メッセージ。 - diary

2006-04-19

# お洒落であるとかセンスがいいとか

お洒落であるとか、センスがいいって、どういうことだろう。
ぼくが思うに、それは、スタンダードを理解していながらも、
必要な場面でそれをサッと飛び越えられることだ。
2006-04-19 12:49:35 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-04-16

# 新しい考え方のコンピュータを設計して世に問う会社

どうでもいいことを書きます。
『ウェブ進化論』について、ちょっとここ違和感だなーという部分。かといって、本の価値を否定するものではありません(たぶん)。それくらいのどうでもいいことということで。

P.065
  ところで「コンピュータ・システムそのものを設計する」という学問分野は、コンピュータ・アーキテクチャとかシステム・ソフトウェアとか呼ばれていて、抜きん出て米国が進んでいる。しかしこの一〇年の学問的進歩は、IT産業にあまり活かされなかった。
  九〇年代にPC産業が巨大化し、マイクロソフトのOSとインテルのマイクロプロセッサだけに付加価値が集中したことはよく知られている。チープ革命は「規模の経済性」が強く働く分野で加速がつく。よってインテルとマイクロソフトが規定するPC周辺での価格性能比の向上が著しく、ユーザはその流れに身を任せていれば大満足となった。PCの価格性能比向上スピードに敵わなくなったという理由で、全く新しいコンピュータ・システムの設計は、コンピュータ・メーカーによって行われなくなってしまったのである。

ここまではまぁいいとしよう。この後なんだよね。

 グーグルの二人の創業者(セルゲイ・ブリンとラリー・ペイジ)は、スタンフォード大学コンピュータ・サイエンス学科の出身だが(中略)そこで彼らが考えたのは、ネットの「あちら側」に自分たちが作る情報発電所は、「コンピュータ・システムそのものを設計する」という学問分野におけるここ一〇年の成果をすべてぶち込んで、全部ゼロから自分たちで作ろう、ということだった。価格性能比向上が著しいマイクロプロセッサやストレージといった部品群を大量に並べて、大規模な情報を高速に信頼性高く処理できる低コストのコンピュータ・システムを作ることにした。

P.067 
 そもそもコンピュータ・メーカーというのは、このように「新しい考え方のコンピュータを設計して世に問う」会社のことだった。グーグルは、PC産業興隆の副作用として消滅した「本当のコンピュータ・メーカー」になろうとしたのだ。

こういう認識の仕方って正しいのかね? まぁこの本は、「こちら側」にいる人に分かりやすく状況を説明するためのものなので、説明が正確じゃなくてもいいとは思うけど。

ぼくの認識では、「コンピュータ・メーカー」というのはCPUを作る会社のことを指す。いや、ほかにもいろいろな部品を作る会社があるけど、「あくまで一番の核はCPUだ」と誰もが考えていたような気がする。

たとえば、マイコン少年なら誰でもスーパーコンピュータに憧れたのじゃないか。独自のCPUや高貴なアーキテクチャに夢を持ったのじゃないか。「もっと性能を」と望み、もっとメモリをと手を伸ばしていたような気がする。

少年に限らず、メーカーの中の人たちもそれぞれ「自社の」CPUを開発し、熾烈な競争をしていたように思う。電卓に使われるために作られたインテルのCPUなど、当初歯牙にもかけられなかったというのが実情だろう。みんな熱に浮かれるように(高性能で高貴な)CPUに熱中した。

そもそもコンピュータ・メーカーというのは、「新しい考え方のコンピュータを設計して世に問う」会社ではなく、「新しい考え方のCPUを設計して世に問う」会社のことだったのではないかとぼくは想像している。いや、ぼくは最近になって(ここ10年ぐらいで)計算機に触れ始めたので、実感としては知らないんですけどね。でも外から来た人間だからこそ感じることもあるわけで。

そういう意味で、「価格性能比向上が著しいマイクロプロセッサやストレージといった部品群を大量に並べて」ということと、「全部ゼロから自分たちで作」るということが全然噛み合わない。

「ゼロってどこですか?」という話かもしれない。「フォン・ノイマンさんですか? チャールズ・バベッジさんですか?」。そこまで行かなくても、「CPUぐらいがゼロだろう」というのが、たぶんこれまでの計算機屋さんの感覚なんだよなぁ(あくまで外から来たぼくが見るかぎりw)。

だからたしかに、「それはどうでもいい。そこはゼロじゃない」と言うのなら結構新しいと思いますよ。それこそ本当に、「新しい考え方のコンピュータを設計して世に問う」会社だと言えるかもしれない。でもそれはもう、コンピュータ・メーカーでもないのかもしれないっすね。皮肉とか悪い意味じゃなく。

そういうことを指摘しておくことに価値があるかなぁと思って書きました。大きく間違ってるかもしれないですけど。
2006-04-16 15:26:45 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-04-15

# DV被害の実態って、実際どうなの?

 
 驚くべきは被害経験まったくなしって人が、70%以上もいること

みんなが感じることだろうけど、数字が大きいか小さいかという話はあるよね。
ぼくはどうしても自分(男)が悪いと考えがちなので、3割を大きいと言ってしまったけど、よく考えればそんなに大きな数字じゃないとも言える。
一次資料には、10歳代から20歳代に暴行を受けたことがあったという女の人が8.7%。
当然複数の人と付き合っただろうから、それを考えるとすごく小さい数字のような気がする。
2006-04-15 19:50:09 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 『私という病』読了

ふぅ。読み終わった。しんどい本だったなぁ。ちょっと考える……。
2006-04-15 15:24:49 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 中村うさぎさんの『私という病』を読んでいます

# ネタバレ注意かもしれません。終盤の、かなり後ろのほうを引用しています。

 
 P. 159
 このように己の「主体性」にこだわる人間であるからこそ、男たちから一方的に性的対象として扱われることに対して、怒りや屈辱を感じるのである。それは、無理やり自分が受動的な立場に置かれることだからだ。私の意志を無視し、私の許可も得ずに、私の肉体を性的対象として扱うことは許せない。痴漢やセクハラをされた時、「人間性」を踏みにじられたかのような屈辱を感じるのは、そのためだ。彼らが私の「意志」を無視して扱うからだ。私の体は私のもの。他人が許可もなく触ったり、私の意志を尊重せずに性的行為を強要していいはずがない。その代わり、私が自分の意志に基づいて、「性的対象」となることを選んだのであれば、彼らが私の肉体を性的欲望の処理に利用しても一向に構わない。デリヘルという職業は、そういうことだ。私が自分の意志でこの仕事を選んだのだから、私の肉体は一方的に男たちの性的欲望の器になるのではなく、私の「主体性」の下に彼らの欲望を受け容れるのだ。「デリヘルなんかやる女は、男から欲望の対象にされたいんだから、何をやってもいい」なんて、とんでもない勘違いである。そこに私の意志、私の主体性が存在しているかどうかが、すべての要になっているのだから。

私の、私の、私の……かぁ。

「私」にこだわる力がすごいなぁ。そんなに思うものだろうか。
いい加減な感想を書いてみる。この人は、「私」というものが誰かに奪われ続けていると感じているのじゃないだろうか。「男から奪われている」ということもあるのだろうけど、それ以上に、私の肉体が、つねに誰かの好き勝手にされているとでもいうような感覚があるのじゃないかと想像した。

つまり、女の生理だ。私というものが、何らかの因果によって抑えつけられ、自分の自由や自分自身の所有権が奪われていることを強く感じているのではないか。

だからこそ、彼女はデリヘルを選んだような気がする。自分を奪う何かから、自分を奪い返す、そのための道具として男を利用したと。「何か」に奪われるのなら、男にでもくれてやれ、奪われる前に壊してしまえと。結局どちらにしても、自分の体は奪われたままだろうけど、そうすれば少なくとも、自分の意志は通せる。

自分を奪う何かと戦うために、自分を傷付ける。そうすることで、奪われることを回避し戦いに勝とうとしている、そんなような気がする。この本には男への嫌悪がよく出てくるけど、男に対する憎しみより、もっと強い、肚の底から湧きでてくるような嫌悪感につきまとわれている。そしてこの本には、それとの戦いが綴られているような気がした。

……などと冷静にまとめれば格好いいけど、実際は読むのがつらい本ですね。憎しみの波動が強すぎて。
男として、ぼくが憎まれていることをつらく感じるというのもあるけど、それだけじゃなくてね。
2006-04-15 13:33:16 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 「配偶者からの暴行、女性3割体験」

 
  配偶者から暴行や性的行為の強要などドメスティック・バイオレンス(DV)被害を受けた経験のある女性は3人に1人、さらに1割は「何度も」被害を受けたという実態が14日、内閣府男女共同参画局が発表した「男女間における暴力に関する調査」で明らかになった。

えー? こんなに高い割合なのかぁ……。「男が怖い」という意見を最近よく目にするので、何か書こうと思っていたのだけど、認識が甘かったなぁ。そうなのかぁ……。
2006-04-15 12:43:52 / ふじさわ / Comment: 5 / Trackback: 0

# 読んでみたくなる感じって不思議ですね

Ohno blog(2006-03-27)

ふぅん。この本読んでみたいなぁ。
2006-04-15 12:35:31 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-04-14

# 文章を書くのはぼくも苦手です

うーん。分かるんですけどね。> 作文アレルギークオリティ

ぼくも小学校のときは作文が苦手でした。国語の授業でたまに作文を書かされましたよね。あれが嫌いで嫌いで。原稿用紙を目の前にすると、何も出てこなくなるんですよね。それでただ時間ばかり過ぎていって、「あと10分しかないのにまだ白紙だ!」ってすごく追い詰められて。スラスラ書いちゃう女の子がうらめしかったなぁ……。

だから書きたくないという気持ちも分かります。ぼくだって、いまも苦手意識は抜けないです。心のどこかに「レトリックだけ上手になってもね」みたいな気持ちもあるんですよね。「できない自分もいいじゃないか」と、こう、なんていいうのかなぁ。「それは自分の売りじゃないから」みたいな感じを楽しんでいたりもします。

でもどうせなら、普通ぐらいには書けたほうがいいと思うんですよ。書くことからは、この先も逃がれられないんだし。「これはそういう遊びなんだ」と思って、とにかく何か書いて、とにかく推敲してみるといいかもしれないですね。まぁ、文章力を鍛えるのって手応えを感じられないからしんどいのですけど。
2006-04-14 23:37:56 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# Gauche 0.8.7のZaurus用パッケージを作りました

「そろそろかな?」と思っていたけどキターーーーー!!!! Gauche 0.8.7

さっそくZaurus用のipkを作ってみましたー。http://nnri.dip.jp/~yf/download/gauche_0.8.7-1_arm.ipk
2006-04-14 15:22:39 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 「やる人」と「やらない人」

 
  大人にとっては、「やればできる人」になんて、何の価値もない。問題は「やる人」か「やらない人」か、あるいは、「できる人」か「できない人」か、ただ、それだけのこと。

あ。これはいい言葉ですね。「やればできる人」ってたくさんいますけど、「やる人」は本当に少ない。なぜかというと、失敗するのが怖いからなんです。なにかやると、失敗するリスクがつきまとう。なにもやらなければ失敗はしない。だから「やらない人」は、問題が見えていても手を出さないんです。

で、そうやって「やらない」まま時間ばかり過ぎて、言い訳が増えていく。「○○だったらやるのに」とか、「××する気はあるけど忙しい」とか。「やる人」と「やらない人」のあいだには深い深い谷があって、本当は、「やったけど失敗した人」というのは、「失敗しない人」よりも大きな大きな価値がある。

だから「やる人」というのは毅然としてますよね。そういうことが分かっているから。「○○だったらやるのに」みたいなこと言わず、無言でやってしまう。また、失敗したとしても黙ってそれを受け入れる。それがいかに難しいことか。自戒も込めて、口ばっかりなのは本当に恥ずかしいことです。
2006-04-14 10:54:53 / ふじさわ / Comment: 2 / Trackback: 0

2006-04-13

# 名詞化と「の」は少なめでおながいします orz

今日のどーでもいいこと。
文章を苦手に感じている人は結構やっちゃっていると思うのだけど、
文章を書くときに、「名詞を使えば丁寧」という癖はなんとかならないかなぁ。

たとえば「アドレスへのアクセスの禁止の依頼を行います」みたいになって
とても読みづらい。名詞化すると「の」がいっぱいになりすぎるんだよね。
そして、「の」ってどこにかかっているかが分かりにくいから、
できるだけ少なく抑えたほうがいいんですよ。
「アドレスへのアクセス禁止を依頼します」のほうが、断然すっきりするでしょ?

この例のほかにも、名詞化したがる癖は「○○すること」という表現につながることが多い。
「移動することが可能です」とか、「動かすことができます」とか。
それぞれ「移動できます」とか「動かせます」と同義なんだよね。

たしかに日本語では、長いフレーズや名詞が丁寧ではあるけれど、
丁寧さを優先して分かりやすさをスポイルするのはやめたほうがいいと思う。
まぁ、ここを読んでいるような日記ジャンキーは、
文章を読み書きすることに慣れてるだろうから、こんな表現はしないと思うのだけど。
2006-04-13 23:33:49 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 『ウェブ進化論』についての無責任な感想

ワールドビジネスサテライトはぼくも見ましたけど、あんまり良くなかったですね。梅田さんが、「不特定多数無限大の人間と、ゼロコストをかけあわせるとですね……」とか、はにかみながら言っているのは可愛かったですけど。「可愛い」という印象を与えたのは良くなかったのじゃないかと感じました。

あの番組やビジネスという側面で見れば、「可愛い」というのはネガティブな要素だと思います。「なにこの人は青臭いことを言ってるんだ。それは金になるのか? ならない気がする」という感想を持ってしまいますから。このへんは、番組に限らず『ウェブ進化論』に通底するイメージかもしれません。

「不特定多数無限大とゼロコストをかけて、イコールsomethingになるというのは分かりますよ。そりゃあそうだろう。で、somethingて結局なに?」というのが自然な反応ですよね。「somethingをポジティブに考えていいの? ネガティブに考えていいの?」と。

『ウェブ進化論』ではその根拠をあまり示せていない気がしました。本のあとがきにはこうあります。
 ウェブ進化についての語り口はいろいろあるだろう。でも私は、そこにオプティミズムを貫いてみたかった。これから直面する難題を創造的に解決する力は、オプティミズムを前提とした試行錯誤以外からは生まれ得ないと信ずるからである。

「だからsomethingはポジティブな結果を生み出しますよ」と言っているように聞こえてしまうんですよね。「オプティミズムを貫いてみたかった。だからsomethingをポジティブなものとして扱った」と。そういう青臭さは、ビジネス界に受け入れられにくいような気がします。いろんな意味で青臭いなぁと。まぁ青臭さについては、ぼくが言うなという感じですけど(笑)

ここからは蛇足ですけど(というかここまでも蛇足でしたけど)、青臭さを消すためにはやっぱり実例をもっと挙げたほうがよいのかもしれません。Amazonとかロングテールはよい例ですが、それだけでは少なく感じました。かといって、Googleやはてなでは実感が湧きにくい。なかなか難しいところです。

それと本当に蛇足、しかも梅田さんには責任がない話題です。「チープ革命」というフレーズって、どうなんでしょうか? ぼくは、「うーん」と唸りたくなります。なんかそれこそチープな響きで……。意味深な感じがしないですよね……。意味深が良いことだとは言いませんが、それがどう革命なのか、どこに向かわせる力なのかを想像しにくい気がするんです。「チープ、安い、チープ、安い……」。そうつぶやいたときに、なにか頭に思い浮かぶような、あるいは信じてもよいと思えるような、そんな言葉を使ってほしかったなぁというのが個人的な感覚です。
2006-04-13 12:54:45 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# w3m 0.5.1の、async/改行コードパッチ版Zaurusパッケージを更新しました

少し前に公開した、w3mのcr-async版ですが、読み込むHTMLによってはSegmentation faultするという問題を抱えていました。しばらく原因を探っていたのですが、今日はけさんに不具合のヒントを教えていただき、対策することができました。
古い版をお使いの方は、次のURIにあるw3m_0.5.1-cr-async-2_arm.ipkをお使いくださいー。はけさんどうもありがとうございました。

http://nnri.dip.jp/~yf/download/w3m_0.5.1-cr-async-2_arm.ipk
http://nnri.dip.jp/~yf/download/gc_6.7-1_arm.ipk (←は以前と変わってません)

ちなみに不具合の原因は、オリジナルのCRパッチに若干のバグがあったことです。

追記。オリジナルのCRパッチに問題があったと書きましたが、ふじさわのパッチ当てミスでした。orz。ちなみにCRパッチはhttp://www.sic.med.tohoku.ac.jp/~satodai/w3m-dev/200411.month/4129.htmlでもらったものを使っています。
2006-04-13 00:36:02 / ふじさわ / Comment: 3 / Trackback: 0
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