メッセージ。 - diary

2006-09-20

# 日々

「ああ、秋が来たんだな」。誰もがそうぶやくほどの青い空。

お財布に五千円札が2枚。いつのまに? しかもその隣には二千円札もあるし! 逡巡して、五千円札を店員さんに渡す。

ところで、今日も自分の書いた文章が襲ってきた。最近はもう毎日だ。そこに書いた以上の意味はないのに。後から後から、思い悩む。

なにかが欲しいわけじゃない。そう叫びたい気持ち。でも、なぜ叫ぶの? その叫びを、誰に伝えたいの?

月頭ぐらいから口内炎がたくさん。熱はないけど、風邪っぽい。つかれてるのかなぁ。そう書こうとして、もう半月。やっと書いた。
2006-09-20 20:10:44 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# オタクって脇役好きなんじゃね?

あまり確証は持てないのだけど、オタクってのはそもそも脇役好きな気がする。自分が前面に立ちたくないというような感じ。自ら戦うのではなく、自分の現身を矢面に立たせたいという心情。だからオタクはものを作りたがる。ものを作って、それらを戦わせたり恋愛させたりする。それは、自らの肉体に対するcomplexity・不安感の現れだろうし、さらに言えば、その奥には父性/母性のアンバランスがあると思われる。サド/マゾの構図より、家族の中の自我という観点で捉えたほうが、よりシンプルに説明できるんじゃないかなぁ。
2006-09-20 13:39:37 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 後ろのほうにいたい症候群?

 
 映画というものが他人に語られたり、愛されたり、歴史に残ったりするときには、主な出演俳優と脚本と監督くらいしか話題にならないでしょう。あとは音楽と衣装とセットくらいですね。
 だけど実はそういうひとたちの陰に、大勢の無名なひとたちが集まって、自分たちの技術の限りを尽くしているわけじゃないですか。
 それがいいんですよね。

この感じはぼくもあるなぁ。ぼくの場合は、音楽でこれを意識する。メインボーカルっていうの? 一番前に出ている楽器や声じゃなくて、少し後ろを守ってる楽器や声が好きな感じ。これって、自分がそこを演奏するイメージで感情移入しているのかなぁなどとたまに考えるけどよく分からない。

あと、音楽だけじゃなくて、オタクアニメの艦橋シーンなんかもそう。「なんちゃらかんちゃら、オールグリーンです」、「よし、1番から3番まで砲門開けー!」、「なんちゃらかんちゃら充填、圧力95、砲門開きました!」みたいなやり取り。変なインジケータが(いくつか協調しながら)ニュニュニュニュニュと伸びるところなんかも、そういう感覚を刺激する#1。

背景にいる人たちや機械たちの働きが好きというか。みんなで一生懸命やってるって感じがいいのかなぁ。よく分からない。

 ----
#1 たぶん制作者側はこの心的構図を理解してわざとやっていると思われ、同様の表現はよく見られる。いわゆる「艦橋もの」。
2006-09-20 08:41:10 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-09-19

# Open Source Summit 2006

http://d.hatena.ne.jp/hyoshiok/20060919#p1
http://d.hatena.ne.jp/kinneko/20060916/p2
http://damedame.monyo.com/?date=20060916#p01

あー。行きたかったなぁ。行くべきだったなぁ。
16日だったのかぁ。すっかり忘れてますた。orz
2006-09-19 21:58:48 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# スパムフィルタを設置しました

スパムがあまりにひどいので、ブラックリストベースのコメントフィルタを設置しました。
重い重い腰をあげてやってみれば、30分ぐらいでできちゃった。やればできる子!
不具合を見つけられた方は、すみませんがふじさわまでメールなどでご連絡くださいませ。
2006-09-19 21:49:03 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# スパムうざいでしゅ (>_<)

スパムうっとおしいなー。今日は1時間に1回ぐらい来てるよー(涙)
なにか機械的な対処をしたほうがいいのかなー。あうあうあう。
2006-09-19 18:16:16 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 『フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元米国防長官の告白』を観た

フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元米国防長官の告白という映画DVDを借りてきて観た。ケネディ/ジョンソン時代の国防長官として活躍し、第二次世界大戦やベトナム戦争などに間近で携わったというマクナマラ氏。この映画では、85歳になったマクナマラ氏にインタビューし、氏が経験から得たという11の教訓を紹介する。

「人は善をなそうとして悪をなす」という言葉で検索していてたまたま見つけた映画。若くしてフォードの社長に抜擢されながらも、わずか数か月でそれを蹴って国防長官になったマクナマラ氏。アメリカを代表する超エリートの一人だろう。でも、そんなアメリカの超エリートが85歳になって人生を振り返る言葉には、東洋的な無常観に似たものがあって興味深いなぁと思った。

「人は善をなそうとして悪をなす」以外にも、「これで負ければ我々は戦争犯罪人だ」、「目で見た事実が真実であるとは限らない」という言葉が重い。国を動かし、多くの人の命を預ってきた人間が、齢を重ねるにつれ自分の無力さと罪にうちひしがれるのは、どんな気持ちなんだろう。社会的制裁を怖れてか、必要以上に自分の罪を認めたくないようだったが、その声は涙に震えていた。

戦後時間が経って、当時アメリカとベトナムの高官だった人たちが懇談会を持ったときのことも語られていて、そこでのやりとりも興味深い。冷戦のさなか、共産勢力の拡大を防ぐという観点でベトナムに介入していたアメリカは、北ベトナムの人がなぜあれほど抵抗するか理解できなかった。

「なぜあそこまで抵抗したのか? あのままいけば、ベトナム人は最後の一人まで失うかもしれなかったのですよ」と言うマクナマラ氏。かつてのベトナムの高官はこう答えたそうだ。「あなたは歴史を知らないのか」。「我々はもう何百年もの間、中国からの攻撃に抵抗して戦っているのだ。最後の一人になったとしても、我々は独立のために戦っただろう」。
2009-02-06 17:26:09 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-09-17

# どうでもいい話の扱い

昨日は久しぶりに、友達らとお酒を飲みに行ったのだけど、延々どうでもいい話に終始して考えさせられるものがあった。1年ぶりに会ったというのに、人はどうして、どうでもいい話に時間を費やすのかなぁ。

ぼく自身は、場の空気を壊さないよう相槌を打ったり、ごくたまにツッコミを入れたりしていた。でも、本当は、ああいうのは苦手だ。頭の中ではずっと、その場の人たちがどうでもいい話を楽しめているのかや、どうすれば場の空気を変えられるのかを考えていた。

ここで、どうでもいい話というのは、「どこそこの散髪屋に行っていくらで髪を切っているとか」、「先月は旅行に行って、ああだったこうだった」というような話。そりゃあ確かに、そういう話で近況を知ることはできるけれども。でも、「それで?」。「それで何を、どうして、ぼくやあなたは知りたいの?」と思ってしまう。
2006-09-17 11:05:38 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 意味

意味は、共通の体験や価値観を媒介として伝えられる。

たとえば、計算機と人間の間で意思疎通ができないのは、共通の体験も価値観も持たないからだ。計算機は体験というものをしない(いや、「体験」しなくもないかもしれない。ただ、少なくともそれは人間とはだいぶ違った方法であるだろう)。また、価値観というものを持たない。

一方で、動物と人間は比較的意思疎通できているように感じられる。たとえば飼い犬の様子を見ていると、一人でいるときは寂しそうにし、夜寝ているときは満足そうに思われる。信頼関係を築くことができるし、何が相手を傷付け、何が相手に好ましいと思わせるかを「知る」ことができる。
2006-09-17 10:05:55 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-09-15

# 「もうGoogleでいいんじゃないか?」という見方

「もうグーグルでなくてもいいんじゃないか?」という見方 - CNET Japanという記事を読んで逆に思った。「もうGoogleでいいんじゃないか?」。この記事にあるような、一番使いやすく一番便利なものを、誰もが求めているわけじゃない。bestではなく、good enoughでいいんだ。

こないだ書いた「Rubyらしさ」とも関連するけど、PerlとかWindowsとかPHPとか、技術的には全然bestじゃないものが市場を支配することが多い。誰もがbestを見分けられるわけじゃないし、bestを見付けるにもコストが発生する。ならば、市場にとってはむしろgood enoughこそがbestなのかもしれない。日本でYahoo!が強かったりするのも、そういうところにあるんじゃないかなぁ。
2006-09-15 12:44:20 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 1

2006-09-14

# 面白さについて

http://nnri.dip.jp/~yf/momoka.cgi?op=readmsg&id=1640 は何がそんなに面白かったのか、面白さというのはなんなのか、ちょっと分かったような気がするので書いてみる。

あのとき、ぼくの中で「リリン」というのは予想外だった。C言語やプログラミングについての話をしているときに、エヴァンゲリオンのキャラクターや世界観について、ぼくは考えない。それらのボキャブラリは、ぼくの頭の中で、いや心の中で相当遠い位置に配置されていて、どちらかのことを考えているときは、もう一方について発想がつながらないのだ。

たぶん、心の中でそれらボキャブラリは、分類・セグメント化され管理されているのだろうと思う。もうちょっと言えば、層状になっているか、2ないし3次元的な空間において、距離を置いて配置されている。

一方でぼくは、誰かの文章を読んだり、誰かの話を聞いたりするときに、続きをある程度予測しながら内容を理解しようとしている。出てくる言葉を心の中の一時領域に配置し、「これについて語ろうとしているな」とか、「この人はこういう風にものごとを考える人なんだな」と思いながら話を聞いている。

# 蛇足ながら、ぼくはこれを一種の追体験であり、自分とは別人格を自分内部にロードするという心理クローニング(コピー)であると考えている。つまり、コミュニケーションとは、他者の人格を自己内部に取り込んでものごとを多面的に見たり、なにかの行為が許されるか否かを判断する基準としているだろうと。

人の話を聞くとき、人は自分との共通点を探したり、自分との相違点を見つけたりして、この世界と自己と他者を理解していくのだ。ところが、ぼくの心の中で、C言語の話題とエヴァンゲリオンの話題はあまりにも遠い。それらのボキャブラリは別セグメントに配置され、相似性という鍵も見出せない状態にある。両者を混在して扱うという発想が、まったくないのだ。

ぼくは、あろはたんのプログラミング話はよく理解できたし(理解できる気がするし)、ボキャブラリの心理内配置についても近いと感じている。また、ジョジョやエヴァンゲリオンといった嗜好についても、ある程度近いものがある。しかし、それらはぼくの中で、あまりにも強固にセグメント化されている。プログラミングの話からエヴァへ突然振られても、ぼくの心の中でボキャブラリスタックが伸びない。

そのどうしようもなさ、放り投げられた感じ、混ぜるな危険的な感じが、面白かった。予想を裏切られてパニックになったというか、心理クローニングをハックされたというか。面白さというのはそういうものであるように思った。
2006-09-14 05:33:16 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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