メッセージ。 - diary

2006-09-02

# サイボウズさんの闇改修の話

高木浩光@自宅の日記 - サイボウズ「闇改修」の件のその後

実力を付けたいIT企業は、高木さんを社外監査役として招聘したほうがいいと思う。そこまでしないとしても、こうやって指摘されたときには、直接出向いて会って話をしたほうが有意義じゃないかなぁ。高木さんって、会って話してみると、全然怖い人じゃないし、基本的には高木さんのアドバイスどおり対応しておいて問題はないと思いますです。

あと、サイボウズさんについてだけど。悪気はなくて、単にやっぱりWeb 1.0的な会社なんだと思う。青野さんの社長日記とか見ててもそうだけど、めちゃくちゃ優等生で、毒にも薬にもならない話を書いてるじゃん? これ、ブログなの? と思う。ブログとして、個人の日記としての面白さからかけ離れちゃってる。

その、肚を割ることのできない姿勢というのかな。社長だけじゃなくて、会社自体もそういう傾向を背負ってしまっているんだと想像する。や、それは悪いことじゃなくて。誰だって社長になれば責任が重くていろいろ怖いし、普通の会社、目立たないけど優等生の会社という枠からはみ出てしまうことの怖さもある。

とくに、日本みたいな村社会では、「なんだあの変な会社は」と思われると、いじめの対象になっちゃいがちじゃん? 右見て左見て、目立たないようにすることが、旧来の日本社会における処世術なわけで。首をすくめるサイボウズさんを責める気にはならないなぁ。

青野さんとは、2〜3度お会いしたことがあるけど、優秀で志もある方なんじゃないかという気がしますよ。それに、なんといってもサイボウズさんは、日本のIT業界で珍しく、技術にも触手を伸ばす優良企業なんだし。

モヒカンの人たちは、青野さんのような人を斧で威嚇して崖から飛び降りさせるのじゃなく、優れたモヒカンになれるよう、そして村人たちにいじめられないよう、応援してあげたほうがいいんじゃないかな。

2006/09/02(Sat) 19:39:07 読み返してみて、非常に誤解を招く書き方だと思ったので追記。「斧で威嚇して崖から飛び降りさせる」というのは、この件に過剰反応したり、感情的になったりしている外野の人たちを意識して書いてます。高木さん自身は、冷静だし、客観的だし、素晴しい仕事をされていると思います。ああいう電話をかけるときって、双方とも感情的になりがちだと思うので、あんなに冷静に、大局観を失なわずに話をできるのはすごいと思うんですよね。

あ、あと、「サイボウズさんを責める気にはならない」ってところなんですけど。もちろん、脆弱性を改善してもらいたいし、いまのようなサービスポリシーは改めてもらいたいです。ただ、それを感情的になって責める(敵になる)のではなくて、修正できる点を指摘したい(味方として)、という意味合いで書いたつもりでした。分かりにくくってほんとすみません。
2006-09-02 14:10:19 / ふじさわ / Comment: 1 / Trackback: 0

# 文章を書くとき

文章を書くとき、2つのアプローチがあると思う。1つは、自分が知っていることを書くこと。もう1つは、自分がまだ知らなくて、知りたいと思うことを書くこと。誰かを笑わせようとしたり、何かを伝えようとするとき、人は前者の方法を使ってしまいがちだ。だけど本当は、後者のほうが断然面白くなる。

天才はそのことを知っていて、自分が面白いと思うことしか書かないしやらない(あるいは知らないでやっているのかもしれないが)。秀才はそのことを知らないで、自分が面白いと思うことではなく、別の誰かが面白いと思うことを書こうとする。それで失敗する。

ということをふと思った。
2006-09-02 00:11:29 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-08-30

# 傷付くこと自体は悪ではない気がする

傷付くというのは、心が痛いってことでしょう? で、心が痛いこと自体は悪いことじゃない気がするんだよね。

たとえば孫悟空の如意輪は、孫悟空が悪さをしたり、わがままを言ったりすると、孫悟空の頭を締め付ける。孫悟空はそのたびに頭が痛くって、いまいましいと思いながら旅をしている。お釈迦さまに会って、如意輪を外してもらうための旅だ。

でも、お釈迦さまによると、如意輪は孫悟空のために、彼の頭を痛めつけるのだという。彼を苦しめる如意輪は、彼の人生をよいものにするために、お釈迦さまが授けたものだ。お釈迦さまの言うことが本当なら、如意輪による痛みや苦しみは、憎むべきものなんかじゃ全然ない。

痛くて苦しくて嫌なものだけど、それはないと困るのだ。その痛みを憎んで、亡きものにしてしまえば、孫悟空にはもっと大きな苦しみが待っている。痛みは、痛みそのものは悪ではないケースがあるということだよね。

ぼくはこれは、心の痛みにも言えると思うんだ。心が痛いのは、単に表面上のこと(syntax)で、本当は、もっと大きな意味(semantics)の中で、それはうれしい便りの1つなのかもしれない。痛み自体が、その後ろの意味と直結しているわけじゃない。

だからぼくは、誰かを傷付けてしまったり、誰かから傷付けられることを、必要以上に悲しく思わない。傷付くということを怖れない。本当に大事なことは、その先にあると思うから。
2006-08-30 13:39:42 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-08-29

# 嫌な人もいるけど、いい人もいる

ほんっっとうに、女は奪われる性で、男が奪う性なの?
たしかにそういうシチュエーションやケースはあるだろうけど。普段生活するうえで、それをベッタリと意識しなきゃいけないほど、「女は奪われる性で、男が奪う性」というのは、支配的事実なのかなぁ。

そういう世界観は嫌なんだけど。そういうケースがあるにしても、「あくまでそれはレアケースだ」って思えるような世界であってほしいんだけど。ここが。「嫌な人もいるけど、いい人もいる」と思いながら生きたい。

「自分は奪われている」とか、「あいつから奪ってやろう」とか、そんな世界は嫌だ。もしたとえ、本当にここがそんな世界だとしても、ぼくは信じたくない。たとえぼくが女で、奪われ続けたとしても、「嫌な人もいるけど、いい人もいる」と思いながら生きたい。

だからぼくは、そう思う。「嫌な人もいるけど、いい人もいる」と思いたいから、そう思う。そう信じる。
……だって。そう信じないと、手に入らないじゃないか。たとえ今が嫌な世界だとしても、嫌じゃない世界に手を伸ばして歩き続けないと、いつまでたっても抜け出せない。辿り着けない。

今もし、「女は奪われる性で、男が奪う性」の世界にいるのだとしても、明日は別の場所へ行けばいい。行きたい場所に目を向けようよ。そのほうが楽しいと思うんだな。
2006-08-29 20:20:06 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-08-28

# momoka.cgiを古いのに戻しました

うがががが。momoka.cgiを古いのに戻しました。
CGIスクリプトを書き直してるんだけど、途中で嫌になってきちゃったのです。

いま360行ぐらいあるこのスクリプト。ただの日記で、たいしたことやってないのに、
こんなに苦労してなにやってるんだおれは?みたいに思っちゃうんですよねー。
ゼロから書き直したんだけど、360行というのは長くなりすぎた。
長くて複雑すぎるよ! プンプン。

作りたいのは結局、新山さんやgreenteaさんのように、シンプルでかつ、
そのときの気まぐれにいろいろな表現ができる場所。

ただ、できるだけHTMLを直書きしたくないんです。
プレーンテキストで書ける場所は、プレーンテキストのままデータを保存しておきたい。

未来の自分がデータを使い回せるように、不必要な枝葉を刈っておきたいのです。
自分が、いま、表現したいものを、過不足なくそこに閉じ込めたい。
HTMLを書くのはやぶさかでないけど、「<br />」を書くなら<br />が、
「<form>」を書くなら<form>が、そこにあるべき必然性のようなものが欲しい。

いまぼくが表現したいもの対して、「<br />」や「<a>」のようなタグは、
乱雑すぎる感じがするのです。気持ちが乱れてしまうのです。

ということで、スクリプトの書き直しをしてるんだけど、
そろそろプログラムより文章が書きたくなってきちゃいまして、書いてみました。
お元気ですか? 夏もそろそろ終わりですね。
2006-08-28 13:42:33 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-08-27

# [業務連絡] momoka.cgiを調整中です。

momoka.cgiで、もっと自由度が高い表現をしたいなぁと思い、調整しています。
しばらく見づらいところもあるかと思いますがご容赦くださいませ。

なお、http://pikapika.to/~yf/momoka-old.cgiで古いCGIスクリプトにもアクセスできます。
新しいほうのスクリプトで何か問題などありましたら、こちらを使ってください。
2006-08-27 11:55:54 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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