メッセージ。 - diary

2006-05-24

# うる星やつらとドラえもん問題

ぼくはあまり、男っぽい男ではないと思うし、
女の子と話をするのも比較的得意だったりするのだけど、
脳のつくりはやっぱり男なのかなぁ……。

子供のころから、「うる星やつら」がずっと違和感なんです。
最初このタイトルを見たとき「うるほしやつら」かと思ったん
ですよね。で、「???」となっていたところ、誰かに
「それはうるせいやつらだよ」と教えてもらったのです。

でもねー。
そのタイトルにこもったメンタリティが、すごく理解できない
のです。これって、すごく女性的じゃないですか?
「うる星」にする必要ないですよね? 「うるさい」で
いいじゃないですか。それとも逆に、まず「星」がテーマに
あって、それをタイトルに入れるべく「うるさい」→「うるせい」
にしたのかなぁ。それにしても……。

と思うんですけど。たぶん女性の方は、このタイトルが
気にならないんじゃないですか? どうでしょう。

男って、たぶん、必要性、機能性を求めてしまうんですよね。
だから「うる星」が「うる星」でなければならなかった必然性や
意味を、どうしても求めてしまう。欲しくなってしまう。
でもこの作品には、それがないように思うんですよね。(まー
あまり詳しく知らないで書いてますけど)

「うる星やつら」は、タイトルだけじゃなくて、内容もそう。
毎回同じようなドタバタで、そこから意味を汲み取れないですよね。
「だから何?」、「で、結局どうなったの?」って、すごく
突っ込みたくなっちゃいます。もう地団駄踏んで悔やしがります。ほんとに。
でも、何が悔やしいのか自分でも分からないんです。

「お前、もうちょっとこう、こう、……なんとかならんかったのか?」と
思うんですよ。分かってもらえるかなー。分かってほしいなー。

で、逆に好きな漫画なんですけど。男にとって好きな漫画といえば、
もちろん「ドラえもん」なんですよね。「ドラえもん」はいい。good。
「ドラえもん」って、なんで「ドラ」がカタカナで「えもん」が
ひらがなか知ってます……?

あるときどこかで、ロボットの住民登録か何か事務手続きが
必要になったんですよ、ドラえもん。で、「ここに名前を書きなさい」って
言われて、格好付けてカタカナで書こうとしたんですよ。
でも「ドラ」まで書いてカタカナの「エ」のつづりが思い出せなかった。
それで、残りは「えもん」ってひらがなで書いたんです。
だから「ドラえもん」。

なるほどなぁと思いますよね。え? 思わない? まーいいじゃないですか。
「ドラえもん」という作品は、ドラえもんが主人公ですよ。
彼が登場しないと、あの作品は成り立たない。だからあの作品の
タイトルは「ドラえもん」。これで間違いない。必然。異議なし。
内容にしても、毎回トラブルが起こって、道具でそれを解決しようと
して、でも解決は困難で、まぁ次回持ち越しと。
すっきりするんです。「あー面白かった」と思う。
でもなぜか、「うる星やつら」には、このすっきり感がないんですよ。

「うるさいやつらが主人公? うるさいの?
ふーん。たしかにうるさいね。で?」、「だから何?」と
思ってしまう。地団駄踏んでしまう。もうほんとに。
なんでなんでしょ? 「解決のための努力しろよ」と思うのかなぁ?

……まぁいいや。
でね。何が言いたいかというと、この問題っていまのぼくらの
身のまわりでも顕在化してるんじゃないかと思うんです。
たとえば女の人の日記とか読んでてね、「で? だから何?」とか
思うことが結構あるんです。逆に、ぼくの日記を読んだ女の人から、
「ひどい! 私の気持ちを分かってるくせに!」と言われることもあります。
いや、そう言われても……。

たぶんね。これ、どっちも悪くないんですよ。
本当にどっちも悪くない。ぜんぜん悪気はないし、なんかこう、
双方「これがいい」と思う方向に楽しんでるんですね。
でも実はすごい擦れ違いが起こってるんです。
男女のあいだのこういう溝って、根源的なんじゃないでしょうか?
うまく言語化しておくと、きっと役立つと思うんですよね。
もうされてるのかなぁ。どなたかご存じでしたら教えてくださいませ。m(_ _)m
2006-05-24 20:49:14 / ふじさわ / Comment: 7 / Trackback: 0

# はじめてのトラックバック

うほっ!!!!!
初めてトラックバックをいただきました!!!!!
Piroさんありがとうございます!

……とか陽気に騒ぐ雰囲気でもないけど、
あと、不具合がありそうなので修正などするつもりですけど、
でもとりあえず、うれしかったのです。わーい。ありがとごじゃますー。
お返事というか、ちょっと思うところがあるので、あとで
なにか書きます。
2006-05-24 13:09:37 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-05-23

# 『私という病』をめぐって戯言など

『私という病』について1つ疑問なのは、みんなこのことを
話題にして、どうしたいの?ということ。どうしたいの?

ぼくは、中村うさぎさんの本を読んで、この人と友達だったらなと
思った。この人の悩みを聞いて、ぼくも悩みを話して、
一緒にお酒を飲んで、街を歩いて、なにかできることがあるなら
してあげたいと思った。

や、そんなことはおこがましいし、そこまで責任取れないというか、
この人をそこまで好きになれる自信がないというか(まぁその前に
好かれる自信だわな)、「『本当に』それをできるのか?」と問われたら
意気地なしになっちゃうけど。

でも、なんとなく、ぼくの持つ何かを賭ければ、この人の「病」を
いくらかでも軽減できるんじゃないだろうかと思ったのは事実。
おこがましいね。(笑)

でもでもでもさー。そういう関係の人が一人いれば、もし自分が逆の
立場になったとき心強いじゃん。そういう人になら、つらいとき、
涙の1つも見せられるような気がするじゃん。

「私という病」がもし存在するのならね、男と女の間の壁がそれを
作っているというよりも、あなたとわたしの間の壁がそれを作って
いるのじゃないかと思うのですよね……。
2006-05-23 20:08:22 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# オープンソースを仏教史で解く

http://d.hatena.ne.jp/masataka_k/20060518/1147918377
http://d.hatena.ne.jp/masataka_k/20060519/1148030420
http://d.hatena.ne.jp/masataka_k/20060522/1148278384

あ。これは面白い。とくに最後のやつは流行るオープンソースという
切り口で説得力がある感じ。文章力で読まされているだけかもしれないけどw。
あっけらかんとした感じが、Javaの人たちらしいなぁと思った。
とりあえずメモ。
2006-05-23 18:10:00 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 病ってなんですか?

うーん。大野さんの日記にコメントをしたつもりが、
反映されないなぁ。

何度も同じコメントを送るのはやらしいので(それと、
送ったつもりのコメントとは別の論点について書きたく
なったので)、ここに書いてみます。

大野さんは「本能」と「病」を分けて考えていますよね。
これはなぜでしょうか? 本能を是とし、それ以外を
「病」として否定することは、本件を考えるうえで、
妥当なのでしょうか?

たとえば、本能として一般に認知されている(と思われる)
男は一夫多妻を求め、女は一夫一妻を求めるという説が
正しいとするならば、もはやそこに軋轢、つまり病の種が
存在するからです。

現在の社会形態において、男は一夫多妻という本能的
欲求と一夫一妻という社会的欲求の中で分裂的な要求を
強いられているのです。そりゃあ病むというものですよ。

つまり、本能を全肯定する一方で病を全否定するなどと
いうのは矛盾した論理なのです。本能を肯定した時点で
病の存在も肯定しなければならない。あるいは、もはや
男女が別の星に住むか。

……男からしてみれば、抑圧された自我の中で、二次元や
架空という幻想の世界に逃げこむという行動は、
できるだけ他人に迷惑をかけない、妥当かつ良心的な
防衛規制だと思いますよ。違いますかね?

だから、病は必要悪だと思います。とくにとりたてて
騒いだり、「男の病」、「女の病」などと分けるのは
乱暴だと感じます。生きるということは、病を背負う
ということです。だけど、健やかなるものもそこにある。
それぞれの病があり、喜びがある。是でも非でもない。
ぼくはそう思います。

# 急いで書いたので穴があると思われます。
# つっこみ歓迎ということでお願いします。m(_ _)m
2006-05-23 13:45:22 / ふじさわ / Comment: 6 / Trackback: 0

2006-05-22

# ESPer2006 未踏集会

ゆきちさんが企画された、未踏に採択された人たちの同窓会「ESPer2006 未踏集会」が5月20日にあった模様。話には聞いてたけど、満席とのことで行かなかったのだ。でも楽しかったそうで、行きゃあよかったなぁ。

 
 懇親会ではデモあり、プレゼンありで非常に楽しかった。これだけのすごい人が一同に集まったというのがすごいすごい。
 だけど、みんな孤独なんだよなあ。ネットワークしてなくて、だからこれだけの人が集まって、ネットワークしたいわけだから、ある意味、日本という社会システムからはじき出されちゃった変な人たちなのかなあ自分は、とか思った。

ふぅむ……。
2006-05-22 22:24:14 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 最終電車と街の灯と

こないだ、いつものように終電に乗っていたら、
同業者らしい人の会話が耳に飛び込んできた。

隣りに立っていたおじさんと女の子。
おじさんのほうは、ロマンスグレーでちょっといい
スーツを着た管理職って感じかなぁ。
女の子は、まだ若くて20代半ばに見えた。

配属されてからこのかた、上に付く同僚がみな脱落して、
まだ2年目のころから一人で客先に行っていたという彼女。
「まだ私、何も分からないのにお客さんのところに行って、
見よう見真似で打ち合わせしたり仕様書作ったりして、
しんどかったです」って。

男のほうは、たぶん育ってきた職種が違うのだろう。
「ふぅん。そうなのかぁ」と相槌を打つばかり。
現場の過酷さを理解できない、してあげられないという風でもあり、
小さな女の子の力強い言葉に気圧されるようでもあり。

「だから、いまの仕事はだいぶ楽です。
あのころは何か、……先が見えなくて。
先輩たちがどんどんいなくなって、私たちも休めなくて。
それが何年も続くと、体がおかしくなってくるんです。
本当に体が動かなくなって。
だからあのころに比べれば、いまの仕事は全然楽です。
いまの仕事のほうが、断然楽ですねー」。

そうつぶやく彼女は、はるか遠くを思うように、
夜の街並みを見つめていた。
男は何も、言葉を返せなかった。
2006-05-22 22:01:58 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 具体的なこともしてますょ!

抽象的で情緒的な日記ばっかり書いてたらいかんなーと思い中。
だって、毎日まいにちそんなのばかり読んだり書いたりしてたら、頭おかしくなるよ。
それになんか、あざといし。
つーことで、具体的な何かを出したくて一応手は動かしているんだけど、
なかなかうまくいかないっすねー。

たとえばいまは、

(time (let loop ((count 6502) (out '()))
    (if (= count 0)
        (reverse out)
        (loop (- count 1) (cons count out)))))

というコードをZaurusで動かして、「なんで0.1秒もかかるんやろ?」とか
悩んでいます。「(cons count out)」の部分を「out」にすれば、
0.05秒で実行できちゃうのです。

やりたいことは、Wikiページレンダリングの高速化。
レスポンスタイムを0.5秒以下にしたいんですけどねー。
consって案外重いんやろか……。consするときのメモリアロケート(メモリアロケートしてるとして)が重いとか?
うーんうーん。まーそんな日々ですねー。
2006-05-22 18:14:25 / ふじさわ / Comment: 2 / Trackback: 0

# 完全なものは美しいか

 
 僕は「愚かで馬鹿でかっこわるい自分、事ある毎にボロが出まくりの自分」が嫌いだし、「理論的に矛盾なく筋が通った賢くてかっこいい強固な自分、ボロの出ない自分」が好きだ。今の自分がそうであるかどうかではなく、そうありたいと思うのだ。

ええー!? これはぼくは逆だなぁ。ぼくは、「愚かで馬鹿でかっこわるい自分、事ある毎にボロが出まくりの自分」が好き。「理論的に矛盾なく筋が通った賢くてかっこいい強固な自分、ボロの出ない自分」にはたいして興味を持てない。

だって、理論的に矛盾なく、筋が通って賢くてかっこよくて、ボロが出ないなんて、計算機でいいじゃん。とくに、計算機がコモディティ化したいまのご時世なら、そんなのは低コストで実現できてしまうよね? だったらそういうのには、あまり価値はないような気がする。

むしろ逆に、愚かで馬鹿でかっこわるくて、事あるごとにボロが出まくりで、だけど味のある、意味のある、好きになれる何かのほうが、いいじゃん。論理的じゃなくて、汚なくて、愚かで、なんの価値もなくて、どうしようもない何かのほうが愛せるじゃん。

たとえ1000年前、10000年前に生まれたとしてもそう。神さまのように完璧なものよりも、不完全な人間や動物や草木や月夜のほうが、語り合うに値する。そういうもののほうがかっこいい。ぼくにとっては。彼らとこの世界の美しさを語り合いたい。彼らこそがこの世界の美しさだと思えるし、自分もそうありたい。
2006-05-22 17:17:34 / ふじさわ / Comment: 4 / Trackback: 0

2006-05-21

# 最適解はどこにある

最近気になる言葉があって、それは「最適化」なんだよね。
人が使っているのを見たとき、自分がポロッと口に出したとき、
あれ? と思う。

「最適」に限らず「最」が付く言葉は、ちょっと難しい。
だって、最も適切かどうかなんて、なかなか分からないじゃん。
物事にはいろんな見方があるんだし、時間が経って後で気付くことだって
たくさんある。

「最も適している」とか、「一番ふさわしい」とか、
そういうことを求めるのも重要なことだとは思うけど、
それと同じぐらい大事なのは、急がないことのような気がする。
「最も」とか「一番」とか、時間をかけて、ゆっくり知れば
いいんじゃない?

とくに人と人が関係するときには、余計にそうなんだと思う。
その場その場で、必要な言葉を交わせなかったとしても、
本当のことを言えなかったとしても、
お互いが本当に言いたかったことを、人の心は感じることができる。
だから、時間をかければ近付いていける。

あなたにもぼくにも、時間はちゃんとある。それってなんかいいよね。
2006-05-21 11:57:42 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-05-19

# 『「下品なコメント」が「一部の方々に誤解を生じる可能性のある表現」?アホか。』 たしかに。

霞が関官僚日記2.0 - web2.0特集をしながらついて行けない雑誌

ううむ。ま、それはいいとして。このミニスカートはたしかにグッと来るものがありますね。グッ!と来ました。グッ!
2006-05-19 11:50:46 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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