メッセージ。 - diary
2006-09-21
# どうでもいい話の境界線上で
叫びたいから叫ぶ、かぁ……。
まぁ、それでもいいんだけどね。
ただ、本当はぼくは、伝えたかったんだ。
もし誤解されているなら、「誤解しないで。こうだから大丈夫」って伝えたくて。
でもね。実際にはその人が、誤解しているかどうかすら、ぼくには分からないんだ。
ぼくの言葉がその人にどう伝わって、何を感じてもらっているのか分からない。
そういう状況でさ。そういう人のところに行ってさ。
「誤解しないで。こうだから大丈夫」って言うことに、どれだけの意味があるだろう。
その人は、そもそも誤解なんてしてないかもしれない。
全然違うことを感じているかもしれない。
だとしたら、アホづらさげてその人の前に現れること自体が、誤解を生みかねない。
そういう、言葉の牢獄に、いまは囚われがちだなぁと思って。
「叫びたい」って、ぼくにとっては、「伝えたいけど、それができない」という
感じかもしれないなぁと、思った。
たとえば、「口内炎が痛いよー」とか、「アドバイスありがとう」とか。
そういう日常の何げないことも伝えたい気がする。でも、うまく言葉にならない。
最近は、そういう日々だなぁって。
叫びたいなら、叫べばいい。本当にそうだよね……。
いまはできそうにないけど。ありがとう。
まぁ、それでもいいんだけどね。
ただ、本当はぼくは、伝えたかったんだ。
もし誤解されているなら、「誤解しないで。こうだから大丈夫」って伝えたくて。
でもね。実際にはその人が、誤解しているかどうかすら、ぼくには分からないんだ。
ぼくの言葉がその人にどう伝わって、何を感じてもらっているのか分からない。
そういう状況でさ。そういう人のところに行ってさ。
「誤解しないで。こうだから大丈夫」って言うことに、どれだけの意味があるだろう。
その人は、そもそも誤解なんてしてないかもしれない。
全然違うことを感じているかもしれない。
だとしたら、アホづらさげてその人の前に現れること自体が、誤解を生みかねない。
そういう、言葉の牢獄に、いまは囚われがちだなぁと思って。
「叫びたい」って、ぼくにとっては、「伝えたいけど、それができない」という
感じかもしれないなぁと、思った。
たとえば、「口内炎が痛いよー」とか、「アドバイスありがとう」とか。
そういう日常の何げないことも伝えたい気がする。でも、うまく言葉にならない。
最近は、そういう日々だなぁって。
叫びたいなら、叫べばいい。本当にそうだよね……。
いまはできそうにないけど。ありがとう。
# いまのネットに常識は存在しないっす
結局のところ、「これが常識だ」「それは常識ではない」という対立は、両者共に「常識外への不寛容」という点で一致しており程度が同じ。
「夜中のメールは非常識かどうか」という問題が昔あって、この件はいろいろ考えたなぁ。そのとき分かったことの1つは、「ネット上に常識は存在しない」ということ。これは定義から明らかなのだ。
というのも、ネットの歴史は浅い。というかネットにいる多くの人の経験が浅い。せいぜい5〜6年とか10年とかの人がほとんどでしょう。そして、その間にもネットに流通するアプリやコンテンツや人はどんどん変わってきたわけで。
そういった過去を考えれば、2006年現在において、そこにいる人たちの間に、共通認識や常識というものが固まっているはずがない。そんな短時間に、常識などというものは形成されない。ゆえに現在のネットに常識というものは存在しない。
「常識」という言葉を持ち出す人は、「言語感覚が粗雑」というよりは、たぶん世界認識の仕方にクセがあるんだと思うなぁ。それは言語感覚というよりメンタリティの問題な気がする。
「自分の身の周りにあるものが常識である」とすぐ判断してしまう考え方は、現在のネットと相性が悪い。常識という言葉には実は、「どこそこの常識」という「地域性」*1が隠されているのだ。なのにほとんどの人はそこを省略している。たぶん作為的に。その作為こそがメンタリティだ。
そして、そういうメンタリティ・考え方は、「そう思いたいからそう思う」という域を脱していない。その考え方は、あまりにも簡単に現実(現在のネット)とコンフリクトを起こしてしまっている。
「そう思いたいからそう思う」こと自体が悪いと、ぼくは思わない。ただ、「そう思いたいからそう思う」自己を知覚していないならば、つまりわざとやっているのでなければ、現実との摩擦や衝突は大きくなるばかりだろうなぁと思うのだ。
自分が、身の周りという村から出て行かず、現実との接触を少なく抑えることができるのなら、つまり遠く離れた文化圏の人とあまり接触しないならば、まぁ常識を判断基準にすればいい気もする。結局のところ、将来的に、ネットはある程度以上クラスタ化(ムラ化)し、多くの人はムラの中で生きていくだろう。
ただ、それが悪いと言ってるわけじゃない。常識など存在しないけれども、だからといって人間が、常識に基づいた判断を完全に、100%捨てるのは難しいと思う。常識を捨てるということは、観念を捨てることに等しい。それは自己を捨てるということだろうし、主体性を捨てることでもあると思う。仏教で言えば悟りの境地なわけで。それができるのは、異邦人でありシャーマンだろうなぁと思っとるっす。ネットにいる全員が、異邦人やシャーマンである必要はないだろうな、と。
# かなり抽象的になってしまった。こんな説明で分かりますかね?
*1 正確に言えば、地域性だけでなく、時代性や主体性といった要素も隠されている。つまり、いつ誰が、なぜどこで、どのようにといった主観的な要素抜きに常識は説明できない。
2006-09-20
# 日々
「ああ、秋が来たんだな」。誰もがそうぶやくほどの青い空。
お財布に五千円札が2枚。いつのまに? しかもその隣には二千円札もあるし! 逡巡して、五千円札を店員さんに渡す。
ところで、今日も自分の書いた文章が襲ってきた。最近はもう毎日だ。そこに書いた以上の意味はないのに。後から後から、思い悩む。
なにかが欲しいわけじゃない。そう叫びたい気持ち。でも、なぜ叫ぶの? その叫びを、誰に伝えたいの?
月頭ぐらいから口内炎がたくさん。熱はないけど、風邪っぽい。つかれてるのかなぁ。そう書こうとして、もう半月。やっと書いた。
お財布に五千円札が2枚。いつのまに? しかもその隣には二千円札もあるし! 逡巡して、五千円札を店員さんに渡す。
ところで、今日も自分の書いた文章が襲ってきた。最近はもう毎日だ。そこに書いた以上の意味はないのに。後から後から、思い悩む。
なにかが欲しいわけじゃない。そう叫びたい気持ち。でも、なぜ叫ぶの? その叫びを、誰に伝えたいの?
月頭ぐらいから口内炎がたくさん。熱はないけど、風邪っぽい。つかれてるのかなぁ。そう書こうとして、もう半月。やっと書いた。
# オタクって脇役好きなんじゃね?
あまり確証は持てないのだけど、オタクってのはそもそも脇役好きな気がする。自分が前面に立ちたくないというような感じ。自ら戦うのではなく、自分の現身を矢面に立たせたいという心情。だからオタクはものを作りたがる。ものを作って、それらを戦わせたり恋愛させたりする。それは、自らの肉体に対するcomplexity・不安感の現れだろうし、さらに言えば、その奥には父性/母性のアンバランスがあると思われる。サド/マゾの構図より、家族の中の自我という観点で捉えたほうが、よりシンプルに説明できるんじゃないかなぁ。
# 後ろのほうにいたい症候群?
映画というものが他人に語られたり、愛されたり、歴史に残ったりするときには、主な出演俳優と脚本と監督くらいしか話題にならないでしょう。あとは音楽と衣装とセットくらいですね。だけど実はそういうひとたちの陰に、大勢の無名なひとたちが集まって、自分たちの技術の限りを尽くしているわけじゃないですか。それがいいんですよね。
この感じはぼくもあるなぁ。ぼくの場合は、音楽でこれを意識する。メインボーカルっていうの? 一番前に出ている楽器や声じゃなくて、少し後ろを守ってる楽器や声が好きな感じ。これって、自分がそこを演奏するイメージで感情移入しているのかなぁなどとたまに考えるけどよく分からない。
あと、音楽だけじゃなくて、オタクアニメの艦橋シーンなんかもそう。「なんちゃらかんちゃら、オールグリーンです」、「よし、1番から3番まで砲門開けー!」、「なんちゃらかんちゃら充填、圧力95、砲門開きました!」みたいなやり取り。変なインジケータが(いくつか協調しながら)ニュニュニュニュニュと伸びるところなんかも、そういう感覚を刺激する#1。
背景にいる人たちや機械たちの働きが好きというか。みんなで一生懸命やってるって感じがいいのかなぁ。よく分からない。
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#1 たぶん制作者側はこの心的構図を理解してわざとやっていると思われ、同様の表現はよく見られる。いわゆる「艦橋もの」。
2006-09-19
# Open Source Summit 2006
http://d.hatena.ne.jp/hyoshiok/20060919#p1
http://d.hatena.ne.jp/kinneko/20060916/p2
http://damedame.monyo.com/?date=20060916#p01
あー。行きたかったなぁ。行くべきだったなぁ。
16日だったのかぁ。すっかり忘れてますた。orz
http://d.hatena.ne.jp/kinneko/20060916/p2
http://damedame.monyo.com/?date=20060916#p01
あー。行きたかったなぁ。行くべきだったなぁ。
16日だったのかぁ。すっかり忘れてますた。orz
# 『フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元米国防長官の告白』を観た
フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元米国防長官の告白という映画DVDを借りてきて観た。ケネディ/ジョンソン時代の国防長官として活躍し、第二次世界大戦やベトナム戦争などに間近で携わったというマクナマラ氏。この映画では、85歳になったマクナマラ氏にインタビューし、氏が経験から得たという11の教訓を紹介する。
「人は善をなそうとして悪をなす」という言葉で検索していてたまたま見つけた映画。若くしてフォードの社長に抜擢されながらも、わずか数か月でそれを蹴って国防長官になったマクナマラ氏。アメリカを代表する超エリートの一人だろう。でも、そんなアメリカの超エリートが85歳になって人生を振り返る言葉には、東洋的な無常観に似たものがあって興味深いなぁと思った。
「人は善をなそうとして悪をなす」以外にも、「これで負ければ我々は戦争犯罪人だ」、「目で見た事実が真実であるとは限らない」という言葉が重い。国を動かし、多くの人の命を預ってきた人間が、齢を重ねるにつれ自分の無力さと罪にうちひしがれるのは、どんな気持ちなんだろう。社会的制裁を怖れてか、必要以上に自分の罪を認めたくないようだったが、その声は涙に震えていた。
戦後時間が経って、当時アメリカとベトナムの高官だった人たちが懇談会を持ったときのことも語られていて、そこでのやりとりも興味深い。冷戦のさなか、共産勢力の拡大を防ぐという観点でベトナムに介入していたアメリカは、北ベトナムの人がなぜあれほど抵抗するか理解できなかった。
「なぜあそこまで抵抗したのか? あのままいけば、ベトナム人は最後の一人まで失うかもしれなかったのですよ」と言うマクナマラ氏。かつてのベトナムの高官はこう答えたそうだ。「あなたは歴史を知らないのか」。「我々はもう何百年もの間、中国からの攻撃に抵抗して戦っているのだ。最後の一人になったとしても、我々は独立のために戦っただろう」。
「人は善をなそうとして悪をなす」という言葉で検索していてたまたま見つけた映画。若くしてフォードの社長に抜擢されながらも、わずか数か月でそれを蹴って国防長官になったマクナマラ氏。アメリカを代表する超エリートの一人だろう。でも、そんなアメリカの超エリートが85歳になって人生を振り返る言葉には、東洋的な無常観に似たものがあって興味深いなぁと思った。
「人は善をなそうとして悪をなす」以外にも、「これで負ければ我々は戦争犯罪人だ」、「目で見た事実が真実であるとは限らない」という言葉が重い。国を動かし、多くの人の命を預ってきた人間が、齢を重ねるにつれ自分の無力さと罪にうちひしがれるのは、どんな気持ちなんだろう。社会的制裁を怖れてか、必要以上に自分の罪を認めたくないようだったが、その声は涙に震えていた。
戦後時間が経って、当時アメリカとベトナムの高官だった人たちが懇談会を持ったときのことも語られていて、そこでのやりとりも興味深い。冷戦のさなか、共産勢力の拡大を防ぐという観点でベトナムに介入していたアメリカは、北ベトナムの人がなぜあれほど抵抗するか理解できなかった。
「なぜあそこまで抵抗したのか? あのままいけば、ベトナム人は最後の一人まで失うかもしれなかったのですよ」と言うマクナマラ氏。かつてのベトナムの高官はこう答えたそうだ。「あなたは歴史を知らないのか」。「我々はもう何百年もの間、中国からの攻撃に抵抗して戦っているのだ。最後の一人になったとしても、我々は独立のために戦っただろう」。
2006-09-17
# どうでもいい話の扱い
昨日は久しぶりに、友達らとお酒を飲みに行ったのだけど、延々どうでもいい話に終始して考えさせられるものがあった。1年ぶりに会ったというのに、人はどうして、どうでもいい話に時間を費やすのかなぁ。
ぼく自身は、場の空気を壊さないよう相槌を打ったり、ごくたまにツッコミを入れたりしていた。でも、本当は、ああいうのは苦手だ。頭の中ではずっと、その場の人たちがどうでもいい話を楽しめているのかや、どうすれば場の空気を変えられるのかを考えていた。
ここで、どうでもいい話というのは、「どこそこの散髪屋に行っていくらで髪を切っているとか」、「先月は旅行に行って、ああだったこうだった」というような話。そりゃあ確かに、そういう話で近況を知ることはできるけれども。でも、「それで?」。「それで何を、どうして、ぼくやあなたは知りたいの?」と思ってしまう。
ぼく自身は、場の空気を壊さないよう相槌を打ったり、ごくたまにツッコミを入れたりしていた。でも、本当は、ああいうのは苦手だ。頭の中ではずっと、その場の人たちがどうでもいい話を楽しめているのかや、どうすれば場の空気を変えられるのかを考えていた。
ここで、どうでもいい話というのは、「どこそこの散髪屋に行っていくらで髪を切っているとか」、「先月は旅行に行って、ああだったこうだった」というような話。そりゃあ確かに、そういう話で近況を知ることはできるけれども。でも、「それで?」。「それで何を、どうして、ぼくやあなたは知りたいの?」と思ってしまう。
# 意味
意味は、共通の体験や価値観を媒介として伝えられる。
たとえば、計算機と人間の間で意思疎通ができないのは、共通の体験も価値観も持たないからだ。計算機は体験というものをしない(いや、「体験」しなくもないかもしれない。ただ、少なくともそれは人間とはだいぶ違った方法であるだろう)。また、価値観というものを持たない。
一方で、動物と人間は比較的意思疎通できているように感じられる。たとえば飼い犬の様子を見ていると、一人でいるときは寂しそうにし、夜寝ているときは満足そうに思われる。信頼関係を築くことができるし、何が相手を傷付け、何が相手に好ましいと思わせるかを「知る」ことができる。
たとえば、計算機と人間の間で意思疎通ができないのは、共通の体験も価値観も持たないからだ。計算機は体験というものをしない(いや、「体験」しなくもないかもしれない。ただ、少なくともそれは人間とはだいぶ違った方法であるだろう)。また、価値観というものを持たない。
一方で、動物と人間は比較的意思疎通できているように感じられる。たとえば飼い犬の様子を見ていると、一人でいるときは寂しそうにし、夜寝ているときは満足そうに思われる。信頼関係を築くことができるし、何が相手を傷付け、何が相手に好ましいと思わせるかを「知る」ことができる。
2006-09-15
# 「もうGoogleでいいんじゃないか?」という見方
「もうグーグルでなくてもいいんじゃないか?」という見方 - CNET Japanという記事を読んで逆に思った。「もうGoogleでいいんじゃないか?」。この記事にあるような、一番使いやすく一番便利なものを、誰もが求めているわけじゃない。bestではなく、good enoughでいいんだ。
こないだ書いた「Rubyらしさ」とも関連するけど、PerlとかWindowsとかPHPとか、技術的には全然bestじゃないものが市場を支配することが多い。誰もがbestを見分けられるわけじゃないし、bestを見付けるにもコストが発生する。ならば、市場にとってはむしろgood enoughこそがbestなのかもしれない。日本でYahoo!が強かったりするのも、そういうところにあるんじゃないかなぁ。
こないだ書いた「Rubyらしさ」とも関連するけど、PerlとかWindowsとかPHPとか、技術的には全然bestじゃないものが市場を支配することが多い。誰もがbestを見分けられるわけじゃないし、bestを見付けるにもコストが発生する。ならば、市場にとってはむしろgood enoughこそがbestなのかもしれない。日本でYahoo!が強かったりするのも、そういうところにあるんじゃないかなぁ。