メッセージ。 - diary
2006-05-08
# もう連休も終わりですねー。
あー。結局なにも進まないまま、連休が終わっちまった。
しかも夜更かししちゃったしなぁ。いかんなぁ。
連休は、帰省していました。久しぶりに車に乗って、横浜から大阪まで。
ボロボロのRX-7なんですけど、なんとか壊れずに行けてよかったー。
大袈裟じゃなくたまに壊れるのです。突然モクモク煙が出たり、電気系が全滅したり。
だから内心、高速とか乗るのはヒヤヒヤなんです。(笑)
RX-7って、トータルで見るとあまりいい車じゃないんですよね。
よく壊れるし、機械としての完成度もそう高くないし。
や、古い型の車(平成元年式 FC3S)なので、余計に悪いところが目に付くのかもしれないですけど。
でも「いい車じゃない」ところがいいんですよね。
「こんな車、ほかに乗ってるやつおらへんやろ」みたいな感じ?
親とかも言うんですよね。「もうそんな車やめとき」って。
そしたら言い返すんです。
「高くて、最新の型で、快適で安全な車は、ちょっと努力すれば誰でも乗れる。
でも、古くて、不便で、よく壊れて、安全でもない車は、誰でも乗れるわけじゃない。
それが一番の贅沢なんやー」ってね。
まぁそれでもたまに、自分でも、もっといい車が欲しいなと思います。
思いますけど、なかなか踏ん切りが付かないんですよね。
ぼくが車を選ぼうとして、基準の1つとして考えるのは、
もし運転してて、事故にあって、死ぬとしたら、どの車の運転席で最期を迎えたいか
ということなんですよね。
ショールームに行ったときには考えます。
この車の、この運転席を最期に見ることになって、後悔しないかって。
最期になるかならないかの刹那、このステアリングと、計器と、ピラーとガラス、
タイヤから感じる道の感触、風の音、すべての感じは、どんなだろうって。
ぼくはこの車にどういう操作をし、この車はぼくに何をさせるだろう。
そのとき、車や、その向こうにある世界は、ぼくにどんな言葉を投げかけるだろう。
そうしたら、「まぁいまの車でええか」と思っちゃうんですよね。
いまの車の中で死ぬのなら、それはなんとなく自分らしい気がする。
もちろん、死ぬときだけじゃなくてね。
車を運転していたら、誰かを傷付けるかもしれないし、
隣に乗っている人にも迷惑をかけるかもしれない。
そういうことを、できるだけ自分の手の届くところに置いておきたい気がします。
何かを失うときのためだけじゃなく、何かを守るときのためにも。
そういう車に、ぼくは乗りたいんです。
ほんとにもう、ボロボロでどうしようもない車なんですけどね。(笑)
しかも夜更かししちゃったしなぁ。いかんなぁ。
連休は、帰省していました。久しぶりに車に乗って、横浜から大阪まで。
ボロボロのRX-7なんですけど、なんとか壊れずに行けてよかったー。
大袈裟じゃなくたまに壊れるのです。突然モクモク煙が出たり、電気系が全滅したり。
だから内心、高速とか乗るのはヒヤヒヤなんです。(笑)
RX-7って、トータルで見るとあまりいい車じゃないんですよね。
よく壊れるし、機械としての完成度もそう高くないし。
や、古い型の車(平成元年式 FC3S)なので、余計に悪いところが目に付くのかもしれないですけど。
でも「いい車じゃない」ところがいいんですよね。
「こんな車、ほかに乗ってるやつおらへんやろ」みたいな感じ?
親とかも言うんですよね。「もうそんな車やめとき」って。
そしたら言い返すんです。
「高くて、最新の型で、快適で安全な車は、ちょっと努力すれば誰でも乗れる。
でも、古くて、不便で、よく壊れて、安全でもない車は、誰でも乗れるわけじゃない。
それが一番の贅沢なんやー」ってね。
まぁそれでもたまに、自分でも、もっといい車が欲しいなと思います。
思いますけど、なかなか踏ん切りが付かないんですよね。
ぼくが車を選ぼうとして、基準の1つとして考えるのは、
もし運転してて、事故にあって、死ぬとしたら、どの車の運転席で最期を迎えたいか
ということなんですよね。
ショールームに行ったときには考えます。
この車の、この運転席を最期に見ることになって、後悔しないかって。
最期になるかならないかの刹那、このステアリングと、計器と、ピラーとガラス、
タイヤから感じる道の感触、風の音、すべての感じは、どんなだろうって。
ぼくはこの車にどういう操作をし、この車はぼくに何をさせるだろう。
そのとき、車や、その向こうにある世界は、ぼくにどんな言葉を投げかけるだろう。
そうしたら、「まぁいまの車でええか」と思っちゃうんですよね。
いまの車の中で死ぬのなら、それはなんとなく自分らしい気がする。
もちろん、死ぬときだけじゃなくてね。
車を運転していたら、誰かを傷付けるかもしれないし、
隣に乗っている人にも迷惑をかけるかもしれない。
そういうことを、できるだけ自分の手の届くところに置いておきたい気がします。
何かを失うときのためだけじゃなく、何かを守るときのためにも。
そういう車に、ぼくは乗りたいんです。
ほんとにもう、ボロボロでどうしようもない車なんですけどね。(笑)
2006-05-07
# Wiki的なもの。自分のもの。楽しさの泉。
http://nnri.dip.jp/~yf/momoka.cgi?op=readmsg&id=1018#Commentで、文章の間違い(リンク切れ)を修正してくれる人がいて、なんかうれしかった。Wiki的な感じがうれしかったのかな? ……や、「Wiki的」っていうと、特定のソフトのことを考えてしまうけど、そうじゃなくって。こう、自分の作った文章が、誰かの手で変更されることを、心地良いと感じたのですよね。
そういうのって、「いやだな」と思うこともあると思うんです。誰かに自分のものを触られたくないと、感じるときだってありますよね。でも、そういう感じは全然しなかったなぁと思って。誰かが「ココ間違ってますよー」って指摘してくださって、また別の誰かが「直しときましたー」って、なんか楽しいなーと思いました。
なんで楽しいのかなぁ。自分でもよく分からないけど。とにかくありがとうございました。
そういうのって、「いやだな」と思うこともあると思うんです。誰かに自分のものを触られたくないと、感じるときだってありますよね。でも、そういう感じは全然しなかったなぁと思って。誰かが「ココ間違ってますよー」って指摘してくださって、また別の誰かが「直しときましたー」って、なんか楽しいなーと思いました。
なんで楽しいのかなぁ。自分でもよく分からないけど。とにかくありがとうございました。
2006-05-06
# 「プログラミングは難しい」
『10日で覚えるシリーズ』を読むプログラマの存在に耐えられない、本物志向の技術者はどれぐらいいるだろう?自分はバッタもんプログラマだから、とにかく、なんかソースコードを書いてみようという動機が湧いてくればどんな本を何時読んでもいいと思える。
この人の日記、すごく優しいなぁと思いながらいつも読んでる。しかも優しいだけじゃなくて、深く、鋭い。ぼくが、「プログラミングは難しいよ?」というお話で表現したかったことも、この人が言うことを多分に含んでいる。
プログラミングは、たしかに難しい。でも難しいだけじゃなくて、問題を前にして悩む人たちを、とても孤独にする。「馬鹿」であるとか、「正しさ」であるとか、そういう言葉が簡単に使われすぎている。この世界に足を踏み入れる人は、何年も何年もそういうことに堪えなければ、見通しの利く丘まで歩を進められない。
この旅では、「お互い様☆」と言ってくれる人なんてほとんどいなくって、我先にと、みんなみんな先へ進もうとする。何かから逃げるように。目の色を変えて。だから、ぼくにとって、「プログラミングは難しい」。あるいは、「この世界はしんどい」。
そう。しんどいんだよ。これから始めようとする人には、それがしんどいものだと伝えたい。ぼくが言いたいことの1つは、「そのしんどさを知ってもらったうえで」ということ。そこには魅力的な人がいる。魅力的な問いもある。しんどいながらも、眺望のよい道、気持ちのいいルートというのが存在する。もしあなたが、この旅を往くのなら、それを知ってほしい。そういう楽しさを共有できればなぁと思うのです。
2006-05-01
# 「全ての批評を真摯にうけとめる必要なんて全くない」
作り手も、ネットやらの批評をいちいち気にしていてはやっていけない。全ての批評を真摯にうけとめる必要なんて全くない。
あ、これは本当にそう思う。そう思うんだけど、なんというか、忘れちゃうときもある。
文句を言われたら「すみません」と思っちゃいがちというか。相手が怒ってたらとにかくなんか悪いことしちゃったなぁと自己嫌悪に陥りがちというか。怒られた当初は「ごめんなさいごめんなさい」とか思うのだけど、後になって「おれそんな悪いことしたか?」と思い直したり。あと、自分が被害を受けているのに、そのときはなんか怒れなくて、後になってから腹立つこともあるよね。怒るというのは難しい。普段は怒るためのスイッチを切っているのだ。
これはある意味、雰囲気に流されているのだろうな。それが悪いこととは言わないけど。雰囲気に流されるということは、空気を読むことと表裏一体のような気がする。空気を読みすぎると、怒るスイッチを入れられない。雰囲気に流される。自分のペースを抑えて相手のペースと同調するというか。呼吸を合わせるというか。それは悪いことじゃないと思う。コミュニケーションには必要だろう。その一方で、いい意味で場のペース・雰囲気を外し、自分のペースに切り替えられるというのはすごい才能だ。お笑いというのは、この才能を技芸にしたものなんだと思う。
で、批評の話。うちの会社でもモノを作って売っているのだけど、とにかくクレームに対して気を使いすぎのような気がする。1つの製品当たり数万というオーダーで製品を売っていて、いくつかクレームが来るのは当然なのに。にもかかわらず、クレームが来ると設計担当者の評価が下りがちだ。クレームが来ないのがいい製品なのか? それって単に、「怒られるのが嫌」という個人的な問題なんじゃないかと思ってしまう。あとは、「謝るのが嫌」という人もいる。なんでだろう。なんでなんだろう。怒られたっていいし、謝ればいいじゃないかと思うのだ。# 謝るのなんてタダなんだし……などというぼくのコミュニケーション観は、大阪人的でアバンギャルドなんだろうけど。
まぁとにかく、「全ての批評を真摯にうけとめる必要なんて全くない」という感覚は大事だよなぁと思ったのだ。なんていうのかなぁ。枠を飛び越える感じ。一方でそれを気にしながら、一方でそれを大したことないと思える感覚。マルチバインディングをきちんと乗りこなせるというのは、才能だし価値のあることだと思う。一般に思われている以上にね。言語化しにくいから、評価しにくいところだろうとは思うけど。
あ、これは本当にそう思う。そう思うんだけど、なんというか、忘れちゃうときもある。
文句を言われたら「すみません」と思っちゃいがちというか。相手が怒ってたらとにかくなんか悪いことしちゃったなぁと自己嫌悪に陥りがちというか。怒られた当初は「ごめんなさいごめんなさい」とか思うのだけど、後になって「おれそんな悪いことしたか?」と思い直したり。あと、自分が被害を受けているのに、そのときはなんか怒れなくて、後になってから腹立つこともあるよね。怒るというのは難しい。普段は怒るためのスイッチを切っているのだ。
これはある意味、雰囲気に流されているのだろうな。それが悪いこととは言わないけど。雰囲気に流されるということは、空気を読むことと表裏一体のような気がする。空気を読みすぎると、怒るスイッチを入れられない。雰囲気に流される。自分のペースを抑えて相手のペースと同調するというか。呼吸を合わせるというか。それは悪いことじゃないと思う。コミュニケーションには必要だろう。その一方で、いい意味で場のペース・雰囲気を外し、自分のペースに切り替えられるというのはすごい才能だ。お笑いというのは、この才能を技芸にしたものなんだと思う。
で、批評の話。うちの会社でもモノを作って売っているのだけど、とにかくクレームに対して気を使いすぎのような気がする。1つの製品当たり数万というオーダーで製品を売っていて、いくつかクレームが来るのは当然なのに。にもかかわらず、クレームが来ると設計担当者の評価が下りがちだ。クレームが来ないのがいい製品なのか? それって単に、「怒られるのが嫌」という個人的な問題なんじゃないかと思ってしまう。あとは、「謝るのが嫌」という人もいる。なんでだろう。なんでなんだろう。怒られたっていいし、謝ればいいじゃないかと思うのだ。# 謝るのなんてタダなんだし……などというぼくのコミュニケーション観は、大阪人的でアバンギャルドなんだろうけど。
まぁとにかく、「全ての批評を真摯にうけとめる必要なんて全くない」という感覚は大事だよなぁと思ったのだ。なんていうのかなぁ。枠を飛び越える感じ。一方でそれを気にしながら、一方でそれを大したことないと思える感覚。マルチバインディングをきちんと乗りこなせるというのは、才能だし価値のあることだと思う。一般に思われている以上にね。言語化しにくいから、評価しにくいところだろうとは思うけど。
# デスマーチを防ぐ3つの方法
武蔵流プログラマからの提言 − デスマーチ経験者はこう語った
む、これは価値のある考察ではないか。……と思ったらけっこう古い記事なんだ。雑誌かなにかに載ったものなのかな? まーでも価値があると思うし、とりあえずメモ。
む、これは価値のある考察ではないか。……と思ったらけっこう古い記事なんだ。雑誌かなにかに載ったものなのかな? まーでも価値があると思うし、とりあえずメモ。