メッセージ。 - diary

2006-08-23

# 高校野球とマネージメント

高校野球で、どうしてピッチャーに過酷な日程を強いるのかという話について。
あまりまとまらないのだけど、マネージメント論の問題もあるのかなと思った。

「1人のピッチャーに何日も連投させるのはおかしい。高野連はもっと配慮を」って
言うけど、1つのチームに、ピッチャーって何人もいるんだよねぇ?
だったら監督が、適当にローテーションして、別のピッチャーを使えば
いいんじゃないかという気がする。

でも、たぶん、それはできないということなんだよねぇ。
優れたピッチャーはあまりいなくて、ローテーションなんて悠長なことを
やってると負けちゃうよ、と。
チームが負けるぐらいなら、1人のピッチャーに頑張ってもらって、
勝ちたいということなんだよねぇ?(監督だけでなく当の本人や観客も)

ローテーションやってたら勝てないと言うんなら、負けでいいんじゃね?と
思うけど、そうじゃない考え方もあるのだろう。

なんとなく、高校野球を好きな人っていうのは、「ピッチャーは1人」という
構図で十分満足しているような気がする。「ピッチャーもバッターも潤沢にいて、
マネージメントがしっかりしている」というチームは好まれないような気がする。
違うかな?
小さくて貧乏で弱いチームや、身近にいる普通の人が、
大きくてお金持ちで強いチームに勝つというストーリーが望まれているという仮説。

今回の高校野球が盛り上がっているのも、まさしく「ハンカチで汗をふく
男子高校生」という、いまどき身近にいそうな普通の人が、甲子園という
大きな舞台まで乗り込んでいったという構図が理由の1つでしょう。

そこでは、マネージメントなどというものは顧みられていない。
人々は普通の人が成り上がる根性物語こそが見たいのであって、戦術を
駆使した近代的なシステムを見たいわけではない。

1人のピッチャーがすべてを背負うという悲劇の物語は、
高野連だけでなく視聴者も求めているものであって、とくに現状の
ままで問題はないのではないか。
それも含めて、つまり高野連の非情をあれこれ言うためのネタを提供する
ことも含めて、エンターテイメントなんじゃないだろうか。

いや、ぼくは、それを非難したいわけではない。それはそれでいいと思う。
エンターテイメントはエンターテイメントなんだし、この指摘をするぼくだって、
このエンターテイメントを面白く感じるもの。

ただ1つ思ったのは、マネージメントが顧みられていないなぁということ。
SI業界の現状にも通じるものがあるんじゃないかなぁ。
2006-08-23 14:04:27 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-08-22

# 業務連絡

「最近のコメント」欄と「最近のトラックバック」欄を非表示にしていたのですが、近日中に元に、つまり「最新10件を表示」という感じに戻そうと思っとります。もし支障のある方がいらしたら、ふじさわまで直接メールをくださいませ。m(_ _)m
2006-08-22 13:02:27 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 感じ方の周辺2題

 
 「萌え」っていうのは、女の子の「カワイー」と一緒で、とりあえずそれだけ言っておけば、相手が "それなりに解釈して適当に共感" してくれる便利な言葉なんだろうなぁ。

おー。これはやけに腑に落ちる感じがしました。男の子たちも群れ化しているってことですかね。

 
 国語の試験というのは一般常識と「教師への服従度」をテストするためだけのものである。

これはぼくは、小学校低学年ごろに感じてたなぁ。正確には、「教師への服従度」ではなくて「教師の望む答」が望まれていると考えていたけど。ただ、そのころのぼくは読みが甘くって、「教師の望む答」イコール道徳的回答だろうと思っていたのだ(あれ? もしかしてこれは、新山さんの言う一般常識かな? まーとりあえず置いておいて)。

この認識が誤りであるらしいことを、国語の成績は徐々に証明していった。小学校4年生に達するころ、ぼくは国語がニガテな生徒になりつつあったからだ。いま思えば、道徳というのは、ぼくが思っていた以上にブレのある観念で、教師の道徳観を読むのは難しかったのだなぁ。

また、小学校高学年のころには、教師は道徳的要請だけでなく、国語教育的要請をも行動基準とするのかもしれないと予測。「文学者的価値観というのは、決してまっすぐではないのかもしれない」とも薄々気付きじめたのだ。だけど、そうするとこんどは、価値相対化ファクターが多過ぎた。結局ぼくは、国語という壁の前でとくになす術を持たなくなってしまったのだった。
2006-08-22 00:59:15 / ふじさわ / Comment: 2 / Trackback: 0

2006-08-20

# いま、この世界にいること

ぼくだって、赤面するほど無知だし、気遣いが足りなくて失礼なことをするし、ぼくの書くことに価値や意味があるかと自問することも多いです。「人間は、善をなそうとして悪をなす」という言葉もあります。善かれと思ってやったことが人を傷付けることがある。なにが善いことで、なにが悪いことかは、正直に言ってぼくには分からない。

ぼくには好きな人や世界がある。でも、何をすればその人や世界が笑ってくれて、何をすれば悲しむかは、本当に分からない。善が何かを知ることができない。大袈裟じゃなく本当に。クリントン大統領やテロリストがそうであるように、ぼくという人間は善悪の前に妥当な判断力を持ちません。殺人が罪だと思う一方で、牛の肉を食らうことに、ぼくは罪悪感をこれっぽっちも感じない。はっきり言って欺瞞以外の何ものでもない。

同じように感じている方もいると思いますけど、断崖絶壁に立っているような気分ですね。冷静で正常な判断力を持っているならば、前にも後ろにも進めないとしか判断しようがない。自分は、なんてちっぽけで、無力なのかと思い知る。そういう意味では、ぼくも自分と自分のいるこの世界は嫌いです。

でもねー。そうやって絶望するときもあれば、嫌なことをすっかり忘れて夜風の心地良さに酔ったりすることもあるんですよね。自分は馬鹿なことしか書けないけれど、それでも何かを書けば、それが他山の石として誰かの役に立つかもしれない。ちっぽけで、結果悪になってしまうかもしれないけれども、善になればいいなと思って、何か伝えたいという気分になることがある。それは本当に、ぼくも同じです。

                  *

それで、思うんですけど、嫌いというのは好きの裏返しなんじゃないかなーって。本当に本当に、この世界が嫌いで憎いのならば、そういう人が取るべき手は一つ。この世界を去ることだと思うのです。この世界が憎しみで満ち、何の期待も持てないおぞましいものならば、一刻も早くこの世界を去るのがその人にとっては一番うれしいはずです。

でも、多くの人はそうしない。「この世界を憎んでいる」と言う人は、憎しみのゆえに誰かを傷つけ、奪い、殺そうとします。でも、いったいぜんたい、それが世界に対する復讐になるのでしょうか? ぼくが本当に世界に恨みを持つ存在ならば、何人を殺し、何万人に悲しみを与えたとしても、満足はできないと思います。誰かの「悲しみ」を欲しいと思った時点で、この世界の一部をぼくが欲していることになるからです。それは、この世界の少なくとも一部を好きだということです。世界を恨み、憎んでいるはずが、その一部を望むというのは矛盾です。

結論として、嫌いというのは好きの裏返しにほかならないとぼくは思うのです。いや、好きというのは言いすぎとしても、少なくとも何らかの関心は持っている状態ですね。では、関心とは何なのか。そこに意味を見出す自分という存在を、どう自分の中で容認するのか。この世界の中に自分が存在することを、どう許すのか。

               *

誰かの他山の石になれるかもしれないというのは、まさしくぼくが、この世界を好きだと言うのと同じ感情だと思います。好きだからこそ、何かをしたくなる。この世界に波紋を起こすことに意味を見出し、それが善たる結果になってほしいと祈ってしまう。それが、生きているということであり、希望だと思うのです。

だから、多かれ少なかれ何かを感じてくださる方がいるというのは、やっぱりぼくにとってはうれしいことです。同じことを感じている人がいるなーと思って、励みになります。ぼく自身はちっぽけで、無力で、偏見に満ち、分かったようなことを書いて何も分かっていなかったり、何も生み出してはいないけれども。でも、この会話がまた何らかの意味につながるといいなと思います。
2006-08-20 02:33:08 / ふじさわ / Comment: 2 / Trackback: 0

2006-08-19

# ちがごろのわたくし

しばらく更新が滞りました。
見にきてくださっていた方には申し訳ないです。

えーと、正直久しぶりで、どういうメンタリティでここを
書いていいか分からなくなっているのですが、ぼちぼち
リハビリしながらゆっくり復帰したいと思います。

あらためて思うのですが、ぼくがここに文章を置くのは、単にこの世界が好きだからです。
ここに言葉を置けば、好きな人が読んでくれる。だからここに言葉を置きたい。
ぼくのいる場所から見えるものを伝えたいし、あなたのいる場所で何が見えるか知りたい。

なぜなら、ぼくはこの世界が好きだし、あなたのことも好きだからです。
いままで黙っていたけど、ぼくの好きなこの世界について、
ぼくの好きなあなたと会話できるのは、とても楽しいことなのですよ。
だから、ぼくは、ここにいます。
子供の帰りを待つ母のように、ぼくはここにいたいと思います。
2006-08-19 01:18:22 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 1

2006-08-09

# ...

すみません。日記を1件削除、1件保留状態にしました。ごめんなさい。
2006-08-09 14:41:42 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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