メッセージ。 - diary

2006-06-15

# ヘタレる

http://www.hirax.net/diaryweb/2006/06/03.html#200606032

Hyper Estraierの平林さんがmixi入りっすか。ほぇ〜。今後mixiの検索はぐんと良くなると思われ、ますますご清祥、まさしくご清祥のこととお慶び申し上げます。鵜飼さんはGoogleらしいし、みなさんすごいなぁ。おらはどうしよう……。つーかどうにもならんのだけど。orz

そういや昨日、仕事してたらいきなり、「アイアムへっどはんたー。アイウォントトゥハブアミーティングなんたらかんたら」とかいう電話がかかってきてしどろもどろになったのが奇遇っつーかなんつーか。

ヘッドハンター? ぼく、ヘッドでもなんでもないですから! 残念!
とか思いつつ、残念なのはどっちやねんっていう話ですよねほんまに。たとえば平林さんや鵜飼さんは、ヘッドハンターから電話なんかかかってこないから。本物の「ヘッド」のところには、ヘッドハンターから連絡なんか行かない。ヘッドハンターから電話が来るってことは、ぼくが「ヘッド」でもなんでもない証だバカヤロー。

まー天にツバするのはいい加減見苦しいのでやめるとして。あーあ。この先ほんとにどうしようかなぁ。ていうか目の前にある仕事をちゃんとこなさなきゃいけないんだけど……。ううう。しんどい。

仕事をしんどいと感じるのは、ぼくがダメだからで、どこへ行っても同じだろうからなぁ。しかも、いまの仕事はそれなりに面白い。うまくこなせるなら、やる価値がある仕事だと思う。うまくこなせるなら。ううう。まーそんな感じっすね。
2006-06-15 19:00:31 / ふじさわ / Comment: 2 / Trackback: 0

# デスクトップバトン

shinoさんからいただいたので、一応。
帯域が狭い人向け → http://nnri.dip.jp/~yf/desktop_s.png(100KB)
帯域が広い人向け → http://nnri.dip.jp/~yf/desktop.png(600KB)

あまりメンテとかしてないのでグダグダな感じです。つーか、心のデスクトップはザウルスちゃんなので、Windowsはおざなりですね(という言い訳☆)
2006-06-15 12:44:49 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# あろはさんからコメントをいただきました!

あろはさんからコメントをいただきました!

ありがとうございマウス! こちらこそ光栄です。いつも(こっそり)拝見していますよー。あろはさんの日記は、正直よく分からん難しいときもあるのですが、分からなさも楽しい感じです。心地良い分からなさというか。あまりに楽しく面白いので、友達にも紹介したくなって今回は言及させていただきましたー☆
2006-06-15 00:54:40 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-06-14

# セキュリティについて

セキュリティって難しいなぁと思うのだけど、一応最近考えていることをちょっとまとめてみます。

ある人の日記で、「バカでも安全に使えるコンピュータ」という言葉が使われていた。また別の人のところで、「コンピュータが自動的に危険を察知して対策を施す」という言葉が使われていた。これはとてもよいヒントだった。

まず、「コンピュータが自動的に危険を察知して対策を施す」ことは可能か?という問題なんだけどね。ぼくは無理だと思うんだよね。コンピュータは、「危険」というものを理解できないはずだから。たぶん、「幸せ」を理解できないのと同じぐらい、コンピュータは危険を理解できない。「幸せ」や「危険」は定義できないので、そのような処理をするコンピュータも作れない。

たぶんコンピュータに限らず、すべての道具がそうなんだ。人間を「自動的に」幸せにしたり、安全にする道具は存在しない。……たしかにね、ときには自動車が、あるいは電話が、毛布が、包丁が、火が、人間を幸せにしたり安全にすることもある。だけどそれは、ときに人間を不幸にしたり危険をもたらしたりもする。

ねぇ。安全な包丁は、作れると思う? バカでも安全に使えて、どんな小さな子供でも安全に使えて、強盗に襲われたときにも安全に使えて、怪我をすることなく安全に料理ができる包丁、そんなものは作れるだろうか。残念ながら、それは作れない。安全なコンピュータも作れない。……どんな道具も、人間が使い方を間違えるのを防げない。

結局、道具は、使う人の目的を理解できないんだな。そして、「目的」が分からなければ、「安全」も提供しようがないよね? 要するに、「安全」というものは、「目的」なしに論じることができないんだとぼくは思う。同じように、セキュリティも「目的」なしに扱うことはできない。でも、現代の多くの人が、「目的」をすっとばしてセキュリティを扱ってしまっている。

セキュリティに関する議論は、収束しない。でもなぜ? ぼくが思うに、セキュリティの議論は、ビジネスプロジェクトが失敗するのに似た過程をたどる。ドラッカーが言うように、ビジネスプロジェクトを成功させたければ、まず「どうなったら成功か」を定義しなければいけない。でもほとんどの人やプロジェクトがそれをしないで走りだす。セキュリティも同じ。

プロジェクトを成功させたければ、まず「成功」を定義しなければいけない。それと同じように、セキュリティが欲しいのなら、「安全とは何か」を、そして安全と表裏をなす「やりたいこと」を定義しなければいけない。

人には、それぞれやりたいことがある。エベレストに登りたいという人もいれば、アイドル歌手になりたいという人もいる。そういう人たちに、「危険だからやめておけ」って言うことに意味はない。彼らには、リスクをおかしてもやりたいことがある。むしろ彼らの「やりたいこと」を矯正するほうが、よっぽど危険だとぼくは思う。

エベレストほど危険なヤマじゃなくても、「やりたいこと」、「ぼくらの目標」というのは人間の数だけ存在する。十把一絡げには論じられない。本当にセキュリティを提供したいのなら、まずはちゃんと相手の「やりたいこと」を知る必要があるんじゃないのかな。相手の立場からスタートする必要があるんじゃないのかな。それは本当に、難しいことだとは思うけど。
2006-06-14 20:55:45 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 面白いよあろはたん面白いよ。

等価変換な日々

どっかのネタにリンクしたかったんだけど、どこに言及していいか分からんw。
世の中には面白い人がいるもんだ。
2006-06-14 11:06:04 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-06-13

# 表現とシャーマニズム

「編集者Blogはナゼ滞るのか」って? そんなの当たり前じゃないの?

だって考えてもみなよ。肩書背負うってことは、自分の書いたものを職場の同僚が読むってことでしょ? あなた職場の同僚が読んでいると知って、「面白いこと」なんか書けますか? 自分の本音さらけ出せますか? 出せませんよねぇ……? それができる人もいるし、そうしやすい職場もあるだろうけど。でも本質的には、それができたらその人は物書きであり、シャーマンだと思う。

モノを書くというのは、手の内を明かすこと。心の内を見せること。書くだけじゃなくて、いろんな表現がそう。たとえばサザンのコンサートに行くと、桑田佳祐は「みんなのことが好きです!」って連呼する。もう馬鹿みたいにそればっかり。でも、見ているぼくらは、その言葉に嘘偽りがないと思える。信じられる。好きな人が目の前にいるからこそ、人間は表現できるんだ。

かつて渡辺えり子さんは、ステージで歌をうたうことを「セックスしてるような気分になる」と表現した。まさしく正鵠を射る表現だとぼくは思う。結局のところ、すべての表現はそういうことだ。書くこと、読んでもらうこともそういうことだ。シャーマニズムとは、ウチとソトが混ぜ合わさってしまうこと。編集者はウチとソトとを分ける門番。本当に表現している人なら、プロアマを問わず分かっていると思うのだけど。どうかね……。
2006-06-13 20:27:43 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# ちょっと出遅れましたが

Wataru's memoが更新再開だそうです。一部方面の方にはなみだちょちょぎれのことでしょう。
2006-06-13 18:46:16 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-06-12

# あいかわらず、よしおかさん、かっこいいな

2006-06-12 21:55:42 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 遅まきながら2006年の抱負を

「何とかなるさ」でいきたいと思います。
2006-06-12 13:12:04 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-06-11

# 少子化関連で頭の中に思いついた言葉をメモ

- 日本にいる人は、社会というものを憎悪しているんじゃないか。社会というものの存在を窮屈に感じているんじゃないか。
- 表面上は社会に迎合するけれども、一人になる時間を欲しがっているのではないか。
- たとえば女性向けファッション雑誌にはいろいろな(資本主義的)煽り文句が載る。人は表面上それに迎合するけれども、内心は乗せられたくないと思っているのじゃないか。
- 社会から「結婚しろ」と言われても、踏み切れない人が負け犬になっているのじゃないか。
- だから負け犬は、そのことを自嘲しながらも一方でその生き方に誇りさえ持っているのではないか。
- 果たして社会というものが、そこに住む人に「幸福な暮らし」を与えられるのか?
- 社会が「子供を生みなさい」と言ったとして、人間はそれに従うものなんだろうか。
- ある面から見ると、社会というのは必要悪で、人間はそれと戦いながら生きるものじゃないだろうか。
- んー。海外と照らし合わせたりして具体的なことを書きたいけど、書ける力量がない。保留。
2006-06-11 13:01:15 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 日本の少子化の話とか

 
 ・「母」という価値が下がっている。これは「父」もそうだけどとにかく「家族単位」の価値自体がエートスとして低い。ファミリー単位でという変な建前の蔭には、ファミリーへの侮蔑がある気がする。夫婦単位というのが日本では重要でないように。表面的な経済では推奨されていても、実質にはそれらが理想とはなっていない気がするんだが。どうだろうか。
 
 「子供の文化」「若者文化」が最先端であって、家族の文化、夫婦の文化というのは建前にしか存在していないように思える。このあたり、あのラテンの国々の家族や夫婦の在りようとの差はなんだろうと思う。もっとも家族単位が過ぎてバカンスを一族で過ごさねばならない文化は日本人には辛いとも聞く。友人は離婚してしまった。日本人の方が夫婦間も家族間も淡泊なのかも。

あーそう。「日本は母親がしんどいだけじゃなくて、父親もしんどい。日本は人間に対して高い高い社会性を要求する(人間性を否定するほどに)」ということを言いたかったのだけど、うまく言いたいことが言えないのだった。この人はうまく表現してくれてるなぁ。ちょい考え。
2006-06-11 12:35:36 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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