メッセージ。 - diary

2006-07-25

# あーなんかすみませんすみません。ワーキングプアについて。

えーと。一連のエントリはワーキングプアの問題について書いてます(w。
たまたまテレビつけたらやってて、見ちゃったんですよね。

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昔テレビで、あるプロ野球選手の半生を紹介していた。
1960年ごろなのかなぁ。その人がどこかの球団からスカウトされて
「プロ野球選手になりたい」って親に話したら、
「馬鹿野郎! そんなもので飯が食えるか!」と怒鳴られたとかなんとか、そういう話。

そのとき、この親父さんは遠いとこ見てるなぁと思った。
だって、野球だよ? 遊びじゃん。遊びをすることで、誰かがご飯代を支払ってくれる。
それはたしかに、おかしい。

おなかがすいたとき。
原始人なら、獲物を捕らなければ食べ物にありつけなかった。

でも、

弥生時代になって、農作業をするという選択肢が加わった。
中世になって、商売をするという選択肢が加わった。
近代になって、「プロの野球選手になる」という選択肢が加わった。

でも、基本は同じだ。
獲物を捕るのと同じ価値があるならば、それをして飯を食えるけれども、
獲物を捕るのと同じ価値がなければ、飯を食えない。それだけだ。

農作業をすれば、食べ物が直接得られる。
商売をすれば、食べ物を流通させて誰かの役に立ち、食べ物が得られる。
でも、野球をやって見せることで誰の役に立つというのか。
野球などというものが職業として成立するための構造は、
どういったものか考えたことがありますか?という問題だ。

プロ野球なんてものが成り立つのは、娯楽が必要だからだ。
国民が同じものを見、同じように感じ、「どこの球団が好きか」という
共通の会話を提供するために存在している。
「どこの球団が好き?」と聞いたとき、ヤンキースという答は想定されていない。
巨人か阪神か大洋か広島か。とにかく、なにか暗黙の前提が共有されている。

それこそが、ご飯代を提供しているパトロンだ。
自分たちが同じ国の国民として存在していると思わせる
プロパガンダのために、つまり「国」としての管理コストが
ご飯代を提供している。

そういった浮世の霞みたいなものを生活の基盤にすえて、
人間というものはいったい生きられるのかどうか。
プロパガンダに利用される生き方を、そんなに無邪気に是としていいのか。
あなたは生涯を、誰かのプロパガンダに捧げるのか?
それがあなたの幸せなのか?
そういう問題を、あの親父は論じていた。

ワーキングプアも同じことが言えると思う。
働いているのに収入が生活保護以下だって?
働くってなんだっけ? 生活保護ってなんだっけ?
働くということの意味を、もう一度考え直してもいいころなのだと思う。
2006-07-25 13:48:14 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 近代的方法論(あるいは寝言)

聞くところによると、外国にはたくさんの新聞社があるらしいですね。
日本というのは、住んでいる人の数に比べて、新聞社が少ないらしい。
なんでかな?って考えたことがあって、いろんな資料などを漠然と読むうちに、
ある考えが浮かぶようになりました。

これは想像ですけど、日本に新聞社が少ないのは、意図的にそうなっているのだろうと思うのですよね。
たぶん黒船が来たとき、日本という国は急速に近代化しなければいけなかった。
国民国家を作るために、住んでいる人たちで一丸となって欧米からの圧力に対抗しようとしたのでしょう。

そのために必要だったのが、意見の統一だったと想像しています。
皆で一丸となって一つの目標に向かうこと。
この島々に住む人々は皆こっち側の人間で、戦うべき相手が向こう側にいるというビジョン。
それを提供するために、新聞やラジオなどが使われたのだと思います。

だから、日本には新聞社が少ない。
また、テレビやラジオの大きなキー局も、東京に集中してるんじゃないかと思います。
それは、ブレのない1つのビジョンを提供するためだったのではないでしょうか。
黒船来航以来、日本という国は近代化に向けて、フラットな構造を追究してきたのでしょう。
東京という中心があって、それ以外の街や村から提供されるリソースを、効率的に使おうとしました。
そのために、それぞれのお国言葉を排除し価値観を統一する必要があったと考えます。

こういった近代化は成功し、日本は確かに国力を向上させます。
外国と戦争をできるまでに成長し、結果的には暴走して国を焼きましたが、
近代化や、近代的方法論のパフォーマンスを証明することになりました。

戦争が終わった後も、この国は近代的方法論を執りつづけます。
国全体をフラットな構造にし、各地からリソースを集めて工業生産を効率化させたのです。
東京は、いまも昔もそのコントロールタワーです。

小学校のとき、日本の主要産業は加工貿易だと習いました。
地方から集められた若い労働力は、東海道ベルト地帯に集められて、車や家電製品を大量生産します。
言葉や価値観を統一させるという日本システムは、人的リソースの歩留りを高め、
もともと勤勉な気質も手伝ってか大きな生産性を発揮します。

しかし、加工貿易を順調に進めるという目的のため、
また過去の戦争の失敗による負の遺産によって、
日本システムは地方というエコシステムを完全に切り捨ててしまいます。
それを端的に表しているのは減反政策です。

工業製品の輸出と引き換えに、日本は食料の輸入を約束させられます。
また、食料自給率は戦争のための体力に直結するので、そういった意味からも、
国際社会のなかで、十分な自給率を捨てることを要求されたのです。
高い食料自給率を維持していると「また戦争をするんじゃないか?」と勘繰られますから。

かつては地域にエコシステムがありました。
食料や衣類、生活に必要なものなどを自分たちで作り、自分たちで消費していたのです。
そういったシステムは、集落ごとにありましたし、いくつかの集落が集まった村や、
村が集まってできる「くに」にもエコシステムがありました。
それらは層状に重なりあい、まるで枝葉をたどると樹木の幹にたどりつくように、
有機的結合状態にありました。

このエコシステム、生態系は、近代的な加工貿易国家という目的の前に、
分解させられます。
樹木状になっていたシステムは、東京や北大西洋条約機構を中心とした
フラットな構造に再配置されたのです。

# 書きかけ。あとで推敲しますー。
2006-07-25 01:42:00 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-07-24

# コンビニという標準API

コンビニってのは優れたシステムだな、と思う。たとえば、ぼくはコンビニをよく利用する一方で、街の食堂や雑貨店にはめったに行かない。なぜかと言うと、街のお店に行くのが怖いからなんだなぁ。

コンビニというのはどこにでもある。あるコンビニの使い方を覚えたら、別のコンビニに行っても不自由しない。標準化されたシステム。子供のころからコンビニを使っていたぼくにとって、それは「全国どこに行っても利用できる」魔法のシステムとなっている。

逆に、街のお店はそうじゃない。お店によってメニューやマナーは違うし、人間的なやり取りが要求される。地域のお店は、単に金銭と物品を交換するだけではない機能を担っていて、それらを利用することは、「地域の人間になる」ことを意味している。

横浜に引っ越してきてもう何年もたつけど、どうもぼくは地域のお店に行く気が起きない。それがなぜかと考えているのだけど、もしかしたら横浜の人間になる意思を、ぼくが持っていないせいかもしれない。どうもこの街に受け容れられている気がしないし、ぼくがこの街を受け容れる余裕もない。

この街には、知っている人がいない。好きな人がいないし、ぼくを好きでいてくれる人もいない。コンビニという標準APIさえあれば、ぼくの生活はこの街に接続しないでも継続させられる。異邦人のまま、この街にとどまることができる。それは、街という機能の可搬性を高める抽象化であり、人というリソースの可搬性を高める抽象化なのだろう。
2006-07-24 09:44:05 / ふじさわ / Comment: 4 / Trackback: 0

2006-07-22

# オープンソースの光と影

ふぅん。EasyEclipseかぁ……。
「光と影」っていうほど大袈裟な話じゃないけど、dieさんの視点は鋭いなぁと思ったのでメモ。
2006-07-22 17:33:53 / ふじさわ / Comment: 2 / Trackback: 0

# 「完成された未完成品」

完成された未完成品であることが重要ではないかと思う
 自主的に何かやるたびに、経験不足を痛感する。何もやらなければ「そういうことはxxすれば良いだろう」と思えるのだが、いざ本当にやろうとすると簡単そうなことでも、いろいろな困難がつきまとう。xxがまったく通用しないことに気がつく。

状況はつねに不十分だ。現実的ということは、不十分ということ。生きるということは病を背負うということ。不十分さを直視し、それを生かすこと。完成された未完成品。アナログとはそういうもので、世界がアナログであるということ。

不十分さは嘆きの対象じゃないように思う。不十分であるということは喜ぶべきことなんじゃないのかな。ライオンに食べられるからといってシマウマがライオンを憎むなら、シマウマだって、草木から憎まれてしまう。そうやって、すべての生き物がすべての生き物を憎んで生きるのか。

(これじゃ分からんw。もうちょい書くこと)> 自分
2006-07-22 12:43:40 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-07-21

# 蝉の声が聞こえる

最近、仕事とコンピュータのことより、男女とか変なテーマばっかり書くようになってしまっている……。これに関連して気になる問題は2つ。

(1)面白いですか? 面白くないですよね?(質問調ですが、お返事を返されるとふじさわが悶死しますのでご遠慮ください。スミマセン)
(2)男女のようなテーマにあまり言及したくない
(3)フンガー。

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言及したくなければしなければいいじゃないか。
うん……。たしかに。でも、してしまうところが問題なんだ。

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ぼくは正しくない。間違ってる。
そこだけは誤解のないようにお願いしたいです。
 
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さぁて、今日は何を食べよっかなぁ〜☆
 
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次に引っ越すときは、子供の声が聞こえる家に住みたい気がする。
日曜日の午前中にふとんの中でまどろんでいるときや、
夕日が部屋を赤く染める時間に、遠く近く街の声が聞こえるような場所。

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人と人との間には、距離がある。
たいていその距離は遠すぎて、
手を伸ばしたときには間に合わない。
だからそのときのために、
声をかけて距離を確かめておくことには重大な意味がある。
たとえいまは、全然届かなくても。

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涼しい夜も、もうそろそろ終わりかな。
おやすみなさい。(2006/07/22(Sat) 00:53:47)
2006-07-21 14:19:11 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-07-20

# 記録の断片

外から見ると簡単そうだけど、いざ実装にとりかかってみると、
案外落とし穴に落ちてしまってうまくいかないことは多い。
むしろ、予想外の問題にぶつかることがほとんどだ。
だからやってみることが大事。予想するだけでなく実装してみること。

オタクがオタクたる所以は、実装に伴う困難を想像できていない
(あるいは実装に伴う困難を極端に嫌う)ことにあるような気がした。

問題の解決を目的とするならば、理論だけじゃなく実践も必要。
実践することによって理論は構築されていき、理論はまた実践に活かせる。
漸近的なアプローチの有効性について検討の余地があるなぁと思った。
……この記事を読んで。

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ものづくりをしている人間どうしなら、分野は違っても「実装に伴う予想外の問題」についての
感覚を共有できるのかなぁ。(こういう感覚がある程度普遍性を持つとして)

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公開していた日記を1件、保留状態にしました。スミマセン。

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「あなたのパソコン」、「わたしのパソコン」という意味での「マシン」。
つまりパソコンのインスタンスであるところの「マシン」という表現は、
すっかり定着したなぁ……。

初めて聞いたときは、「大人がそんな言葉使っていいの!?」と思ったものだ。

パソコン一般のクラスを指し示す「パソコン」という表現ではなく、
インスタンスを指し示す言葉が必要だったというのはなんとなく理解できるけど、
なぜかはちゃんと調べておく価値があるかもしれないなぁとふと思った。

こんなに明確に、クラスとインスタンスを使い分けたくなる概念は
ほかにあるのかなぁ。「人間」と「ぼく/わたし」の関係なんかはそうだけど。

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あれー? なんか違うような気がしてきた。
マシンというのは、「パソコンのインスタンス」ではなくて、
「手元にある具体的な処理系」という意味なのかなぁ。
つまり、PCかもしれないしワークステーションかもしれないしPDAかも
しれないけど、とにかくそこにある処理系という意味での「マシン」なのかな?

もうちょい考え。

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子供の心配をするのが、親に課せられた一番の試練、か……。

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2006/07/21(Fri) 00:01:04。おやすみなさい。
2006-07-20 12:20:53 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 友達

ぼくは男の友達が少ない。
ほとんど外で遊ばないからだろうか。
お酒を飲みに行ったり、街をブラついたりするときは
たいてい女の子とだ。

お酒がそもそも好きじゃないというのは理由の1つかな。
男友達とお酒をともにするのもたまにはいいけど、
話があまり合わない。
男とじかに話していても、なかなか核心に向かわないような気がする。

それに、男は誘いにくい。
「飲もうよ」とか、「服でも買いに行こうよ」とか、
「河原でバーベキューをやろう」とか、
普通はそういう風に誘うものなのだろうけど、
どうも照れくさいし面倒くさい。

ぼくは、「彼がぼくから誘われる必然性」を用意できない。
女の子相手なら、「なんとなく好きだから」ですませられるのに。

男と女というのは、誘う口実としては簡単でいい。
男と男のあいだでは、口実を見つけるのが難しい。
ん? 口実? 誘うことが目的ってこと? んー……。

まぁ、たまにお酒を飲みたいとか、街の風に吹かれたいとか、
そう思うことはぼくにもあって。
そういう時間を、誰かと共有するのは悪くない、って感じかなぁ。
誘う口実として、「男と女」というのはうまく機能するけど、
その先の時間、別に相手が女である必要はないと思う。……たぶん。

なんだろうなぁ。
生きるのも、長くなると、理由が必要になってくるってことかな。
ぼくにとっては、男であるとか、女であるとかは、手っ取り早い理由の1つ。
2006-07-20 09:16:55 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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