メッセージ。 - diary

2006-09-14

# 面白さについて

http://nnri.dip.jp/~yf/momoka.cgi?op=readmsg&id=1640 は何がそんなに面白かったのか、面白さというのはなんなのか、ちょっと分かったような気がするので書いてみる。

あのとき、ぼくの中で「リリン」というのは予想外だった。C言語やプログラミングについての話をしているときに、エヴァンゲリオンのキャラクターや世界観について、ぼくは考えない。それらのボキャブラリは、ぼくの頭の中で、いや心の中で相当遠い位置に配置されていて、どちらかのことを考えているときは、もう一方について発想がつながらないのだ。

たぶん、心の中でそれらボキャブラリは、分類・セグメント化され管理されているのだろうと思う。もうちょっと言えば、層状になっているか、2ないし3次元的な空間において、距離を置いて配置されている。

一方でぼくは、誰かの文章を読んだり、誰かの話を聞いたりするときに、続きをある程度予測しながら内容を理解しようとしている。出てくる言葉を心の中の一時領域に配置し、「これについて語ろうとしているな」とか、「この人はこういう風にものごとを考える人なんだな」と思いながら話を聞いている。

# 蛇足ながら、ぼくはこれを一種の追体験であり、自分とは別人格を自分内部にロードするという心理クローニング(コピー)であると考えている。つまり、コミュニケーションとは、他者の人格を自己内部に取り込んでものごとを多面的に見たり、なにかの行為が許されるか否かを判断する基準としているだろうと。

人の話を聞くとき、人は自分との共通点を探したり、自分との相違点を見つけたりして、この世界と自己と他者を理解していくのだ。ところが、ぼくの心の中で、C言語の話題とエヴァンゲリオンの話題はあまりにも遠い。それらのボキャブラリは別セグメントに配置され、相似性という鍵も見出せない状態にある。両者を混在して扱うという発想が、まったくないのだ。

ぼくは、あろはたんのプログラミング話はよく理解できたし(理解できる気がするし)、ボキャブラリの心理内配置についても近いと感じている。また、ジョジョやエヴァンゲリオンといった嗜好についても、ある程度近いものがある。しかし、それらはぼくの中で、あまりにも強固にセグメント化されている。プログラミングの話からエヴァへ突然振られても、ぼくの心の中でボキャブラリスタックが伸びない。

そのどうしようもなさ、放り投げられた感じ、混ぜるな危険的な感じが、面白かった。予想を裏切られてパニックになったというか、心理クローニングをハックされたというか。面白さというのはそういうものであるように思った。
2006-09-14 05:33:16 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-09-13

# 人間は間違える

だが、それがいい。

 
 むしろ人前に公開するインフォーマルな文章というものは,多分に間違いや恥ずかしさを含んでいるような内容の方が望ましいのではないか ?
 
 もしこっぴどく批判などされたらシメタもの.別の方向から考える良いきっかけになる.
 
 # とはいえまぁ,現実には大多数はスルーされてしまうか.それだけならまだしも,正面からアイデンティティーを明らかにして (実名である必要は特に無い) 自分の意見も言うことさえできないようなクズばっかりの Web 上では,リスクが高すぎるのかもしれませんが.なんで,その人の「意見,主張」に対する批判なのに,それを即「人格まるごと」への攻撃と受け取る人間ばっかりなのかなぁ.僕にはあまり理解できない.
 
 そういう恥ずかしいことは言わないで,立派に見えそうな意見だけを厳選して話すっていう姿勢は,無難で賢明なのかもしれないけど,進歩が無い.ある程度の社会的地位を持ってしまい,発言に影響力が出てしまうと,そういうことが気軽にできなくなるから,人間としての成長は止まってしまう.上に行けば行くほど,人間は無能になっていくのは必然の理.

あっ。そう! まさしくそのとおりだと思う。本当に価値のある表現って、素直に「感じたことをありのまま話したもの」なんだよ。自分の感じたことが、間違ってたり、偏ってたりすると恥ずかしいけど。でも、表に出さないことには直せない。軌道修正できない。人間というのは、この小さな窓からしか世界を見れない。いつも一面的だ。だけど、みんながいる。自分以外の人から、世界がどんな風に見えるか教えてもらえばいい。

優れた人は、そうやって価値観を修正していく。ものごとを多面的に見て、真実に近付いていく。そしてどんどん優れたアウトプットを出していくんだ。だからむしろ、あなたの発言は間違っててもいい。間違っているかもしれないことを、表に出せるというのは勇気だ。そして、勇気こそが、有り難い。勇気にこそ価値がある。優れた科学者には子供っぽい人が多いというけど、勇気というものを、それと意識せずに使えるポジティブフィードバック回路を備えているからだというのがぼくの考え。

だからね。優れた科学者とかそういうのでなくても、みんなどんどん間違ったことを言えばいいと思う。普通の人が、日々感じる何げないことがすごく美しい。偏ってたり、間違ってたりしても、素直に感じたことでさえあれば面白い。それこそが本物の意味であり、価値なんだとぼくは思う。 
2006-09-13 16:11:04 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# ブファッ

なぜ C プログラミングは重要なのか (Why C Programming matters.)

なんでいきなりリリンやねん! 面白すぎる。電車の中で読まれへんやんか。
2006-09-13 14:47:38 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# ソフトウェアと「らしさ」の関係

遅れても困る人はいない , リリースは政治パフォーマンスなんだよ。という話。外野があれこれ言うとややこしくなるから、言わないほうがいいかなぁと思いつつ。まぁ、ぼくは全然当事者じゃないので、もしなにかの参考になればと一言書いてみる。

Rubyのリリースポリシーについては、良くも悪くも「Rubyはああだから」という共通認識があると思う(オープンソースにどっぷりつかっている人の間に)。それは「まつもとさんらしさ」を体現するものであって、いい面も悪い面もあるけど、コアユーザーにとっては予測可能だ。そして、予測可能イコール信頼可能ということで。むしろ世間に迎合してフラフラされるほうが、道具としてのRubyの使い勝手を落とすような気がする。

一方で、そういった「Rubyらしさ」、「まつもとさんらしさ」を漂白してしまうというのも、ある意味有効だろうと予測される。物々交換→貨幣経済というように、媒体の透過性を高めることで、流通コストは激減し広く普及できるようになるだろうから。「らしさ」を排除することで、「コアユーザーにとっては予測可能」だったものが、「一般ユーザーにとって予測可能」になるはず。だから、もっと多くのユーザーに、当たり前のものとして使ってもらえるようになるためには、「らしさ」を排除してしまうというのは1つの手かもしれない。

……ただ、やっぱり現時点で「らしさ」の排除は無用な気がするかな。たとえばLinuxはLinusという人の癖が強いからこそ、あそこまで広まっている。また、とても癖が強くふつうの人には使いにくいPerlという言語も、とくに問題なく受け容れられている。Windowsもまぁ同様で、強いパーソナリティを持っている。これらの事例から、「らしさ」を排除し世間におもねることは、現時点でそれほど有効じゃないんじゃないかな。ソフトウェアというのはまだ十分属人的で、アートの領域を脱しきっていない(それが良いか悪いかは別として)。

「リリースは政治パフォーマンス」であり、政治パフォーマンスが重要だと言うならば、RubyがRubyらしくあり、まつもとさんの色を濃く反映していることは、まさに政治パフォーマンス上プラスに働くはず。海外からの声として「日本で開発されているからか、とても雰囲気が良い。使っていて楽しくなる」と評されたりしているのも象徴的だろう。いまのRubyは、何の色もないいい子ちゃんよりは、ちゃんと色の付いた愛されるキャラクターになりつつあると思う。開発者が集まって求心力を得られているのも、Rubyらしさのゆえだろう。ならば、いま大きな流れを変える必要は、あまりないんじゃないかなぁ。

……って、的外れかもしれないけど、なんかそういう文章になってしまった。このまま置いときます。
2006-09-13 09:45:52 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-09-12

# 今日はお休み

今日は会社をお休みにしてしまった。雨がふっているし、夏休みもロクに取らなかったし、ここ数日急ぎの仕事はないし、いいかなぁと思って。
家にいたってやることはないのだけど。でももう最近は、日々に追われて疲れてしまった。今日はできるだけ、なにもしないで過ごそうっと。
2006-09-12 12:31:19 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 好きだった人を否定するのイクナイと思う

その昔、女の先輩たちが飲んでいるところに合流してしまって、気まずい思いをしたことがあったなぁ。女ばかり5〜6人の中に男が1人。最初は気づかなかったんだけど、先輩たちの1人が失恋したみたいで、彼女をなぐさめるためにその飲み会は開かれていたようだった。

「場違いなところに来ちゃったな」。そう思ったときは後の祭で、ぼくは、猫の置物かなにかに徹するしかなかった。そこで目にしたのは、「彼のあの行為が信じられない」とか、「彼がああしてくれたのはなぜだったんだろう?」とか、主に彼を否定することでやりきれなさを浄化する慰めの儀式。

つらかったなぁ。振られた女の人の気持ちなんて分かれやしないけど。でも、そういう慰め方は、しんどくなるばっかりじゃないかと思った。好きだった男を否定することで、彼女は救われるんだろうか。すっぱいブドウだったと言って納得できるんだろうか。

ぼくはそうは思わない。そうやって、好きだった人を否定するのは、止血の効果があるだろうけど。でも止血以上のものではないと思う。きっと、好きだったのは確かなんだよ。好きで、確かに彼はいい男だった。そう思わないことには、その人を好きだった自分や、彼と一緒に過ごした時間さえ否定してしまうことになる。

それはあまりにも悲しいし、実際のところ、そんなことは不可能だ。彼と一緒に過ごした時間は楽しかったし、いいものだった。だからこそ、いま苦しんでいるのだ。いまも彼が好きなのだ。いくらみんなで否定しても、彼を好きな気持ちは、消せるものではない。

彼女も、まわりの女の人たちも、その男を悪く言っていたけど。でも、そうすることで傷付くのは、結局彼女自身なんじゃないかなぁと、ぼんやり思った。そういう時期は、自分自身を傷付けたくなるのかもしれないけど。でも。……まぁいずれにせよ、ぼくは猫の置物以上の働きはできなかったのだけどね。
2006-09-12 09:15:55 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-09-11

# なぜ人は結婚するのか

 
 私たちの関係は、健やかなるときしか続かない。それじゃ嫌なのに。駄目なのに。
 
 病めるとき、貧しきときこそ、傍にいなければならないのに。そう思えるひとだから、一緒にいることを選んだのだろう?

正直言って、うらやましいな。こんな風に思ってくれる人がいたり、自分がこんな風に思えたりするっていうのは……。どうしてこんないい人と、別れる男がいるんだろうなぁ。
2006-09-11 19:46:03 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-09-10

# 快適な仕事場について

よかったですね。最近思うのだけど、快適に仕事できるかどうかって、人間関係がキーファクターになるような気がします。就職する時点で、職場にいる人と自分とのあいだに、居心地の良さを感じられるぐらいが理想的なのかなって。だから、ちょっとインフォーマルな感じで声をかけてもらえて、それを受ける気になれるというのは、よいはじまりのように思います。
2006-09-10 13:40:31 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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