メッセージ。 - diary
2006-04-05
# なんの話だったっけ? という話。
私はきっと、恵まれない容姿の人がその恵まれなさから謙虚になる事を、無意識のうちに望んでしまっている。謙虚というのはつまり、その人が容姿や容姿の優劣が大きく関わる事柄(とくに恋愛やセックス)について堂々と表現・発言しない事、だ。そしてその謙虚さの欠如を、私は「恥ずかしい」と思ってしまう。直接的ではないにしろ、謙虚さも表現の中に込めてくれと願ってしまう。
分かるような分からないような。でもなにか、核心を突いているような気がしたのでメモ。
このことをあれこれ考えてみて、ひとつ思い付いたのは「海外ではお年寄りも水着を来て海辺で遊ぶ」という話。日本では、若いモン以外が海辺で、しかも水着着て遊ぶということが許されない雰囲気がある気がする。みっともないというか。そんなの見たくないというか。
潔癖性なのかなぁ。なにかすごく、日本人というのは「○○でなければいけない」というのに猛進しやすい気がする。枠からはみ出ることにすごく嫌悪感を持つというか。水着の似合う人しか水着姿を見せちゃいかんという雰囲気があるのはなんでなんだろう?
逆にグラビアアイドルなんかは、年がら年中水着で雑誌の表紙を飾っている。お年寄りが水着で海辺にいることに目をふさぎ、アイドルが真冬に水着でニッコリ笑ってることを歓迎する。なんなんだろう。多くの人は「なぜ水着?」とは考えない。「なぜこの雑誌は、毎月まいつき表紙に水着の女の子を載せるのか」。
そのほうが売れるだろうから? まぁそうなんだろうけど。でも立ち止まってよく考えると、そこには本質的なものがなにもない。美学というものが感じられない。そりゃあ水着の女の子が載ってたら見るけど、でもなにか、こう、それを見てグッとくるときなんてほとんどない。
水着といえば昔、ある女子プロレスラーの付き人が面白いエピソードを話していたなぁ。なんでもその女子プロレスの選手、対戦相手がどんな格好でリングに上がるかをすごく気にしていたらしい。選手はお付きの若いモンに毎度、「今日の対戦相手の○○が、どんな水着を着てくるか偵察してこい」と指示していたとかなんとか。相手の格好に合わせて、自分が着るものを変えるのだ。
なんか、この話を聞いたときは衝撃だったなぁ。プロレスという、かなり非現実的な舞台、しかも女が女であることをなかば捨てるイメージがあるその場へ、お洒落という日常を持ち込む。なにが彼女をそうさせるのか。まったく想像の埒外だった。それと、水着。あれはやっぱり、水着なのかという衝撃。なにかもっと、特別なものだと思っていたのに。想像してみるだに、ぼくにはできない。何か特別なものを身に着けて、リングに上がるのなら分かる。しかしそれは、単なる水着なのだ。
# Gauche 0.8.6のZaurus用パッケージ
Gauche 0.8.6のZaurus用パッケージを作りました。
もしかしてご入用の方がいらっしゃればどうぞ。
「--enable-threads=pthreads --enable-multibyte=euc-jp」でコンパイルしています。また、一応http://nnri.dip.jp/~yf/momoka.cgi?op=readmsg&id=1035でhirofummyさんからいただいたパッチが当たっています。「make test」は浮動小数点だけ通らないんだっけかな?
もしかしてご入用の方がいらっしゃればどうぞ。
「--enable-threads=pthreads --enable-multibyte=euc-jp」でコンパイルしています。また、一応http://nnri.dip.jp/~yf/momoka.cgi?op=readmsg&id=1035でhirofummyさんからいただいたパッチが当たっています。「make test」は浮動小数点だけ通らないんだっけかな?
2006-04-01
# 「Hello World」は美しいか?
HelloWorldは、プログラミングを知っている者がまだ知らないプログラミング言語を習うときには十分な意味を持つが、プログラミングを知らない者が初めてプログラミング言語を習うときにはまったく不十分である。プログラミングの入門にはコンピュータ特有の動作を理解するための例題、例えば数値演算やループなどが不可欠である。helloと書いてhelloと出るならテキストでもHTMLでもできる。1+2と書いて3と出るとか、「helloと3回出力せよ」と書いてhello hello helloと出るならコンピュータ的である。
ああ、これはまったくそのとおりだなぁ。コンピュータ的というのは、挺子の原理が働くってことだよね。ぼくには、「Hello, World」よりも「hello hello hello」のほうが、断然輝いて見える。これこそが美しさだと思うんだよね。こういう問題があることに気づき、解決策を提示できることがまた美しい。ハッカーというのは、この美しさを探究する人なんだよ。きっと。
2006-03-31
# どーでもええことで盛り上がるのはなんで?
どうでもいい話。
民主党のドタバタを見てると、オウム真理教のことを思い出すのはぼくだけ?
なんつーか、「なんでそこでサリンなんか撒くかなぁ」という感じ。警察の目を撹乱するとかって、そんなことで撹乱なんかされない気がするんだよね。世界征服を狙う悪の軍団が、幼稚園のバスを襲う的な。
なんかこう、悪いことするにしても、もうちょっとちゃんとやろうよ。「まさかなぁ。裏の裏は表作戦?」と勘繰りたくなるけど、違うみたいなんだよね。そんなんでうまくいくはずないやん。「なんでや! そんなんでええのん?」と言いたくなる。もっとこう……、大人って……、ちゃんとしてるもんじゃなかったんですかっ!?
民主党にしても別にメールがどうとかじゃなくて、「どーでもええやん」的なことに一生懸命なりすぎな気がするんだよなぁ。「メールにせもんやった? あースマンスマンワッハッハ」でええやん。選挙のときも、「民主党が与党になれば」って、もうそんなありえない話から始めるのやめようや。話になりませんわ。
民主党のドタバタを見てると、オウム真理教のことを思い出すのはぼくだけ?
なんつーか、「なんでそこでサリンなんか撒くかなぁ」という感じ。警察の目を撹乱するとかって、そんなことで撹乱なんかされない気がするんだよね。世界征服を狙う悪の軍団が、幼稚園のバスを襲う的な。
なんかこう、悪いことするにしても、もうちょっとちゃんとやろうよ。「まさかなぁ。裏の裏は表作戦?」と勘繰りたくなるけど、違うみたいなんだよね。そんなんでうまくいくはずないやん。「なんでや! そんなんでええのん?」と言いたくなる。もっとこう……、大人って……、ちゃんとしてるもんじゃなかったんですかっ!?
民主党にしても別にメールがどうとかじゃなくて、「どーでもええやん」的なことに一生懸命なりすぎな気がするんだよなぁ。「メールにせもんやった? あースマンスマンワッハッハ」でええやん。選挙のときも、「民主党が与党になれば」って、もうそんなありえない話から始めるのやめようや。話になりませんわ。
# マウスホイールを回すと写真がぱらぱら切り替わるインタフェース
マウスホイールを回すと写真がぱらぱら切り替わりますとのこと。ふぅーん。これは面白いね。これなら、映像技術に疎い人でも簡単に作れそうだし、いろんな編集もしやすそう。画面にエフェクトかけたりとか。すごくいいハックのような気がしてきた。
→作者さんによる解説
→作者さんによる解説
2006-03-30
# なにかを表現することのむずかしさ
仕事が火を吹いているので、簡単にメモを。(いや、日記書いとらんで仕事しろという説もあるけど)
うちの部署の若いもんが、「○○はまだ若い技術なので」と話していたのが気になった。
ぼくも少し前までそう思っていたのだけど、オフ会などで偉い人に会ううちに、「○○は若い技術じゃないよ」とたしなめられることがあったからだ。「いや、昔からあるよ。オレは2年ぐらい前から使ってるよ」という感じで。
それでまぁ、ぼくも若いもんに一言教えてあげようかなぁと思ったのだけどね。
でも、そんなの教えても意味ないかなぁとふと思った。
上には上がいるというか、自分より知っている人がいるとか、そういうことを教えてどうなる?
そんなこと言いはじめると、若いもんは何も言えなくなるかもしれない。
逆に考えてみる。
○○の歴史が今後も長く長く続くなら、いまはまだ若いと言えるかもしれない。
若いとか知ってるとか良いとか悪いとか、そういう表現は難しい。
正しくもあり間違いでもありうる。
いろんな言葉や表現が、そういう難しさを秘めているなぁと思った。
だからといって、あなたは何も言うな、自分は何も言えないというわけじゃない。
それでも言わざるをえない。表現せざるをえない。
人間というのは何かを表現せざるをえない。
要は、「そういうことを肚に据えて、ものごとを言っているか」ということなんじゃないかなぁ。
あることを表現しようとしたとき、一面から見ただけでは完全でない。
別の面から見たら、何か違うものが見えることはよくある。
だからできるだけ多面的にものごとを見るほうがよいのだ。
一生懸命いろんな面からものごとを見て、それで表現して、
それでも足りないのが表現なんだろう。
そうすると、ここでたぶん一番問題になるのは「オレが」という感覚だ。
その感覚が表現にへばり付いてしまうと、ものごとを見誤る。
おれがおれがという我を捨てること。だけど我のないところに表現はない。
コンピュータはそれ自身が表現を生み出せるわけではない。
だから表現というものは、我がない状態と、我がある状態が混在してこそ1つの究極なのだろう。
ほんまかな?
うちの部署の若いもんが、「○○はまだ若い技術なので」と話していたのが気になった。
ぼくも少し前までそう思っていたのだけど、オフ会などで偉い人に会ううちに、「○○は若い技術じゃないよ」とたしなめられることがあったからだ。「いや、昔からあるよ。オレは2年ぐらい前から使ってるよ」という感じで。
それでまぁ、ぼくも若いもんに一言教えてあげようかなぁと思ったのだけどね。
でも、そんなの教えても意味ないかなぁとふと思った。
上には上がいるというか、自分より知っている人がいるとか、そういうことを教えてどうなる?
そんなこと言いはじめると、若いもんは何も言えなくなるかもしれない。
逆に考えてみる。
○○の歴史が今後も長く長く続くなら、いまはまだ若いと言えるかもしれない。
若いとか知ってるとか良いとか悪いとか、そういう表現は難しい。
正しくもあり間違いでもありうる。
いろんな言葉や表現が、そういう難しさを秘めているなぁと思った。
だからといって、あなたは何も言うな、自分は何も言えないというわけじゃない。
それでも言わざるをえない。表現せざるをえない。
人間というのは何かを表現せざるをえない。
要は、「そういうことを肚に据えて、ものごとを言っているか」ということなんじゃないかなぁ。
あることを表現しようとしたとき、一面から見ただけでは完全でない。
別の面から見たら、何か違うものが見えることはよくある。
だからできるだけ多面的にものごとを見るほうがよいのだ。
一生懸命いろんな面からものごとを見て、それで表現して、
それでも足りないのが表現なんだろう。
そうすると、ここでたぶん一番問題になるのは「オレが」という感覚だ。
その感覚が表現にへばり付いてしまうと、ものごとを見誤る。
おれがおれがという我を捨てること。だけど我のないところに表現はない。
コンピュータはそれ自身が表現を生み出せるわけではない。
だから表現というものは、我がない状態と、我がある状態が混在してこそ1つの究極なのだろう。
ほんまかな?