の人格を自己内部に取り込んでものごとを多面的に見たり、なにかの行為が許されるか否かを判断する基準としているだろうと。
人の話を聞くとき、人は自分との共通点を探したり、自分との相違点を見つけたりして、この世界と自己と他者を理解していくのだ。ところが、ぼくの心の中で、C言語の話題とエヴァンゲリオンの話題はあまりにも遠い。それらのボキャブラリは別セグメントに配置され、相似性という鍵も見出せない状態にある。両者を混在して扱うという発想が、まったくないのだ。
ぼくは、あろはたんのプログラミング話はよく理解できたし(理解できる気がするし)、ボキャブラリの心理内配置についても近いと感じている。また、ジョジョやエヴァンゲリオンといった嗜好についても、ある程度近いものがある。しかし、それらはぼくの中で、あまりにも強固にセグメント化されている。プログラミングの話からエヴァへ突然振られても、ぼくの心の中でボキャブラリスタックが伸びない。
そのどうしようもなさ、放り投げられた感じ、混ぜるな危険的な感じが、面白かった。予想を裏切られてパニックになったというか、心理クローニングをハックされたというか。面白さというのはそういうものであるように思った。
2006-09-13
# 人間は間違える
だが、それがいい。
あっ。そう! まさしくそのとおりだと思う。本当に価値のある表現って、素直に「感じたことをありのまま話したもの」なんだよ。自分の感じたことが、間違ってたり、偏ってたりすると恥ずかしいけど。でも、表に出さないことには直せない。軌道修正できない。人間というのは、この小さな窓からしか世界を見れない。いつも一面的だ。だけど、みんながいる。自分以外の人から、世界がどんな風に見えるか教えてもらえばいい。
優れた人は、そうやって価値観を修正していく。ものごとを多面的に見て、真実に近付いていく。そしてどんどん優れたアウトプットを出していくんだ。だからむしろ、あなたの発言は間違っててもいい。間違っているかもしれないことを、表に出せるというのは勇気だ。そして、勇気こそが、有り難い。勇気にこそ価値がある。優れた科学者には子供っぽい人が多いというけど、勇気というものを、それと意識せずに使えるポジティブフィードバック回路を備えているからだというのがぼくの考え。
だからね。優れた科学者とかそういうのでなくても、みんなどんどん間違ったことを言えばいいと思う。普通の人が、日々感じる何げないことがすごく美しい。偏ってたり、間違ってたりしても、素直に感じたことでさえあれば面白い。それこそが本物の意味であり、価値なんだとぼくは思う。
むしろ人前に公開するインフォーマルな文章というものは,多分に間違いや恥ずかしさを含んでいるような内容の方が望ましいのではないか ?もしこっぴどく批判などされたらシメタもの.別の方向から考える良いきっかけになる.# とはいえまぁ,現実には大多数はスルーされてしまうか.それだけならまだしも,正面からアイデンティティーを明らかにして (実名である必要は特に無い) 自分の意見も言うことさえできないようなクズばっかりの Web 上では,リスクが高すぎるのかもしれませんが.なんで,その人の「意見,主張」に対する批判なのに,それを即「人格まるごと」への攻撃と受け取る人間ばっかりなのかなぁ.僕にはあまり理解できない.そういう恥ずかしいことは言わないで,立派に見えそうな意見だけを厳選して話すっていう姿勢は,無難で賢明なのかもしれないけど,進歩が無い.ある程度の社会的地位を持ってしまい,発言に影響力が出てしまうと,そういうことが気軽にできなくなるから,人間としての成長は止まってしまう.上に行けば行くほど,人間は無能になっていくのは必然の理.
あっ。そう! まさしくそのとおりだと思う。本当に価値のある表現って、素直に「感じたことをありのまま話したもの」なんだよ。自分の感じたことが、間違ってたり、偏ってたりすると恥ずかしいけど。でも、表に出さないことには直せない。軌道修正できない。人間というのは、この小さな窓からしか世界を見れない。いつも一面的だ。だけど、みんながいる。自分以外の人から、世界がどんな風に見えるか教えてもらえばいい。
優れた人は、そうやって価値観を修正していく。ものごとを多面的に見て、真実に近付いていく。そしてどんどん優れたアウトプットを出していくんだ。だからむしろ、あなたの発言は間違っててもいい。間違っているかもしれないことを、表に出せるというのは勇気だ。そして、勇気こそが、有り難い。勇気にこそ価値がある。優れた科学者には子供っぽい人が多いというけど、勇気というものを、それと意識せずに使えるポジティブフィードバック回路を備えているからだというのがぼくの考え。
だからね。優れた科学者とかそういうのでなくても、みんなどんどん間違ったことを言えばいいと思う。普通の人が、日々感じる何げないことがすごく美しい。偏ってたり、間違ってたりしても、素直に感じたことでさえあれば面白い。それこそが本物の意味であり、価値なんだとぼくは思う。
# ブファッ
# ソフトウェアと「らしさ」の関係
遅れても困る人はいない , リリースは政治パフォーマンスなんだよ。という話。外野があれこれ言うとややこしくなるから、言わないほうがいいかなぁと思いつつ。まぁ、ぼくは全然当事者じゃないので、もしなにかの参考になればと一言書いてみる。
Rubyのリリースポリシーについては、良くも悪くも「Rubyはああだから」という共通認識があると思う(オープンソースにどっぷりつかっている人の間に)。それは「まつもとさんらしさ」を体現するものであって、いい面も悪い面もあるけど、コアユーザーにとっては予測可能だ。そして、予測可能イコール信頼可能ということで。むしろ世間に迎合してフラフラされるほうが、道具としてのRubyの使い勝手を落とすような気がする。
一方で、そういった「Rubyらしさ」、「まつもとさんらしさ」を漂白してしまうというのも、ある意味有効だろうと予測される。物々交換→貨幣経済というように、媒体の透過性を高めることで、流通コストは激減し広く普及できるようになるだろうから。「らしさ」を排除することで、「コアユーザーにとっては予測可能」だったものが、「一般ユーザーにとって予測可能」になるはず。だから、もっと多くのユーザーに、当たり前のものとして使ってもらえるようになるためには、「らしさ」を排除してしまうというのは1つの手かもしれない。
……ただ、やっぱり現時点で「らしさ」の排除は無用な気がするかな。たとえばLinuxはLinusという人の癖が強いからこそ、あそこまで広まっている。また、とても癖が強くふつうの人には使いにくいPerlという言語も、とくに問題なく受け容れられている。Windowsもまぁ同様で、強いパーソナリティを持っている。これらの事例から、「らしさ」を排除し世間におもねることは、現時点でそれほど有効じゃないんじゃないかな。ソフトウェアというのはまだ十分属人的で、アートの領域を脱しきっていない(それが良いか悪いかは別として)。
「リリースは政治パフォーマンス」であり、政治パフォーマンスが重要だと言うならば、RubyがRubyらしくあり、まつもとさんの色を濃く反映していることは、まさに政治パフォーマンス上プラスに働くはず。海外からの声として「日本で開発されているからか、とても雰囲気が良い。使っていて楽しくなる」と評されたりしているのも象徴的だろう。いまのRubyは、何の色もないいい子ちゃんよりは、ちゃんと色の付いた愛されるキャラクターになりつつあると思う。開発者が集まって求心力を得られているのも、Rubyらしさのゆえだろう。ならば、いま大きな流れを変える必要は、あまりないんじゃないかなぁ。
……って、的外れかもしれないけど、なんかそういう文章になってしまった。このまま置いときます。
Rubyのリリースポリシーについては、良くも悪くも「Rubyはああだから」という共通認識があると思う(オープンソースにどっぷりつかっている人の間に)。それは「まつもとさんらしさ」を体現するものであって、いい面も悪い面もあるけど、コアユーザーにとっては予測可能だ。そして、予測可能イコール信頼可能ということで。むしろ世間に迎合してフラフラされるほうが、道具としてのRubyの使い勝手を落とすような気がする。
一方で、そういった「Rubyらしさ」、「まつもとさんらしさ」を漂白してしまうというのも、ある意味有効だろうと予測される。物々交換→貨幣経済というように、媒体の透過性を高めることで、流通コストは激減し広く普及できるようになるだろうから。「らしさ」を排除することで、「コアユーザーにとっては予測可能」だったものが、「一般ユーザーにとって予測可能」になるはず。だから、もっと多くのユーザーに、当たり前のものとして使ってもらえるようになるためには、「らしさ」を排除してしまうというのは1つの手かもしれない。
……ただ、やっぱり現時点で「らしさ」の排除は無用な気がするかな。たとえばLinuxはLinusという人の癖が強いからこそ、あそこまで広まっている。また、とても癖が強くふつうの人には使いにくいPerlという言語も、とくに問題なく受け容れられている。Windowsもまぁ同様で、強いパーソナリティを持っている。これらの事例から、「らしさ」を排除し世間におもねることは、現時点でそれほど有効じゃないんじゃないかな。ソフトウェアというのはまだ十分属人的で、アートの領域を脱しきっていない(それが良いか悪いかは別として)。
「リリースは政治パフォーマンス」であり、政治パフォーマンスが重要だと言うならば、RubyがRubyらしくあり、まつもとさんの色を濃く反映していることは、まさに政治パフォーマンス上プラスに働くはず。海外からの声として「日本で開発されているからか、とても雰囲気が良い。使っていて楽しくなる」と評されたりしているのも象徴的だろう。いまのRubyは、何の色もないいい子ちゃんよりは、ちゃんと色の付いた愛されるキャラクターになりつつあると思う。開発者が集まって求心力を得られているのも、Rubyらしさのゆえだろう。ならば、いま大きな流れを変える必要は、あまりないんじゃないかなぁ。
……って、的外れかもしれないけど、なんかそういう文章になってしまった。このまま置いときます。