メッセージ。 - diary

2006-05-07

# Wiki的なもの。自分のもの。楽しさの泉。

http://nnri.dip.jp/~yf/momoka.cgi?op=readmsg&id=1018#Commentで、文章の間違い(リンク切れ)を修正してくれる人がいて、なんかうれしかった。Wiki的な感じがうれしかったのかな? ……や、「Wiki的」っていうと、特定のソフトのことを考えてしまうけど、そうじゃなくって。こう、自分の作った文章が、誰かの手で変更されることを、心地良いと感じたのですよね。

そういうのって、「いやだな」と思うこともあると思うんです。誰かに自分のものを触られたくないと、感じるときだってありますよね。でも、そういう感じは全然しなかったなぁと思って。誰かが「ココ間違ってますよー」って指摘してくださって、また別の誰かが「直しときましたー」って、なんか楽しいなーと思いました。

なんで楽しいのかなぁ。自分でもよく分からないけど。とにかくありがとうございました。
2006-05-07 18:40:06 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-05-06

# 「プログラミングは難しい」

 
 『10日で覚えるシリーズ』を読むプログラマの存在に耐えられない、本物志向の技術者はどれぐらいいるだろう?自分はバッタもんプログラマだから、とにかく、なんかソースコードを書いてみようという動機が湧いてくればどんな本を何時読んでもいいと思える。

この人の日記、すごく優しいなぁと思いながらいつも読んでる。しかも優しいだけじゃなくて、深く、鋭い。ぼくが、「プログラミングは難しいよ?」というお話で表現したかったことも、この人が言うことを多分に含んでいる。

プログラミングは、たしかに難しい。でも難しいだけじゃなくて、問題を前にして悩む人たちを、とても孤独にする。「馬鹿」であるとか、「正しさ」であるとか、そういう言葉が簡単に使われすぎている。この世界に足を踏み入れる人は、何年も何年もそういうことに堪えなければ、見通しの利く丘まで歩を進められない。

この旅では、「お互い様☆」と言ってくれる人なんてほとんどいなくって、我先にと、みんなみんな先へ進もうとする。何かから逃げるように。目の色を変えて。だから、ぼくにとって、「プログラミングは難しい」。あるいは、「この世界はしんどい」。

そう。しんどいんだよ。これから始めようとする人には、それがしんどいものだと伝えたい。ぼくが言いたいことの1つは、「そのしんどさを知ってもらったうえで」ということ。そこには魅力的な人がいる。魅力的な問いもある。しんどいながらも、眺望のよい道、気持ちのいいルートというのが存在する。もしあなたが、この旅を往くのなら、それを知ってほしい。そういう楽しさを共有できればなぁと思うのです。
2006-05-06 01:08:39 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-05-01

# 「全ての批評を真摯にうけとめる必要なんて全くない」

作り手も、ネットやらの批評をいちいち気にしていてはやっていけない。全ての批評を真摯にうけとめる必要なんて全くない。

あ、これは本当にそう思う。そう思うんだけど、なんというか、忘れちゃうときもある。
文句を言われたら「すみません」と思っちゃいがちというか。相手が怒ってたらとにかくなんか悪いことしちゃったなぁと自己嫌悪に陥りがちというか。怒られた当初は「ごめんなさいごめんなさい」とか思うのだけど、後になって「おれそんな悪いことしたか?」と思い直したり。あと、自分が被害を受けているのに、そのときはなんか怒れなくて、後になってから腹立つこともあるよね。怒るというのは難しい。普段は怒るためのスイッチを切っているのだ。

これはある意味、雰囲気に流されているのだろうな。それが悪いこととは言わないけど。雰囲気に流されるということは、空気を読むことと表裏一体のような気がする。空気を読みすぎると、怒るスイッチを入れられない。雰囲気に流される。自分のペースを抑えて相手のペースと同調するというか。呼吸を合わせるというか。それは悪いことじゃないと思う。コミュニケーションには必要だろう。その一方で、いい意味で場のペース・雰囲気を外し、自分のペースに切り替えられるというのはすごい才能だ。お笑いというのは、この才能を技芸にしたものなんだと思う。

で、批評の話。うちの会社でもモノを作って売っているのだけど、とにかくクレームに対して気を使いすぎのような気がする。1つの製品当たり数万というオーダーで製品を売っていて、いくつかクレームが来るのは当然なのに。にもかかわらず、クレームが来ると設計担当者の評価が下りがちだ。クレームが来ないのがいい製品なのか? それって単に、「怒られるのが嫌」という個人的な問題なんじゃないかと思ってしまう。あとは、「謝るのが嫌」という人もいる。なんでだろう。なんでなんだろう。怒られたっていいし、謝ればいいじゃないかと思うのだ。# 謝るのなんてタダなんだし……などというぼくのコミュニケーション観は、大阪人的でアバンギャルドなんだろうけど。

まぁとにかく、「全ての批評を真摯にうけとめる必要なんて全くない」という感覚は大事だよなぁと思ったのだ。なんていうのかなぁ。枠を飛び越える感じ。一方でそれを気にしながら、一方でそれを大したことないと思える感覚。マルチバインディングをきちんと乗りこなせるというのは、才能だし価値のあることだと思う。一般に思われている以上にね。言語化しにくいから、評価しにくいところだろうとは思うけど。
2006-05-01 03:18:25 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# デスマーチを防ぐ3つの方法

武蔵流プログラマからの提言 − デスマーチ経験者はこう語った

む、これは価値のある考察ではないか。……と思ったらけっこう古い記事なんだ。雑誌かなにかに載ったものなのかな? まーでも価値があると思うし、とりあえずメモ。
2006-05-01 02:39:27 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-04-29

# はー。やっと今月の仕事終わり

みなさんおつかれさまでした。

あらためて考えてみれば、
優秀な才能、柔らかな感性に触れられるいまの仕事は、
本当に稀有なものだなぁと思います。
ぼくも、みなさんの足を引っぱらないように頑張らねば。
2006-04-29 21:21:52 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-04-27

# 「ネット—コンテンツ経済」とか言ってみる

コンテンツのデフレはどこまで進むのかは、ちょっと正確じゃなかったかなと思った。

デフレしているのは「コンテンツ」ではなくて「ストック型情報」のような気がする。まぁ同じものを意識して書いたのだけど。レイヤが違うかなと。「ストック型情報」の価値が下落して、「フロー型情報」の価値が高騰していると言うほうが自然だよね。……いや、いいのか。「コンテンツ」の価値が下落して「ネットワーク」の価値が高騰しているというのほうが一歩進んでいていい気もする……。とりあえずこれを「ネット—コンテンツ経済」と名付けてみよう。

えーと、それでもう1つ考えたこと。コンテンツとかストック情報というのは、たぶん何か一般的に役立つ情報なんだと思う。たとえば本に書くべき内容のような。だけどこの、ネット—コンテンツ経済においては、そういった一般的に役立つ情報がデフレしてしまっている。逆に増大しているのは、一般的に役立たない情報だ。そこにアクセスすることで、個人的なムシャクシャが収まるような、パーッとストレスを消し去ってしまうような、そういう個人的問題にアクセスしうるフロー情報。その価値が上がっている。

こういったネット—コンテンツ経済の特徴を見ると、2ちゃんねるの競争力が非常に高いことをうまく説明できる。そこでは一般的に価値のある情報の共有よりも、一過性の情報や、人間の感情を直接刺激するような情報が集められる。一時のムシャクシャを解消したり、個人的な恨みを晴らしたり、個人的な悩みを吐き出したり、そういうことに2ちゃんねるは適している。ネットワークにこそ価値があり、コンテンツに価値がない。だから匿名でいいし、匿名でなければならない。

もう1つ、ネット—コンテンツ経済において競争力が高いのはmixiだろう。そこでは一般的な価値のある情報よりも、個人的に価値のある情報のほうが好んで消費される。そこにストック型の情報を置くことは有意義ではない。むしろそのときどきで感じたこと、喜怒哀楽、そういったものを吐き出して、ネットワーク作用によって解消してしまう働きこそがmixiの機能といえる。mixiは2ちゃんねると正反対で、顕名を基本とする。しかし2ちゃんねるで実現しているのと同等の機能を持っているといえるのではないか。

さて、ネット—コンテンツ経済について考えてみると、さらにもう1つ現時点において見えているnext personが存在する。みんなもよく耳にしているアレだ。「ネットワークにこそ価値があり、コンテンツに価値はない」という思想を推進するもの。ネットワークのインフレーションを引き起こそうとしているもの。ネット—コンテンツ経済の発展は、流通媒体の進化・流通コストの低減によって促されてきた。そしてnext personはもう一歩、その進化の歩みを進めようとしている。
2006-04-27 13:39:23 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# コンテンツのデフレはどこまで進むのか

『実用Perlプログラミング 第2版』のまえがきに、次のようなくだりがあった。

 本書の「まえがき」で書くのも何なのですが、最初は筆者がPerlについて知っていることをすべて本書に網羅しようと考えていました。しかしそれは無駄なあがきだったようです。その理由としてまず第一にPerlではDNA配列の組み換えやオンラインショッピング、さらには天気予報のチェックやポーカーゲームといった広範囲に及ぶ既製のモジュールをCPANから入手できることが挙げられます。しかも新しいモジュールが毎日飽くことなく追加され、どのようなモジュールが追加されたのかを知るのは大変な労力を要します。もう1つの理由として挙げられるのは前述したようにPerlは日々刻々と変化していることです。筆者自身もPerlの世界で明日何が起きるかは予測できないことです。したがって筆者ができることといえば、ためになるテクニックや現在利用可能なリソースを読者に伝えることくらいしかないというのが正直なところです。

これはある面で真実だと思うのだけど、それではこのような本の存在意義はなんなのかと考えてしまった。本の著者というある程度の権威、実力者でさえ、明日のことが分からない? だとしたら、本を読むよりもネットをチェックしているほうが価値があるじゃないかと。あるいは、もし仮にこの本が、本という形でなくてネット上のコンテンツだとしても同じではないか。

そんなにすぐに情報が陳腐化してしまうのなら、まとまったコンテンツを読むよりも、生まれたてのソフトウェアのREADMEを読むことのほうが価値があることになる。いや、もっと言うとそうした生まれたてのソフトウェアでさえも価値を失いつつあるということになる。

ソフトウェアやコンテンツの価値自体がデフレしてしまって、ネットをウォッチすることだけが価値を持つ世界。ネットワークそのものが価値を飲み込んでしまっているという構図ではないか。もちろんこれは極論で、ネットとコンテンツの価値はどこかでバランスするのだろうけれども。

そしてたぶん、そのバランスポイントの見極めが重要なのだろう。ただ、いままでは紙媒体vsネットという二極構造で見てしまっていた(そこにバランスポイントを置いていた)自分の視点というものに気付かされた。この視点は間違っているのかもしれないと。ならばネットは、どこへ行くのか。飲み込まれたコンテンツは、どんなエネルギーに変換され、何を引き起こすのか。

……眠い。
2006-04-27 06:00:25 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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