メッセージ。 - diary

2006-09-29

# いかん

またフワフワな文章を書いてしまった。まいっか。

ちなみにご質問を受けたヨーグルトの件ですが、もちろんぼくは甘いのが好きです。ここ数日で、ブルーベリーとかチェリーが入ったのを食べました。だってそっちのほうがおいしいし、ビタミンが入ってそうに思うじゃん? 甘いものが口内炎に良くないなんて、知らなかったよ……。

あ、あと、栄養ドリンクみたいなのは好きじゃないんですよね。。。なんか、「それ目的」っていうのがあまり好きじゃないのです。天邪鬼なので、ストレートに必要なものを欲しがるのが苦手というか。回りくどくいきたいんですよね。中島らもも、「ええか? ものごとというのは、ややこしーくなるようにするんや」とおっしゃる噺家の意見をよく紹介されていました。

それとそれと。同じような理由で、お医者さんも嫌なんすよね。10年に1回ぐらいしか行きません。
2006-09-29 23:47:23 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 遊びの時間

なんというか、ぼくの中では、「自分の書いたものは100%自分のもの」と思っていないところがある。自分の書いたものが好評だったにせよ、悪評だったにせよ、それはぼくだけの功績ではない、という感じで認識している。

たとえば、アラン・ケイさんに意見したちょっと前の文章は、彼の発言があってはじめて書き得た。また、matakimikaさんに触発されて書いた「常識なんてないっす」という文章も、matakimikaさんの書いたものを読んだからこそ「書いてみよう」という気になった。

ぼくはあの2つの文章を書いて楽しかったけれども、それは彼ら先行者の文章があったからこそ書けたものだ。彼らは十分優秀で、感受性が鋭く、共感させる力がある。彼らのその力が、ぼくの頭と心を耕して、ぼくにあの文章を書かせてくれた。彼らのアイデアや感性が素晴らしいからこそ、ぼくも何かに気付き、また「負けないぞ」と何かを書きたくなった。

逆に、つまらない文章というのも毎日いっぱい目にする。共感できないし、「ハッ」とさせられることもないし、クスリと笑うこともない文章。そういったものを見ても、どうにも何も書く気がおきない。「つまらない」と書く気さえおきない。そんなことするのは時間の無駄だと感じてしまう。

だから、どんな内容にせよ、ぼくが何かを書くときは、その文章に触発されたときだ。「つまらない」と評したときでさえ、「つまらない」と書かせるだけの何かを、その文章から受け取っている。「つまらない」とぼくに書かせた人に、内心ぼくは舌を巻く。「やられちゃったな」と、心の中で頭を掻く。

何かを書いているとき、ぼくは彼らと遊んでいるような気分になる。とても楽しいのだ。怒ったり、悲しんでいるときでさえ、ある意味楽しい。本当は、「遊んでいるような気分になる」どころじゃない。それは完全な遊びで、実際にぼくはそれを「遊び」と呼んでいる。どんな喧嘩をしても、とっくみあいで激論を交わしても、別れぎわには「また遊ぼうね」と言いたくなる。

彼らでなくてはならない。彼らでなくては、ぼくを怒らせることも、悲しませることも、喜ばせることもできない。彼らの鋭い感受性や、正義感や、ウィットや、優しさや、せつなさ、そういったものがぼくの心と頭を震わせる。怒る(否定したくなる)というのも、笑う(肯定したくなる)というのも、どちらも励起という意味で同じ。相手からエネルギーを受け取るからこそ、ぼくは励起する。

そうやって文章を書いているので、ぼくがこのサイトに書いて置いているものは、全部みんなで遊びながら作ったものでしかあり得ない。先行して書いてくれた人との遊び、ぼくが書いたものにコメントやリンクで意見を聞かせてくれた人との遊び。また、じっとそこにいて読んでくれている人たちも大事な遊び相手だ。

ぼくはこの遊びを、「自分が楽しいから」という理由でやっているけれども、でもその遊びの結果を文章にしてここに置けているのは、読んでくれている人がいるからだ。ぼくは文章を書くとき、「読んでいる人が分かるように書こう」と思う。そのとき、ぼくの頭の中では、いろんな人と対話しているのだ。

その人たちが、そこにいてくれるから、ぼくは文章を書きとおせる。「あの人はこの表現で分かってくれるかな」とか、「この文章があの人を悲しませないといいな」と思いながら書く。そして、そうやっていろんな人を想像し対話することで、また新たなインスピレーションが湧く。書ける内容が変わってくる。楽しい。自分の手が何かを書いているけれども、自分の力で書いているなんてとんでもない。

そんな感じ。書くことだけじゃないけれどね。
2006-09-29 22:21:48 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# ITmedia +D Blogって、閉鎖するのか……

  +D Blogは、この度9月30日をもって終了させていただくこととなりました。これまでのご愛顧、ご愛読ありがとうございました。 なお、9月25日には新たなエントリやコメント・トラックバックができなくなります。また、10月1日以降は、ページ自体を閉鎖させていただくことになります。何卒ご理解いただきますようお願い申し上げます。
 
 9月19日 +D Blog事務局 中川純一
 
 最新更新日時(2006/09/19 15:12)"

なにそれ……。こんなんでいいの? 読者と書き手はこれで納得できているの? いろいろやりきれなさを感じる。そりゃあ運営側にもいろいろ事情があるんだろうけど……。なんなんだいったい。

率直に言って、9月19日に閉鎖を発表して、10月1日にコンテンツアンリーチャブルって急すぎるように感じる。これまでにエントリを書いた人、コメントを付けた人、そういった人たちの気持ちや、文書の価値、今後誰かが文章を読む可能性、久しぶりに楽しみにページを開いて、何も見つけられない人が今後現れるだろうことを想像すると、この処置が良いものであるか、パッと思いつく限りでは否定的な見解を持ってしまうなぁ……。

消す必要ないっすよね。いや、維持しておくコストとかあるだろうし、コンテンツ自体が運営者にとって毒になるのかもしれないけど。しかし、消すか……? 消してしまうのか? うーん。

たとえばうちのサイトでも、いただいたコメントや、引用させていただいた文章などの扱いに非常に気を遣う(何回も失敗しているけど、一応これでも気を遣っている)。自分の場合は、いただいたコンテンツを(積極的に)消すというのは、よっぽどの苦境時ぐらいだ。
# いい子ぶっても仕方ないので白状すると、上記のようなことを言っていながら、yaswiki.cgiのほうは現在正常に動作していないし、管理人はそれを認識しなら長らく放置している。すみませんすみません。

どっちが「良い」のかはちゃんと議論しなきゃいけない、別の話だけどね。ただ、なんとなく今回の対応は村人っぽいやり方のように感じる。モヒカンやブログ文化からすれば、「置いときゃいいじゃん。もったいない」という心情になる気がする。もったいない。404は、あまり心臓に良いものではないっす。
2006-09-29 15:57:37 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 「なぜ、学びはじめるのか」

 
 なぜ、学びはじめるのか、学びに「ハマる」のか、ということである。

小飼さんは、ぼくと同じ結論に達しているみたいだなぁ。
あるいは、ぼくは小飼さんと同じ結論に達しているみたいだなぁ。
結論ではなく通過点かもしれないけど。
2006-09-29 15:28:08 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# それにしても口内炎が痛い。

今回できたのは喉の奥。喉の奥にできる口内炎って痛いんだよね……。
口の奥にナイフをくわえているような感じ。なにかじんじんと金属の味がする。

ちゃんと歯を磨いて、夜は早めに寝て、ヨーグルトを食べるようにして。
いい子にしているのに全然治らない。まぁ予想はしていたことだけど。

寝るとき、あごの下に湿布を貼ると気持ちいい。
でも、もう何日目だ。
だんだん、口内炎が痛いというより、
あごの下のジンジンが原因のような気がしてくる。やっぱりそうなのか。
嵐よ早く去ってくれ。
2006-09-29 02:57:51 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 「好きなことやるほうがいいんです。やってから考えるといいんです。」

http://slashdot.jp/~tanikawa/journal/

かぁ……。シンプルな言葉って、力強いなぁ。はげまされました。
2006-09-29 02:40:55 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 今晩の投票先は……

http://www.ipa.go.jp/jinzai/esp/2004youth/mdata/99-01.html

「そういや平内さんどうしてるのかなぁ。けっこう好きだったんだけどなぁ……」などと検索していて見つけたページ。笑っちゃった(後ろのほうの図)。こんなの作ってたんだねぇ。元気にしてるのかなぁ。
2006-09-29 01:45:15 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 『入門Common Lisp』

MYCOM BOOKS - 入門Common Lisp〜関数型4つの特徴とλ計算

なにこの本? 出るって言ってたっけ? そういやOn Lispまだー? おかーさーん。
2006-09-29 01:31:21 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-09-28

# やりたいことを分かっていない企業がSIを使いこなすのは難しい

分裂勘違い君劇場 - 「IT投資」という考え方そのものが間違っている

あ、これは本当によいことを言っていると思った。このレベルまで考えられる人が経営人であって、なおかつ組織が健全であるところ以外は、必要以上にITを導入してもうまくいかないと思う。というのも、ITというのは、高くて使いこなしにくい道具だから。

ITは本に似ている。どれほど良い本を読んでも、その知識をお金に変えられる人は1%とかそんな数になってしまう。それは「そういうもの」。本やシステムを買っても、当初期待したとおり実践するのは難しいし、既存の習慣やシステムともバッティングしがち。

ドラッカーさんの本を読むと、「プロジェクトを成功させるためには、まずどうなったら成功かを定義しなければいけない」ということが書いてあるけど、多くの現場ではそんなことしていない。

「本当にやりたいこと、やるべきことは何か」が見えていないところで、SIが成功するはずないっすよ。要件が、「社内政治に使いたいから」とか「他社が導入しているのでとりあえず入れたい」とかの現場が多すぎる。

だからむしろ、いまやりたいことが決められない企業は、ITの稼働個所を削減してみるとか、人員の異動なども含めたリファクタリングしてみるとかしたほうがいいような気がする。
2006-09-28 15:06:13 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-09-27

# はー。これから自分、どうなるんだろう……

ちなみに、「先生がいない」というのは結構本気で悩んでいるのです。趣味で先生がいないだけならいいけど、仕事でもそうなんですよね……。ぼくは、計算機をやるには学校の勉学を理解できなさすぎたし、文章をやるには正式な訓練を積んでいないので、なんか本当に、基本がなってなくて、毎日いろいろ申し訳ない気分になります。

会社に入っても、真面目にサラリーマンをやれる能力がないみたいなんですよね……。「我流だからこそ、セマンティクスに迫れるのだ」とも思ってたりするのですが、本当にそれが「良い」のかどうかは自信がなく、どっちに行くにせよ行き止まりです。できるだけ人さまに迷惑をかけないようにと祈るばかりです。ほんとに。
2006-09-27 23:23:51 / ふじさわ / Comment: 2 / Trackback: 0

# ヌーの赤ちゃんの話

そういえば、先日テレビの「どうぶつ奇想天外」で、サバンナに暮らすヌーの赤ちゃんを紹介していた。

ヌーの赤ちゃんは、生後すぐに立って歩けるようになり、群にしたがって移動しながら餌場を回遊するようになるらしい。ただし、生まれて1か月ほどの赤ちゃんは、草を食べず、母親の乳だけを口にする。

ところが、テレビで紹介されていた赤ちゃんヌーは、大きな川を渡るときに母親からはぐれてしまった。母親を探してサバンナを歩きまわる赤ちゃん。早く母親に会わなければ、体力を消耗して力尽きてしまう。

危険なサバンナを何日も歩き、同じように母親とはぐれた赤ちゃんヌーと友達になったりしながらの旅。だけどやっぱり、母親には会えなかった。力尽きて木陰で息を引き取ろうとしている2頭の赤ちゃんヌー。もうこれでおしまいか……。

そう思ったとき、1頭の赤ちゃんヌーが突然立ち上がり、草を食べはじめた。通常草を食べないはずの赤ちゃんヌーが、草を食べたのだ。そして彼は、群のもとへ向かった。草を食べるということは、一人前のヌーとして生き始めるということ。乳を飲めず力尽きる赤ちゃんがいる一方で、そうやって生きる赤ちゃんもいる。

これを見たのはつい数日前かなぁ。今日ふと気付いたのだけど、この話はカエルの話と相似形をなしている。ヌーの赤ちゃんも、目の前に大量の草がありながら、それを食べられずに生きたり死んだりする。そのとき、生きる赤ちゃんと死ぬ赤ちゃんの違いが何なのかを、ぼくは知りたい。ぼくは、生きる赤ちゃんが好きだし、尊敬する。そういう風になりたいと思う。

じゃあ実際何が彼らの明暗を分けたのだろう。ぼくはずっとずっと、そういうことを考え続けている。そして思うのだ。明暗を分けたのは、科学とかそういうことなのだろうかと。いや、狭義の科学でなくていい。「科学」という言葉が指し示す何かや、科学に含まれるエッセンスがヌーの赤ちゃんを救ったのだろうか。

ぼくは、科学を否定したいわけじゃない。ただ、知りたいのだ。アラン・ケイさんの言う「科学」とは何なのか。赤ちゃんヌーを救ったものは何だったのか。そういうことを、考えている。
2006-09-27 10:55:23 / ふじさわ / Comment: 4 / Trackback: 0

2006-09-25

# 2つに分けること

ううう。なんか言いたくなるんだよなぁ。

 
 子供が科学で学ぶことの1つは、けっして物事を2つのカテゴリーに分けてはいけないということだ。一見すると、イエスとノー、正と誤に分けなければならない場合であっても。人間の神経システムは、物事を2つのカテゴリーに分けようとする。あなたと私、黒と白、善と悪。これは決定を早くする方法だ。だが科学では、あなたは3つに分類できないか5つはどうかと常に問う。多くのカテゴリーには名前もない。だからこそ難しい。

物事を2つのカテゴリーに分けてしまうのは、むしろ科学のほうだと思うのだよなぁ……。たとえば、「万有引力の法則が存在する」と言った場合、存在するかしないかの二者択一的に世界を把握している。それは、デジタルに世界を扱っているということ。2つのカテゴリでなくn個に分けるとしても、nが有限の数であるならば程度問題にすぎない。言葉を用いた表現は、すべてデジタルにあたる。

たとえば、「空が青い」、「海がきれいだ」、「このリンゴはうまい」、「ドーナツとバウムクーヘンは違う」。青いとか、きれいだとか、うまいとか違うとか、そういったものはデジタルだ。本当は、空は単に青いだけじゃない。薄い雲がかかって透き通るようだったり、西と東で色合いが違ったり、迫り来るような高い空だったり、うだるようにユラユラ揺れていたりする。

究極的には、空の青さや美しさというのは、言葉では表現しきれない。この感動を言葉にしても、100%それを誰かに伝えたり、思い出に残したりすることはできない。すべての景色も、感覚も、一期一会。自分自身でさえ、同じ空や絵や音楽を、見たり聞いたりして感じることは、今日と明日で違う。アナログだから。デジタルのような再現性がない。犬や猫や動物たちは、この世界をアナログのまま感じ理解している。本当は人間もそう。

再現性があるというのは、科学の1つの基本だよね。言葉や言語なくして、科学は成り立たない。だから、科学そのものはデジタルの権化だと思う。そして本質的に、言語による表現というものが、二者択一であったり、デジタルであったりすると思うんだよなぁ……。計算機は言語による表現と計算しかできない。でも人間は違う。計算機で人工知能や意識を作り出せないのは、デジタルであることも大きな理由だと思っとるのです。

物事を2つのカテゴリーに分けようとするのは、人間の神経システムではなくて、言葉だったり西洋思想だったりすると思う。犬も猫も、東洋思想も、あなたと私、黒と白、善と悪をことさら2つに分けようとしていない。あなたがうれしいと私もうれしいという自我境界のあいまいさ、食物連鎖が当たり前のものである野生。「thank you」ではなく「有り難う」。

それらは世界をn個に分けていない。物事を2つやn個のカテゴリーに分けているのは、むしろ(西洋)科学のほうだと思うのだよなぁ。
2006-09-25 23:08:43 / ふじさわ / Comment: 6 / Trackback: 0

# 科学でカエル病は治らない

 
  インタビューで、「餌を見ることができないで飢死するカエル」の話が何度か出てくる。これは以前、ケイ氏がスピーチの中で使った例えで、私たち無知な人間の象徴だ。カエルは動くハエしか餌として認識できないため、死んだハエを目の前に置いても気付かないのだそうだ。逆にボール紙などで作った疑似餌を動かすと飛びつくが、疑似餌だから食べられない。
 
  ケイ氏の話はこう続く。私たちも実はこのカエルと同レベルで、気付かない物事が多い。そしてそれを普通だと思い込み、すぐに二者択一的な考えをする。しかしまず自分が気付いていないということに気付いてみよ。すると、ほかに方法はないか考えるという科学的思考が始められるようになる。世の中の人が皆そのような理性を身につければ、科学は進歩し、短絡的な善悪判断による紛争もなくなるかもしれない。

いいことを言っているし、カエルの話はまさにそのとおりだと思う。ただぼくは、科学がカエル病の特効薬になるとは思わない。

たしかに、500年前のヨーロッパで識字率は1%だったのだろう。いまはもっとずっと高い。だけど、カエル病の人間は増えていないし減ってもいないんじゃないかなぁ。少なくとも近代日本の状況を見ているとそう感じる。科学は、カエル病を直したりはしない。

カエルに比べたら、人間は何百倍も賢いし、たくさんのことを知っているはずだ。だけど、カエルと人間を見比べて、どちらが愚かかを断言するのは難しい。

「科学は進歩し、短絡的な善悪判断による紛争もなくなるかもしれない」と言うけれども、これは間違いだと思うよ。なぜなら、いくら科学が進歩しても、短絡的な善悪判断は、人間の心の中から追い出せないだろうから。

というのも、「善悪」というのは主観的なものだからだ。たとえば「死」。多くの人は「死」を悪に分類するだろう。しかし、死などというものはこの世界に万遍なく存在している。いまこの瞬間も、地球の裏側で、海の底で、空のかなたで、砂漠の砂の中で、人も動物も植物も昆虫も死に瀕している。だけど、それを問題視する人はいないし、実際それは問題じゃない。

誰も死なない世界というのが望まれないからだ。誰も死なないのならば、誰も生まれ得ない。キャパシティは有限だから。ならば、誰かが死ぬしかない。有限なキャパシティ(つまりこの世界)を「善」と見なすなら、「死」もまた善だ。生もまた善。誰かが死に、誰かが生まれるのが「自然」だ。ただ、誰もがみな「自分が死ぬのは嫌」というだけ。

これを、短絡的な善悪判断と言わずして何と言おう。科学的に見て、死は善だ(この世界の、自然を善だとするならば)。だけど多くの人は、死に面して悲しみ、嘆き、それを避けようとする。別の誰かに死を押し付けようとする。それと同じエネルギーは、今日も地球のどこかで紛争に使われている。500年先もきっと同じ。科学的な意味での「善」が「悪」を引き起こしている。

科学は人の魂を救いなどしない。何も変えない。500年前の人類は、いまの人類と同じだけ幸せだったし、きっと500年後の人類も、カエルだって同じだけ幸せだ。ぼくはそう信じる。
2006-09-25 16:49:25 / ふじさわ / Comment: 2 / Trackback: 0

# 素朴な疑問

日本語の問題。

「お金で解決できる問題は、お金で解決したほうがいい」といったことをよく言いたくなるのだけど、このときの表現が冗長に聞こえていやだ。「お金で解決」というフレーズが2つ入っていてイーツとなる。言いかえるとすれば、どういうのがいいかなぁ。

「お金で解決できるならそうしろ」。これは、「そう」が曖昧すぎて、ちゃんと伝わるか不安。
「お金で解決できるならたやすい問題だ」。言いたいことが言えていない感じ。
「お金で解決できる問題に、あなたの貴重な時間を使うな」。これが明確で良いが、「あなた」という一時変数の導入が気になる。for-eachを使うべき個所でfor文を使うような。

そういえば、「x^2=-1を満たす自然数xは存在しない」というのも、嫌なんだよなぁ。xという一時変数を、なぜ使わねばならぬのか。xを使わないで表現できないのか。できなさそうだ。逆に言えば、xのような一時変数を使うほうが、正確な表現ができるのだろうなぁ。……xというのは、いったい何なんだ。
2006-09-25 12:51:19 / ふじさわ / Comment: 2 / Trackback: 0

2006-09-24

# お散歩日和

人から気にかけてもらうのって、ちょっと恥ずかしい気がします。
何か、守られているような気がして。
どうしていいか分からなくなって、変なことをしちゃうかもしれません。
あるいは、お布団をかぶって一日中寝たふりでもしようかという気になります。
今日は本当に、いいお天気。いったいどうしましょう。
2006-09-24 14:47:53 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# スーパーマリオに想う

昔、はじめてスーパーマリオをやったときは、楽しかったなぁ。あれは本当に面白く、ワクワクするようなゲームだった。好きだった。

スーパーマリオのどこが好きだったかというと、つまらないことかもしれないけど、結局のところぼくにとっては、「ジャンプ力がすごい」ということに尽きるのかもしれない。自分の背より高い場所にジャンプできて、降りるときもスーイスイ。頭突きすれば、ブロックさえ壊せてしまう強い脚と頭。

Bボタンを押せば、すごいスピードで走ることができて、さらに遠くまでジャンプできるというのも魅力的だった。スーパーマリオは本当に、やっていて楽しく、ワクワクするゲームだった。

そういうことをつらつら考えていると、あのゲームは『ドラえもん』に近かったのかもしれないなぁなどとも思う。「あんなこといいな。できたらいいな」。まさしくそれを、スーパーマリオは実現していた。亀たちとの戦い、土管につながる不思議な地下世界、深い水の底まで泳ぐことができ、雲の上を走り回る。そう考えると、楽しくないはずがない。

あのゲームは本当に原点であり、子供たちに大きな夢を与えたなぁと思う。
2006-09-24 13:21:31 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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