メッセージ。 - diary
2006-05-19
# 『「下品なコメント」が「一部の方々に誤解を生じる可能性のある表現」?アホか。』 たしかに。
2006-05-18
# 出版コンパイラは作れるか?
要は、出版界にとっての「最終原稿」というのは、紙というアーキテクチャ、しかもA4とかB5とか四六判とかに最適化されたバイナリデータなんですね。一方で、執筆者、しかも理系の人は、「最終原稿」を「デジタルテキスト」と考えているんだと思います。(ぼくも理系の人間なので、そう考えたくなるほうです)
たぶん、両者における溝の1つは、「コンパイラの存在」を前提としているかどうかだと思います。コンパイラがあれば、ソースコードとなるテキストを編集しておいて、それをコンパイルして紙用バイナリをいくらでも吐き出せるだろうと。そして、最終原稿のデジタルテキスト(ソースコード)も手に入るだろうと。
でもこう、出版界というところでは、それほど抽象度高く、レイヤ分けして作業できていないんです。まず、コンパイラというものが存在しない。なぜか? ぼくも「デジタルテキスト」が欲しくて、コンパイラを作ろうとしたのですけどねー。でも挫折しました。挫折の理由として1つ挙げられるのは、ソースコード(テキスト)の文法などというものは存在しないし、仮に作ったとしても執筆者にそれを強制できないということです。
「だったら、文法の違いを吸収するコンパイラを作ればいいじゃん。原稿のテキストなんて複雑なセマンティクスを持たないんだし」。そう。そう思って、文法吸収器も作ったんですけどねー。これも次第に使わなくなりました。そもそも、いただく原稿が決定的文法じゃない場合が多くって。しかも、コンパイラのような抽象レイヤをかますと、生成されたファイルのチェックも必要になります。このチェックがまた、ねぇ。自動テストツールを作るにしても、エントロピーが結構大きくて。結局普通にやる(従来のシステムを使う)ほうが効率的だということになりがちでした。うがががが。
……って、つらつら書いてるけど、長いなぁ。この話題って読みたいですかね? 個人的には、喋り出すと止まらない話題なんですけど。。。とりあえずここまででやめときますw。
たぶん、両者における溝の1つは、「コンパイラの存在」を前提としているかどうかだと思います。コンパイラがあれば、ソースコードとなるテキストを編集しておいて、それをコンパイルして紙用バイナリをいくらでも吐き出せるだろうと。そして、最終原稿のデジタルテキスト(ソースコード)も手に入るだろうと。
でもこう、出版界というところでは、それほど抽象度高く、レイヤ分けして作業できていないんです。まず、コンパイラというものが存在しない。なぜか? ぼくも「デジタルテキスト」が欲しくて、コンパイラを作ろうとしたのですけどねー。でも挫折しました。挫折の理由として1つ挙げられるのは、ソースコード(テキスト)の文法などというものは存在しないし、仮に作ったとしても執筆者にそれを強制できないということです。
「だったら、文法の違いを吸収するコンパイラを作ればいいじゃん。原稿のテキストなんて複雑なセマンティクスを持たないんだし」。そう。そう思って、文法吸収器も作ったんですけどねー。これも次第に使わなくなりました。そもそも、いただく原稿が決定的文法じゃない場合が多くって。しかも、コンパイラのような抽象レイヤをかますと、生成されたファイルのチェックも必要になります。このチェックがまた、ねぇ。自動テストツールを作るにしても、エントロピーが結構大きくて。結局普通にやる(従来のシステムを使う)ほうが効率的だということになりがちでした。うがががが。
……って、つらつら書いてるけど、長いなぁ。この話題って読みたいですかね? 個人的には、喋り出すと止まらない話題なんですけど。。。とりあえずここまででやめときますw。
# 本の作成工程における細々とした謎
森博嗣さんが、原稿の校正などについて書かれていた。ぼくもけっこう、普段この問題で悩んでいるので、困惑の様子がよく分かる。同じような悩みを持つ人を見つけてうれしいなぁ。
これはソフトウェアで禁則処理できると思うけどなぁ。QuarkXPressやInDesign(雑誌や広告で使われるソフト)を使っている分には少なくとも設定できるはず。文芸の世界では、別のソフトを使っているのかなぁ。よく分からないのだけど。できてもおかしくないと思う。一応、(雑誌しか知らないですが)そういう設定をしている例があるということで。
この感覚は本当によく分かる。なんていうのかなぁ。プログラミングの工程で言うと、テキストデータがソースコードで、最終原稿が実行ファイルに当たるんだよね。で、出版界では、最初に執筆者からもらった原稿こそテキストデータ(ソースコード)の状態で扱うのだけど、それ以降の工程では、印刷されたもの(実行ファイル)を元データとして扱う感じに近い。
だから赤入れという作業は、実行ファイルにパッチを当てるような感じで行われている。ある部分を変更すると、別の部分のアドレスが変わって、それを直すとまた……みたいな感じ。そうやって、徐々に完成に近付けていく。すごくアドホックで労働集約的だと思うけど、じゃあ実際どうすればいいかというと……なかなか難しい。
たとえばTeXやHTMLで原稿を書いても、抽象度の低いタグを使いたくなるときがあるのと同じ感じといえば分かってもらえるかなぁ。「ここで改ページしてほしくない」とか、「ここに50mmスペースが欲しい」とか、「1ページの中にたくさん図を入れたいのだけど、人手でレイアウトしないと美しくならない」とか。ほかにもたくさんたくさん、雑多なことで悩ましい事象が発生する。
それを解決しようとしたら、深みにはまらざるを得なくなっちゃうわけですね。本当はみんな、バイナリ(実行ファイル・具体的なデータファイル)なんていじりたくない。抽象度の高い、扱いやすいテキストデータをベースに作業したい。でも、なかなかねぇ……。(ちなみに、印刷所の人からすれば、「バイナリのほうが扱いやすい」のですよね。そういうのも問題をややこしくしていると思います)
で、上記なんですが、実は説明の都合上ちょっと不正確な部分があるのです。というのは、「実行ファイル」と表現した最終原稿なんですが、可読性がそんなに低くない電子データの状態で扱っているのです(現場によって違う可能性もあります)。HTMLみたいな感じで、たくさんメタタグ(少し正確に言うとレイアウト情報)が入っているとは思うのですが、「自分が書いたテキストが入ってるなぁ」ぐらいは識別できる状態のはず。PDFファイルから「テキストデータを抽出」ってやると、グチャッとなったテキストを得られるけど、そういう感じ。
もしそういうのでよければ、出版社との交渉次第でもらえると思います。ただし、権利関係が難しいと考えます。出版社からすれば、「レイアウトに費したコストや、企画・流通との調整コストなどはうちのものだし、できれば渡したくない」という考え方ですね。そういうこともあり、「権利やデータの壊れ具合といったシチメンドクサイことを考えるのなら、出版された本からスキャンしたほうが早いや。個人的に使いたいだけだし」、あるいは「たしかに本が手元にある」というのが、たぶん一般的に妥当とされている落としどころなんだと思います。
何度も何度も書いていることだが、僕は行の最初に「ー」や「…」が来るのが嫌なので、これを禁則処理してもらっている。雑誌の連載時には諦めていて、指摘しないことが多いが、せめて自分の本くらいは、自分の好きなフォーマットにしたいと思って、編集部に要求している。しかし、これが簡単にはできないのだ。そんなこと、プログラムで処理すれば良い(現にパソコンのワープロはできる)はずなのに、出版界では残念ながらこの処理ができない。だから、僕自身がすべて赤を入れて、こう直してくれ、この文字を送れ、ここで詰めてくれ、と指定をしている。しかし、どこかを直せば、新たに禁則が生じることもある。だから、それも見越して修正を指定している。それでも、完璧には直らない。
これはソフトウェアで禁則処理できると思うけどなぁ。QuarkXPressやInDesign(雑誌や広告で使われるソフト)を使っている分には少なくとも設定できるはず。文芸の世界では、別のソフトを使っているのかなぁ。よく分からないのだけど。できてもおかしくないと思う。一応、(雑誌しか知らないですが)そういう設定をしている例があるということで。
もう1つ、ついでに書いておくと、自分が書いた本のテキストデータを自分で持っていないことが不思議だ。最初の原稿は手元にある。しかし、ゲラ校正で赤を入れ、直した結果の最終原稿というものが、デジタルテキストとして存在していない。印刷所にはあるのだろう。でも編集部と作者は持っていない。印刷された本しかない。プリンタで紙に印刷したら、もとのファイルを消去してしまうのと似ている。この感覚も僕には信じられないことである。
この感覚は本当によく分かる。なんていうのかなぁ。プログラミングの工程で言うと、テキストデータがソースコードで、最終原稿が実行ファイルに当たるんだよね。で、出版界では、最初に執筆者からもらった原稿こそテキストデータ(ソースコード)の状態で扱うのだけど、それ以降の工程では、印刷されたもの(実行ファイル)を元データとして扱う感じに近い。
だから赤入れという作業は、実行ファイルにパッチを当てるような感じで行われている。ある部分を変更すると、別の部分のアドレスが変わって、それを直すとまた……みたいな感じ。そうやって、徐々に完成に近付けていく。すごくアドホックで労働集約的だと思うけど、じゃあ実際どうすればいいかというと……なかなか難しい。
たとえばTeXやHTMLで原稿を書いても、抽象度の低いタグを使いたくなるときがあるのと同じ感じといえば分かってもらえるかなぁ。「ここで改ページしてほしくない」とか、「ここに50mmスペースが欲しい」とか、「1ページの中にたくさん図を入れたいのだけど、人手でレイアウトしないと美しくならない」とか。ほかにもたくさんたくさん、雑多なことで悩ましい事象が発生する。
それを解決しようとしたら、深みにはまらざるを得なくなっちゃうわけですね。本当はみんな、バイナリ(実行ファイル・具体的なデータファイル)なんていじりたくない。抽象度の高い、扱いやすいテキストデータをベースに作業したい。でも、なかなかねぇ……。(ちなみに、印刷所の人からすれば、「バイナリのほうが扱いやすい」のですよね。そういうのも問題をややこしくしていると思います)
で、上記なんですが、実は説明の都合上ちょっと不正確な部分があるのです。というのは、「実行ファイル」と表現した最終原稿なんですが、可読性がそんなに低くない電子データの状態で扱っているのです(現場によって違う可能性もあります)。HTMLみたいな感じで、たくさんメタタグ(少し正確に言うとレイアウト情報)が入っているとは思うのですが、「自分が書いたテキストが入ってるなぁ」ぐらいは識別できる状態のはず。PDFファイルから「テキストデータを抽出」ってやると、グチャッとなったテキストを得られるけど、そういう感じ。
もしそういうのでよければ、出版社との交渉次第でもらえると思います。ただし、権利関係が難しいと考えます。出版社からすれば、「レイアウトに費したコストや、企画・流通との調整コストなどはうちのものだし、できれば渡したくない」という考え方ですね。そういうこともあり、「権利やデータの壊れ具合といったシチメンドクサイことを考えるのなら、出版された本からスキャンしたほうが早いや。個人的に使いたいだけだし」、あるいは「たしかに本が手元にある」というのが、たぶん一般的に妥当とされている落としどころなんだと思います。
2006-05-17
# 考える素材メモ:Webの進化
長尾のブログ2.0: Webの間違った進化
ざっと読んだだけだけど、
ぼくは、長尾さんが深いことを考えているように感じる。
でも、そうじゃない人もいるみたいで、はてなブックマークはちょっと荒れぎみ。
はてなブックマーク - 長尾のブログ2.0: Webの間違った進化
こういうのを見ると、書かれた人(今回のケースでは長尾さん)に一声かけたくなるなぁ。
「ぼくは、あなたは間違ってないと思いますよ」って。
なんていうのかなぁ。はてブのコメント欄って、見てておなかがギューッとなる。
扇情的にすぎるような気がする。
一方的な感じ。2chに似た感じ。
前に書いたときは「劇場性」と表現したけど。
いやだなぁ。はてブ見るのやめようかなぁ。
えっ? MM/Memoがいいんだっけ?
とりあえずそっちを見ることにするか……。
ざっと読んだだけだけど、
ぼくは、長尾さんが深いことを考えているように感じる。
でも、そうじゃない人もいるみたいで、はてなブックマークはちょっと荒れぎみ。
はてなブックマーク - 長尾のブログ2.0: Webの間違った進化
こういうのを見ると、書かれた人(今回のケースでは長尾さん)に一声かけたくなるなぁ。
「ぼくは、あなたは間違ってないと思いますよ」って。
なんていうのかなぁ。はてブのコメント欄って、見てておなかがギューッとなる。
扇情的にすぎるような気がする。
一方的な感じ。2chに似た感じ。
前に書いたときは「劇場性」と表現したけど。
いやだなぁ。はてブ見るのやめようかなぁ。
えっ? MM/Memoがいいんだっけ?
とりあえずそっちを見ることにするか……。
# 仕事のしかたについて1つ2つ
仕事とかで、若い人が上の人に質問するときの話。
技術的なことじゃないけど、まず「本で調べたら分かることを質問するのは失礼」と思ってくれてるのなら、それで十分な気がする。本で勉強する姿勢と、相手を尊重する姿勢があれば、自然に伸びていくし仕事もちゃんとできるようになるはず。そういう人は、いまやってるように、思うとおりやればいいと思う。
あと、自分の経験を踏まえて、試してみたら?と思うのが、口頭で質問しないで書いてみること。質問される側は、忙しく仕事してるときに質問をされると、作業が中断して嫌に感じることもあると思う。それと、若い人も質問しにくいだろうし。お互いのペースを尊重しながら質問・回答できるよう、テキストにしてみるといいんじゃないかなぁ。
そのとき、メールを使うと回答の義務感が出て嫌な感じもするだろうから、たとえばWikiなんかを使ってみるといいんじゃないかと思う。職場の用語集や分からなかった技術ポイントの辞典を作ってみるとか。あのファイルはここにあるとか作業手順のチェックリストとか。で、それの一部を見せて、「時間のあるときに、少しでいいので」と言って上の人に添削してもらう(相手の時間は貴重だから、完璧な答は求めないし必要でもない)。
そうやってドキュメントができていくと、いつか上の人にとっても役立つのじゃないかなぁと思う。あと、次の年に新しい人が入ってきたときにも使えるし、書いて整理することで自分の勉強も進むんじゃないかな。
少し前に思ったのだけど、仕事って自分だけの辞書を作ることに似ている気がする。たとえば、細々としたドキュメントのありか、ルーチンワークや知っておかなければいけない技術、調整が必要な部署や人脈、そういったものと自分との間に、関係を築いておくことで仕事はスムーズに進む。「この問題を解決するには、この情報とこの人」と言えれば一人前なんだろうと思う。つまり辞書なんだよね。
それをドキュメント化しておくというのは、有効な手段なんじゃないかと最近は考えています。自分用辞書というか自分用メモというか。……こんな感じでうまくいかないかなぁ。と、まぁ妄想ですね(笑)。実際はなかなか、思うとおりに行かないかもしれないですけど、というかWikiを用意すること自体が案外面倒だったりしますけど。まぁ、簡単な質問なら、口頭やメールのほうがいいのかな(ぉ。ともあれ試行錯誤ですねー。
技術的なことじゃないけど、まず「本で調べたら分かることを質問するのは失礼」と思ってくれてるのなら、それで十分な気がする。本で勉強する姿勢と、相手を尊重する姿勢があれば、自然に伸びていくし仕事もちゃんとできるようになるはず。そういう人は、いまやってるように、思うとおりやればいいと思う。
あと、自分の経験を踏まえて、試してみたら?と思うのが、口頭で質問しないで書いてみること。質問される側は、忙しく仕事してるときに質問をされると、作業が中断して嫌に感じることもあると思う。それと、若い人も質問しにくいだろうし。お互いのペースを尊重しながら質問・回答できるよう、テキストにしてみるといいんじゃないかなぁ。
そのとき、メールを使うと回答の義務感が出て嫌な感じもするだろうから、たとえばWikiなんかを使ってみるといいんじゃないかと思う。職場の用語集や分からなかった技術ポイントの辞典を作ってみるとか。あのファイルはここにあるとか作業手順のチェックリストとか。で、それの一部を見せて、「時間のあるときに、少しでいいので」と言って上の人に添削してもらう(相手の時間は貴重だから、完璧な答は求めないし必要でもない)。
そうやってドキュメントができていくと、いつか上の人にとっても役立つのじゃないかなぁと思う。あと、次の年に新しい人が入ってきたときにも使えるし、書いて整理することで自分の勉強も進むんじゃないかな。
少し前に思ったのだけど、仕事って自分だけの辞書を作ることに似ている気がする。たとえば、細々としたドキュメントのありか、ルーチンワークや知っておかなければいけない技術、調整が必要な部署や人脈、そういったものと自分との間に、関係を築いておくことで仕事はスムーズに進む。「この問題を解決するには、この情報とこの人」と言えれば一人前なんだろうと思う。つまり辞書なんだよね。
それをドキュメント化しておくというのは、有効な手段なんじゃないかと最近は考えています。自分用辞書というか自分用メモというか。……こんな感じでうまくいかないかなぁ。と、まぁ妄想ですね(笑)。実際はなかなか、思うとおりに行かないかもしれないですけど、というかWikiを用意すること自体が案外面倒だったりしますけど。まぁ、簡単な質問なら、口頭やメールのほうがいいのかな(ぉ。ともあれ試行錯誤ですねー。
# mixiがんがれ! 超がんがれ!
「mixi つながらない」というキーワードで、たまにリファラがあるのですけど(昨日はとくに多かったみたい)。うちにはたぶん、欲しい情報がないのです…(´・_・`)…。ごめんね。
2006-05-16
# ペンを捨て街に出る
技術カンファレンスを指して、男の子のお祭りな感じと表現するかぁ……。そういう風に分かってくれる女の人って、どれくらいいるんだろう。
なんつーのかなぁ、「男は怖い」とか、「男に奪われる」とか、「そんなのはオタクだ」とかそういう視点がないよね。そういう視点って、離れた場所から「怖い怖い」とばかり言ってる感じがする。非モテ話なんかに興じている人もそう。ペンを捨てて、街に出てみたらいいのにと思う。
岩切さんはちゃんと、その場所に行ってその人たちと同じものを見ている。同じ楽しさを感じ、素直に感動している。まるで少女のようじゃないか。そういうのができるって、すごいことだよ。すごくないかなぁ。すごいと思うんだけど。
なんつーのかなぁ、「男は怖い」とか、「男に奪われる」とか、「そんなのはオタクだ」とかそういう視点がないよね。そういう視点って、離れた場所から「怖い怖い」とばかり言ってる感じがする。非モテ話なんかに興じている人もそう。ペンを捨てて、街に出てみたらいいのにと思う。
岩切さんはちゃんと、その場所に行ってその人たちと同じものを見ている。同じ楽しさを感じ、素直に感動している。まるで少女のようじゃないか。そういうのができるって、すごいことだよ。すごくないかなぁ。すごいと思うんだけど。
2006-05-15
# 楽しむことは生きること
「どんな立場でも仕事は全力を尽くすもの」「たとえアルバイトであっても、全員が全力で取り組む職場。私の夢でもあります」
あ。これは好きな考え方だ。思い付くことをメモ。
個人的な意見だけど、人間はどんなときも楽しまなければいけないと思う。いや、人間に限らず、すべての生き物は楽しまなければいけないと思う。たとえば鳥は、空を飛ぶとき何を思うだろう。馬は、全力で大地を駆けるとき何を感じるだろう。あるいは赤ちゃんは、初めて歩けたとき、話せたとき、何かを分かったと思えたとき、どう感じるだろうか。
たぶん、「楽しい」と感じたんじゃないかと想像する。人は鳥を見て、「あの鳥のように、自由に大空を飛びまわりたい」と願うものだ。しかしきっと、鳥は人を見て、「あの人のように、自由に言葉を交わし、世界中を旅し、器用な手先でなにがしかを作ってみたい」と思っているのじゃないだろうか。
要するに、「あの鳥のように、自由に大空を飛びまわりたい」などと願うのはナンセンスということだ。人はすでに、自由に大空を飛びまわっている。それと同じぐらいすばらしいことを、毎日のように成し遂げている。すべての人間がだ。しかし、同時に人間はそのことを忘れている。初めて歩くことができたとき、話すことができたとき、字を書けたとき、何かを分かったと思えたとき、そのときのうれしさを忘れてしまっている。
生きるということ、そのために備わった能力が使えるということは、単純に楽しいことなんじゃないか。それがぼくの仮説。たとえば原始人は、狩猟というものを嫌々やっていただろうか。家で待つ人々は、嫌々子供の服を繕っていただろうか。ぼくにはそうは思えない。楽しんでいたのではないかという気がする。そう。仕事というものは、元来からして楽しいものなんじゃないかと考えている。
仕事というのは、楽しまなければいけない。あるいは、仕事以外のすべて、日常というものは、楽しまなければいけない。それが仏教で言うところの、仏の道であるだろうというのは、非常に納得のできる考え方だ。他人のためでなくたっていいと思う。単に楽しいと思えることを、人間にはしてほしい。嘘偽りのない「楽しさ」というものを追求してほしい。それが「善」であると、ぼくは信じている。