メッセージ。 - diary
2006-05-15
# 楽しむことは生きること
「どんな立場でも仕事は全力を尽くすもの」「たとえアルバイトであっても、全員が全力で取り組む職場。私の夢でもあります」
あ。これは好きな考え方だ。思い付くことをメモ。
個人的な意見だけど、人間はどんなときも楽しまなければいけないと思う。いや、人間に限らず、すべての生き物は楽しまなければいけないと思う。たとえば鳥は、空を飛ぶとき何を思うだろう。馬は、全力で大地を駆けるとき何を感じるだろう。あるいは赤ちゃんは、初めて歩けたとき、話せたとき、何かを分かったと思えたとき、どう感じるだろうか。
たぶん、「楽しい」と感じたんじゃないかと想像する。人は鳥を見て、「あの鳥のように、自由に大空を飛びまわりたい」と願うものだ。しかしきっと、鳥は人を見て、「あの人のように、自由に言葉を交わし、世界中を旅し、器用な手先でなにがしかを作ってみたい」と思っているのじゃないだろうか。
要するに、「あの鳥のように、自由に大空を飛びまわりたい」などと願うのはナンセンスということだ。人はすでに、自由に大空を飛びまわっている。それと同じぐらいすばらしいことを、毎日のように成し遂げている。すべての人間がだ。しかし、同時に人間はそのことを忘れている。初めて歩くことができたとき、話すことができたとき、字を書けたとき、何かを分かったと思えたとき、そのときのうれしさを忘れてしまっている。
生きるということ、そのために備わった能力が使えるということは、単純に楽しいことなんじゃないか。それがぼくの仮説。たとえば原始人は、狩猟というものを嫌々やっていただろうか。家で待つ人々は、嫌々子供の服を繕っていただろうか。ぼくにはそうは思えない。楽しんでいたのではないかという気がする。そう。仕事というものは、元来からして楽しいものなんじゃないかと考えている。
仕事というのは、楽しまなければいけない。あるいは、仕事以外のすべて、日常というものは、楽しまなければいけない。それが仏教で言うところの、仏の道であるだろうというのは、非常に納得のできる考え方だ。他人のためでなくたっていいと思う。単に楽しいと思えることを、人間にはしてほしい。嘘偽りのない「楽しさ」というものを追求してほしい。それが「善」であると、ぼくは信じている。
2006-05-13
# 心の病の性善説
素人なので、いい加減なこと言っちゃいけないと思うのだけど、
前から考えていることを書いてみようかな。
ぼくは、心の病というものを、あまり信じていない。
いや、存在を信じていないわけじゃないんだけどね。
悪いものだと思っていないというか。
もしぼくが、心に病を負うことがあるとしたら、
それは体が、ぼくを守ろうとしてくれているからじゃないかと考えている。
たとえば、風邪を引くと熱が出るでしょう?
あれは、熱自体が悪いわけじゃない。
体温を高めて、免疫力を高めようとして熱が出るんだよね。
熱が高いと本人はしんどかったりするけど。
だけど熱は悪くない。体がちゃんと働いているから、熱が出るんだ。
熱が出てしんどいからって、体を責めては可哀想だと思う。
それと同じようにね。
心が病を負ったとしても、心や体を責めるのは可哀想な気がする。
心が病むのなら、悪いのは心や、体じゃない。
むしろ状況が病んでいるだと思う。
病んだ状況で自分が壊れてしまわないよう、
心が何らかの仕事をしてくれてるんじゃないかな。
だからね。そういうときは、病んだ状況から離れて
休むしかないし、休めばいいのだと思う。
心や体は、ちゃんと自分の力で、治そうとしてくれる。
人間にできる一番大事な仕事は、
心や体の話をちゃんと聞いてあげること。
病んだ状況の中で、自分をいじめすぎないことなんじゃないかな。
……まぁ分かったようなことを言う資格は、
ぼくにはないし、何ができるわけでもないけど。
ぼく自身は、そういう風に心や体と付き合ってるなぁと、ふと思ったです。
前から考えていることを書いてみようかな。
ぼくは、心の病というものを、あまり信じていない。
いや、存在を信じていないわけじゃないんだけどね。
悪いものだと思っていないというか。
もしぼくが、心に病を負うことがあるとしたら、
それは体が、ぼくを守ろうとしてくれているからじゃないかと考えている。
たとえば、風邪を引くと熱が出るでしょう?
あれは、熱自体が悪いわけじゃない。
体温を高めて、免疫力を高めようとして熱が出るんだよね。
熱が高いと本人はしんどかったりするけど。
だけど熱は悪くない。体がちゃんと働いているから、熱が出るんだ。
熱が出てしんどいからって、体を責めては可哀想だと思う。
それと同じようにね。
心が病を負ったとしても、心や体を責めるのは可哀想な気がする。
心が病むのなら、悪いのは心や、体じゃない。
むしろ状況が病んでいるだと思う。
病んだ状況で自分が壊れてしまわないよう、
心が何らかの仕事をしてくれてるんじゃないかな。
だからね。そういうときは、病んだ状況から離れて
休むしかないし、休めばいいのだと思う。
心や体は、ちゃんと自分の力で、治そうとしてくれる。
人間にできる一番大事な仕事は、
心や体の話をちゃんと聞いてあげること。
病んだ状況の中で、自分をいじめすぎないことなんじゃないかな。
……まぁ分かったようなことを言う資格は、
ぼくにはないし、何ができるわけでもないけど。
ぼく自身は、そういう風に心や体と付き合ってるなぁと、ふと思ったです。
# ツールの使いこなしとか
エディタの話なんですけど。
なんでかエディタって、「おれのエディタはこれだ」って決めたくなりますよね。
なんでなんでしょ? 決める必要なんてないのにね。
でもまぁ、なぜか「これを使いこなす」ということに憧れてしまう。
「使いこなして最強になるんだ」みたいな感じがあるのかなぁ。
「おれは二刀流」とか、「おれは長尺だ」とか?
たぶんアホなんですよね。(笑)
使いこなすことが、格好いいことだと思っている。
そういう空気が存在する。
「きみはVim使ってるんだ? ふぅん」とか。
「秀丸のこの便利な機能を、ほかのやつは知らん」とか。
そういうネガティブな感じじゃなくても、
目の前のエディタを指して「このエディタは使いやすい」と、
人間は思いがちなんじゃないでしょうか。
実は、告白するとふじさわは、EmacsとVimの両刀遣いです。
自分のことを観察していると、「よし、今日からVimにしよう。
Vimを極めよう」とか定期的に思うようです。
で、Vimにスイッチするのだけど、1年ほどすると飽きてしまうようです。
ほかの人が別のエディタ使ってるのを見てうらやましくなったり、
いまのエディタに、気に食わないところがあったりして、
「もっといいエディタにしたいなぁ」と思っちゃうわけですね。
それでまたエディタをスイッチすることになるんですけど、
ぼくの場合は、EmacsとVimを行ったり来たりしています。
世の中には、ほかにもよいエディタがあるんでしょうけど、
イチから学習するコストがばかにならないですからね。
それに、学習はいつもOJT。
実戦投入しながら覚えたいので、自分にとって
まったく新規のものにはなかなか手が伸びないのです。
というか、手を伸ばさない。
最近では新規のものに手を出さないようにしています。
あるいは、新規のものを使うときはサラッと普通に使います。
使いこなしなんて追求しない。
だって、どんなエディタを使っても、使いこなせずにどうせまた
スイッチしたくなるんだから。
エディタをスイッチしたくなるのには、「目の前の仕事から
現実逃避したい」という心理もあるんじゃないかと思っています。
また、そういう心理になるのも仕方がないことだと。
「このツールを使いこなせれば」という気持ちは否定しない。
でも一方で、「はいはいワロスワロス」という気持ちも持っている。
自分のことを、適当に現実逃避させてあげながら、
目の前の仕事も適当にこなすためにはどうすればいいかが課題です。
ということで、エディタのスイッチなどもしつつ
仕事をしているという状況ですね。
もちろん、エディタだけでなくいろんなツールを、
スイッチしたり作ったりしています。
WindowsもLinuxも、Macも使います。
言語は、比較的固定されているかな。
でも、いろんな言語に日々目移りしちゃいます。
どれもこれも使いこなせてはいないです。
でもまぁ、いっかと思ってます。
そんな感じですねー。
なんでかエディタって、「おれのエディタはこれだ」って決めたくなりますよね。
なんでなんでしょ? 決める必要なんてないのにね。
でもまぁ、なぜか「これを使いこなす」ということに憧れてしまう。
「使いこなして最強になるんだ」みたいな感じがあるのかなぁ。
「おれは二刀流」とか、「おれは長尺だ」とか?
たぶんアホなんですよね。(笑)
使いこなすことが、格好いいことだと思っている。
そういう空気が存在する。
「きみはVim使ってるんだ? ふぅん」とか。
「秀丸のこの便利な機能を、ほかのやつは知らん」とか。
そういうネガティブな感じじゃなくても、
目の前のエディタを指して「このエディタは使いやすい」と、
人間は思いがちなんじゃないでしょうか。
実は、告白するとふじさわは、EmacsとVimの両刀遣いです。
自分のことを観察していると、「よし、今日からVimにしよう。
Vimを極めよう」とか定期的に思うようです。
で、Vimにスイッチするのだけど、1年ほどすると飽きてしまうようです。
ほかの人が別のエディタ使ってるのを見てうらやましくなったり、
いまのエディタに、気に食わないところがあったりして、
「もっといいエディタにしたいなぁ」と思っちゃうわけですね。
それでまたエディタをスイッチすることになるんですけど、
ぼくの場合は、EmacsとVimを行ったり来たりしています。
世の中には、ほかにもよいエディタがあるんでしょうけど、
イチから学習するコストがばかにならないですからね。
それに、学習はいつもOJT。
実戦投入しながら覚えたいので、自分にとって
まったく新規のものにはなかなか手が伸びないのです。
というか、手を伸ばさない。
最近では新規のものに手を出さないようにしています。
あるいは、新規のものを使うときはサラッと普通に使います。
使いこなしなんて追求しない。
だって、どんなエディタを使っても、使いこなせずにどうせまた
スイッチしたくなるんだから。
エディタをスイッチしたくなるのには、「目の前の仕事から
現実逃避したい」という心理もあるんじゃないかと思っています。
また、そういう心理になるのも仕方がないことだと。
「このツールを使いこなせれば」という気持ちは否定しない。
でも一方で、「はいはいワロスワロス」という気持ちも持っている。
自分のことを、適当に現実逃避させてあげながら、
目の前の仕事も適当にこなすためにはどうすればいいかが課題です。
ということで、エディタのスイッチなどもしつつ
仕事をしているという状況ですね。
もちろん、エディタだけでなくいろんなツールを、
スイッチしたり作ったりしています。
WindowsもLinuxも、Macも使います。
言語は、比較的固定されているかな。
でも、いろんな言語に日々目移りしちゃいます。
どれもこれも使いこなせてはいないです。
でもまぁ、いっかと思ってます。
そんな感じですねー。
2006-05-12
# 呪いの言葉はどこから来るか
医療社会学からみたリスク(第9回)[美馬達哉氏]/SAFETY JAPAN
おれカネさんち経由。医療の現場で、間違った常識に基づいた処置が長年行われていたという話。「科学的呪術」という表現は面白いけど、「コロンブスの卵」の一形態だと考えることもできる。人間を襲う、思い込みという魔物。医者という科学の子でさえ、その呪いに強く縛られている。「人狼があなたを騙しているんじゃない。あなたが、あなたを騙しているんだ」。
おれカネさんち経由。医療の現場で、間違った常識に基づいた処置が長年行われていたという話。「科学的呪術」という表現は面白いけど、「コロンブスの卵」の一形態だと考えることもできる。人間を襲う、思い込みという魔物。医者という科学の子でさえ、その呪いに強く縛られている。「人狼があなたを騙しているんじゃない。あなたが、あなたを騙しているんだ」。
# ひまつぶしとか
梱包材のプチプチをつぶして遊ぶというのは、よくやる人がいるけど、
ぼくはやらないなぁ。なんでだろう。(と、手近にあったプチプチを潰してみる)
ありゃ。これ案外つぶれないね。プチッと行くやつもあるけど、
しぶとく粘るやつがけっこう多い。
3つ4つつぶしたけど、こりゃ全部つぶすのは無理だ。あきらめ。
ぼくはどっちかと言えば、日溜まりに寝転んでまどろみたいほうかな。
寝転んで空中に舞うほこりをながめたり、
体が冷えたり温まったりするのを、ただじっと感じていたり。
あと、CDの裏のピカピカを、いつかきっと、
飽きるまで眺めてみたいと思っている。
初めて見たときに、そう思ってから、もうずいぶん経ってしまった。
ぼくはやらないなぁ。なんでだろう。(と、手近にあったプチプチを潰してみる)
ありゃ。これ案外つぶれないね。プチッと行くやつもあるけど、
しぶとく粘るやつがけっこう多い。
3つ4つつぶしたけど、こりゃ全部つぶすのは無理だ。あきらめ。
ぼくはどっちかと言えば、日溜まりに寝転んでまどろみたいほうかな。
寝転んで空中に舞うほこりをながめたり、
体が冷えたり温まったりするのを、ただじっと感じていたり。
あと、CDの裏のピカピカを、いつかきっと、
飽きるまで眺めてみたいと思っている。
初めて見たときに、そう思ってから、もうずいぶん経ってしまった。
2006-05-11
# 昔はそういうこともあったかな、という話。
ネコプロトコル - WEB上で気になるあの人に気持ちを伝えたいとき、なんでおれたちはメールではなくWEBで記事にするんだろう。
メールで「好きです」って伝えたら、結果がいいものであれ悪いものであれ、「で、これからどうしよう。おれらこれからどうしよう?」という方向に行かざるを得ない。そこに進みたくないから、Webみたいなところで、くたっとした告白をするのではないかなぁ。
「あなたのことが好きですよ。でも、別にどうこうしたいわけではないですよ」という感じ。プラトニックな感じにも似ているかもしれない。どんな願いにせよ、それを手に入れるということは、それを壊すことに等しいし、本当に欲しいものは手に入らないものだと、ぼくらは知っている。
だからぼくらは、それに触れたいけれども触れたくない。触れて壊してしまうことを畏れる。そして逆に、そういう感覚をお互いに理解しているからこそ、双方完全なノーガードになることもたまにある。「ぼくは○○さんのことが好きだ」、「私も△△さんのこと好き」。それで終わる。いや、終わらないのだけど、そこで時間が止まってしまう。
そういう感じを、たくさんたくさんおもちゃ箱にしまって、ぼくらはゆく。いつまでもいつまでも歩いてゆく。たまに空を見上げながら。
メールで「好きです」って伝えたら、結果がいいものであれ悪いものであれ、「で、これからどうしよう。おれらこれからどうしよう?」という方向に行かざるを得ない。そこに進みたくないから、Webみたいなところで、くたっとした告白をするのではないかなぁ。
「あなたのことが好きですよ。でも、別にどうこうしたいわけではないですよ」という感じ。プラトニックな感じにも似ているかもしれない。どんな願いにせよ、それを手に入れるということは、それを壊すことに等しいし、本当に欲しいものは手に入らないものだと、ぼくらは知っている。
だからぼくらは、それに触れたいけれども触れたくない。触れて壊してしまうことを畏れる。そして逆に、そういう感覚をお互いに理解しているからこそ、双方完全なノーガードになることもたまにある。「ぼくは○○さんのことが好きだ」、「私も△△さんのこと好き」。それで終わる。いや、終わらないのだけど、そこで時間が止まってしまう。
そういう感じを、たくさんたくさんおもちゃ箱にしまって、ぼくらはゆく。いつまでもいつまでも歩いてゆく。たまに空を見上げながら。
2006-05-09
# Lightweight Language Ring
Lightweight Language Ring。ぬー。今年のLLはRingですか。チケット買えるよう頑張らねば。決戦は6月26日。
# この空の下で
実家の母と話していて、彼女が何度か言ったんだ。
自分につぶやくように、「○○しなければいけない」って。
でもね、そんなことないんだよ。
しなければいけないことなんて、人間には、そんなにたくさんないから。
ぼくは思うんだ。それはきっと、間違いじゃないかな。
「何かをしなければいけない」じゃなくて、
「何かをすればいい」じゃないのかな。
面と向かっては、そこまでしか言わなかったけどね。
本当は、もっと言えば、
「何かをしたい」でいいんだと思う。
そのことを、誰も咎めたりはしない。
少なくともぼくは咎めない。
しなければいけないことなんて、
あなたにはほんのちょっぴりしかないんだよ。
したいことをすればいいんだよ。
自分につぶやくように、「○○しなければいけない」って。
でもね、そんなことないんだよ。
しなければいけないことなんて、人間には、そんなにたくさんないから。
ぼくは思うんだ。それはきっと、間違いじゃないかな。
「何かをしなければいけない」じゃなくて、
「何かをすればいい」じゃないのかな。
面と向かっては、そこまでしか言わなかったけどね。
本当は、もっと言えば、
「何かをしたい」でいいんだと思う。
そのことを、誰も咎めたりはしない。
少なくともぼくは咎めない。
しなければいけないことなんて、
あなたにはほんのちょっぴりしかないんだよ。
したいことをすればいいんだよ。