メッセージ。 - diary

2006-09-06

# 友達とか友情とか

http://d.hatena.ne.jp/white_cake/20060902/1157165756

友情かぁ……。
たまに考えるテーマだけど、はっきり結論が出ないんだよな……。
なんとなく思うのは、「利害関係がないのにつながりあっている、
信頼関係を築けている人たち」って感じかなぁ……。

性欲とか恋愛感情とか、傷付いたとか傷付けられたとかは、
「そのときどきの(比較的小さな)利害関係」であって、
それは当然存在するけど。

それを乗り越えて何かを共有できているような精神性が、
友達とか友情というものなんじゃないかという気がしてる。

遠く離れてもたまに、
「あいついまごろどうしてるかなぁ」って思えるような関係。
2006-09-06 13:44:42 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-09-05

# ふと思ったこと

ふと思ったのだけど、子供を小学校へ入れるというのは重大な個人情報漏洩ではないだろうか。子供の名前と住所だけではなく、家族構成、性格や嗜好までも同級生や担任教師らに知られてしまう。
2006-09-05 14:36:11 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 「ご苦労様」の意味

 
 # どうでもいいけど,僕は,例えば配達のおじさんとかに,ついつい 「ご苦労様です」 って言っちゃうんだけど… これは,上の立場の人が,下の立場の人に向かっていう言葉らしい.僕的には,そんなニュアンスは無いんだけど… 世間的には,対等な立場ならば,「お疲れ様です」が正しいらしい.しっかし,そもそも上なのか下なのか対等なのかすらよーわからん.年下なので,むしろ僕の方が下だと思うんだけど,そういう場合にはどういえば… ? 

これねぇ、ぼくも前から何か言いたいと思っていたのだ。
個人的な意見なのだけど、本質的にはそこは、「ご苦労様です」でいいと思ってる。「ご苦労様です」というのは、「上の立場のものが、下の立場のものに向かっていう言葉」ではあるらしいので、

自分と配達のおじさんを比べたとき、自分は上の立場でないからその言葉遣いはNG

というのは分かるのだけど。

でも違う。全然違う。そこは、自分と配達のおじさんを比べるところじゃない。そこで、「自分と配達のおじさんを比べる」からNGになるのだ。なぜ、荷物を配達してくれたおじさんと、配達を受けた自分を比べる必要がある? そこに何らかの立場上の差があるのか? ない。同じだ。天の下に平等。配達をする人、配達を受ける人、それぞれの仕事がそこにあるだけだ。

荷物の配達というのは仕事だ。仕事というのは、天から与えられたもの。社会を動かすために必要なものだ。それは尊い。あなたも仕事をしているし、自分も仕事をしている。それぞれの役割をそれぞれ必要なときに果たして、この社会は回っている。当然、配達を受けるのも仕事だ。配達を受けるというのも、そこで出会いがあったということも、天から与えられた尊い機会だ。

そう考えたとき、「ご苦労様」という言葉が出てくるのは当然のことだ。「ご苦労様」と言っているのは自分じゃない。「ご苦労様」という言葉には、社会の一員として、社会を代弁するものとして、「今日も仕事をしてくれてありがとう」と言いたくなる気持ちが存在する。あなたも私も、天や社会から授かった仕事を受けるものとして、存在している。天や社会を代弁して何かを言う権利が存在する。

自分と社会を同化する精神。自分は社会を支える一員であるし、社会は自分を支えてくれていると考えるメンタリティ。社会というものの存在意義を真に理解しているならば、「ご苦労様」という言葉が出てくるのは自然なことだ。自然にその言葉を言いたくなるあろはたんは、「優しい」。ぼくの定義する「優しさ」というものはそういうことだ。

世間的には、対等な立場ならば「お疲れ様です」が正しいらしいけど、馬鹿げたことだ。世間は何も理解していない。
2006-09-05 10:09:35 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-09-04

# プログラミングしていてモヤモヤーッとたまに感じること

最近は、辞書作りに凝っていたりするふじさわです。
たとえば、日々増えていくファイルの一覧を作って、後で検索しやすくしたり、スパムメールを受け取ったら、そこに含まれるURLをブラックリストに追加したりということをしたいなぁと思いまして。

それでまぁ、辞書だ辞書、自分オリジナルの辞書を作って、ぬか床みたいに大事に育てていくのがこれからのビジネスなのだこれはSBSのタグと等価であり、より抽象化されたメソッドだなどと頑張っているわけです。で、何はともあれ辞書を作るべくデータをファイルに保存するのですが。

簡単なツールを作ってそういう作業をラクにしようとして、いろいろ作ったりしています。で、ここからが本題。辞書のフォーマットは、エディタで編集しやすいよう、1行に1項目ということにしようと思っとります。で、辞書なので、重複する行はないようにしたいわけですね。そこをツールでなんとかすると。

具体的には、add-dict.scmみたいなスクリプトを書いて、「あ、この単語は辞書に登録しよう」と思ったときに「$HOME/tools/gauche/add-dict.scm なにか適当な単語」と実行すると、

(1)エディタが起動して辞書ファイルを開き
(2)ユーザーがファイルのどこかに「なにか適当な単語」を追記する
(3)エディタが終了したことをスクリプトガ検知して、編集されたファイルを重複行がないよう適当にソートして保存しなおしてくれる

というエディタのラッパーを作ろうとしています。まぁこのへんは技術的に何も難しいことではないのですが、めんどくさいなぁと思うところもあります。(3)のところなんですが、「1行1項目の辞書としてファイルを開いて、ソートして重複行を取り除いて保存」という操作ぐらいは、プログラミング言語の標準ライブラリとして提供されていてほしいな、と。

あ、これってCPANみたいな仕組みが欲しいって言っているのかな。

たとえばGaucheを使っていると、マニュアルの質がとても高くて、使える関数の一覧をながめて欲しい機能を見付けてくるのがすごくラクなんですよね。なんというか、安心感がある。それはマニュアルの質が高いだけではなくて、Gaucheで提供している関数が、十分に洗練されていて、ちゃんとメンテされていて、長く使えるものだと分かっているという側面が大きいのだろうなと感じます。

逆に、自分で作るライブラリ関数、たとえば前述したような辞書をゴニョゴニョする関数なんかは、どうにも寿命が短い。何か月か使っていると飽きて「もっといいやり方があるはずだ」と思ってしまうし、しばらく使わないと使い方を忘れてしまう。そうやって、使いもしない中途半端なライブラリが、死屍累々と$HOME/tools/gaucheの下にたまっていってしまうのです。

この原因の1つには、ドキュメントを書かないのがいけないのかなと思うんですよね。自分で作ったライブラリ関数のAPIを、それこそGaucheのマニュアルに似せてちゃんと管理するというのはすごく重要な気がします。ドキュメントがあれば、後でまた「こんな機能が欲しい」と思ったときに探せますし、一覧になっているからこそ、そういうことができるわけで。逆にそうでないと、せっかく作るスクリプトの寿命が、とても短かくなってしまいます。また、「辞書をゴニョゴニョする」というような、ちょっと高いレイヤのライブラリというのも、いつまでたっても生まれない気がするんですよね。

ということで、

(1)もうちょっと高いレイヤのライブラリ関数がほしいなぁ〜。Perlのように何も考えずに使えるような、人間を堕落させるようなやつ
(2)ドキュメント重要。簡単にドキュメントを一元管理できるようなフレームワークとかあったらいいかなぁ
(3)やっぱりGaucheForgeみたいなのがあるとうれしいのかなぁ……
(4)さぁてとりあえず辞書スクリプトの続きを書くかなぁ

などと思ったのでした。
2006-09-04 09:15:08 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-09-02

# サイボウズさんの闇改修の話

高木浩光@自宅の日記 - サイボウズ「闇改修」の件のその後

実力を付けたいIT企業は、高木さんを社外監査役として招聘したほうがいいと思う。そこまでしないとしても、こうやって指摘されたときには、直接出向いて会って話をしたほうが有意義じゃないかなぁ。高木さんって、会って話してみると、全然怖い人じゃないし、基本的には高木さんのアドバイスどおり対応しておいて問題はないと思いますです。

あと、サイボウズさんについてだけど。悪気はなくて、単にやっぱりWeb 1.0的な会社なんだと思う。青野さんの社長日記とか見ててもそうだけど、めちゃくちゃ優等生で、毒にも薬にもならない話を書いてるじゃん? これ、ブログなの? と思う。ブログとして、個人の日記としての面白さからかけ離れちゃってる。

その、肚を割ることのできない姿勢というのかな。社長だけじゃなくて、会社自体もそういう傾向を背負ってしまっているんだと想像する。や、それは悪いことじゃなくて。誰だって社長になれば責任が重くていろいろ怖いし、普通の会社、目立たないけど優等生の会社という枠からはみ出てしまうことの怖さもある。

とくに、日本みたいな村社会では、「なんだあの変な会社は」と思われると、いじめの対象になっちゃいがちじゃん? 右見て左見て、目立たないようにすることが、旧来の日本社会における処世術なわけで。首をすくめるサイボウズさんを責める気にはならないなぁ。

青野さんとは、2〜3度お会いしたことがあるけど、優秀で志もある方なんじゃないかという気がしますよ。それに、なんといってもサイボウズさんは、日本のIT業界で珍しく、技術にも触手を伸ばす優良企業なんだし。

モヒカンの人たちは、青野さんのような人を斧で威嚇して崖から飛び降りさせるのじゃなく、優れたモヒカンになれるよう、そして村人たちにいじめられないよう、応援してあげたほうがいいんじゃないかな。

2006/09/02(Sat) 19:39:07 読み返してみて、非常に誤解を招く書き方だと思ったので追記。「斧で威嚇して崖から飛び降りさせる」というのは、この件に過剰反応したり、感情的になったりしている外野の人たちを意識して書いてます。高木さん自身は、冷静だし、客観的だし、素晴しい仕事をされていると思います。ああいう電話をかけるときって、双方とも感情的になりがちだと思うので、あんなに冷静に、大局観を失なわずに話をできるのはすごいと思うんですよね。

あ、あと、「サイボウズさんを責める気にはならない」ってところなんですけど。もちろん、脆弱性を改善してもらいたいし、いまのようなサービスポリシーは改めてもらいたいです。ただ、それを感情的になって責める(敵になる)のではなくて、修正できる点を指摘したい(味方として)、という意味合いで書いたつもりでした。分かりにくくってほんとすみません。
2006-09-02 14:10:19 / ふじさわ / Comment: 1 / Trackback: 0

# 文章を書くとき

文章を書くとき、2つのアプローチがあると思う。1つは、自分が知っていることを書くこと。もう1つは、自分がまだ知らなくて、知りたいと思うことを書くこと。誰かを笑わせようとしたり、何かを伝えようとするとき、人は前者の方法を使ってしまいがちだ。だけど本当は、後者のほうが断然面白くなる。

天才はそのことを知っていて、自分が面白いと思うことしか書かないしやらない(あるいは知らないでやっているのかもしれないが)。秀才はそのことを知らないで、自分が面白いと思うことではなく、別の誰かが面白いと思うことを書こうとする。それで失敗する。

ということをふと思った。
2006-09-02 00:11:29 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-08-30

# 傷付くこと自体は悪ではない気がする

傷付くというのは、心が痛いってことでしょう? で、心が痛いこと自体は悪いことじゃない気がするんだよね。

たとえば孫悟空の如意輪は、孫悟空が悪さをしたり、わがままを言ったりすると、孫悟空の頭を締め付ける。孫悟空はそのたびに頭が痛くって、いまいましいと思いながら旅をしている。お釈迦さまに会って、如意輪を外してもらうための旅だ。

でも、お釈迦さまによると、如意輪は孫悟空のために、彼の頭を痛めつけるのだという。彼を苦しめる如意輪は、彼の人生をよいものにするために、お釈迦さまが授けたものだ。お釈迦さまの言うことが本当なら、如意輪による痛みや苦しみは、憎むべきものなんかじゃ全然ない。

痛くて苦しくて嫌なものだけど、それはないと困るのだ。その痛みを憎んで、亡きものにしてしまえば、孫悟空にはもっと大きな苦しみが待っている。痛みは、痛みそのものは悪ではないケースがあるということだよね。

ぼくはこれは、心の痛みにも言えると思うんだ。心が痛いのは、単に表面上のこと(syntax)で、本当は、もっと大きな意味(semantics)の中で、それはうれしい便りの1つなのかもしれない。痛み自体が、その後ろの意味と直結しているわけじゃない。

だからぼくは、誰かを傷付けてしまったり、誰かから傷付けられることを、必要以上に悲しく思わない。傷付くということを怖れない。本当に大事なことは、その先にあると思うから。
2006-08-30 13:39:42 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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