メッセージ。 - diary
2006-02-28
# サブカルチャーとは何か?
サブカルチャーとは、若い人による新しい文化であり、新しいがゆえに一段低く見られる。既存の文化に親しんだ人(その時代の大人、既得権者)からすれば、その新しい何かは異物である。自分たちの文化と違うものだから、気持ちが悪い。ちゃんと接してみれば、たとえば漫画もアニメも楽しめるだろうけど、それを一段下に置きたくなる。既得権者たちはそれを、「文化」の外に置こうとする。
「サブカルチャー」は、サブの名を冠しながらも実質的にその時代を支配する。そして時間がたち、若い人たちが年老いて既得権層になれば、サブカルチャーは「文化」に組み入れられる。そのころには、漫画やアニメといった既存のサブカルチャーとはまた別の、新しいサブカルチャーが生まれる。
インターネットもまた、サブカルチャーである。それはカルチャー/文化(ハイカルチャー)の外に置かれ、一段低いものとして扱われる。しかし実質は、ゆっくりと、しかし確実にその時代を支配してゆく。
アメリカというのは特殊な国で、サブカルチャーを容易にハイカルチャーに組み込もうとする力があるのかもしれない。beatlesは世界の音楽ビジネスを塗り替え、ハリウッドは映像エンターテイメントのスタンダードになった。しかし冷静に見れば、それは子供向けエンターテイメント以外の何者でもない。
もしそれらが日本で生まれていたなら、きっと「サブカルチャー」と呼ばれていただろう。日本という国は、サブカルチャーを「サブ」のまま内包する力学を持っている。たぶん、ほかの歴史ある国々もそうだろう。
「サブカルチャー」は、サブの名を冠しながらも実質的にその時代を支配する。そして時間がたち、若い人たちが年老いて既得権層になれば、サブカルチャーは「文化」に組み入れられる。そのころには、漫画やアニメといった既存のサブカルチャーとはまた別の、新しいサブカルチャーが生まれる。
インターネットもまた、サブカルチャーである。それはカルチャー/文化(ハイカルチャー)の外に置かれ、一段低いものとして扱われる。しかし実質は、ゆっくりと、しかし確実にその時代を支配してゆく。
アメリカというのは特殊な国で、サブカルチャーを容易にハイカルチャーに組み込もうとする力があるのかもしれない。beatlesは世界の音楽ビジネスを塗り替え、ハリウッドは映像エンターテイメントのスタンダードになった。しかし冷静に見れば、それは子供向けエンターテイメント以外の何者でもない。
もしそれらが日本で生まれていたなら、きっと「サブカルチャー」と呼ばれていただろう。日本という国は、サブカルチャーを「サブ」のまま内包する力学を持っている。たぶん、ほかの歴史ある国々もそうだろう。
2006-02-27
# インターネットで何が変わるか
ウェブ進化論—本当の大変化はこれから始まる P.013文章を書く、写真を撮る、語り・対話・議論を録音する(中略)そして、その結果を皆がインターネット上に置く。ではそれで何が置こるのか。(中略)バブル崩壊と共に終了した第一次インターネット・ブーム時の結論は「何も起こらない」だった。(中略)そこに圧倒的な技術革新が起きたために、局面は一気に動いた。「何かを表現したって誰にも届かない」という諦観は、「何かを表現すれば、それを必要とする誰かにきっと届くはず」という希望に変わろうとしている。
最後のところ、そうかね? なんとなくぼくは、そう思わないなぁ。必要とする人に、必要とするものを届けるのは難しい。グーグルがいくら優れていたって、人が検索キーワードを入力しなければ、必要とするものを届けることができない。 「求めよ、さらば与えられん」、これは事実かもしれない。しかし、基本的に人は求めない。自分が何を必要としているかすら、理解している人は多くない。「面白いもの」で検索しても、面白いものは見つからない。馬を川へ連れていっても、水を飲ませることはできない。もし何かを使えば水を飲ませられるとしても、その「何か」が「グーグル」であるかどうかは、もっとよく考えないと分からない。
# 芋を海につけて食べる
ある概念にいったん名前がついて、カテゴリ化が定着してしまうと、そのカテゴリを越える発想はそうめったに出てこない。
なんとなく考えているところが似ているように感じた。この人は「名前が付いてしまうと」という前提で考えているけど、さらに一歩進めることができると思う。つまり、名前を付けなくても、なんらかのアフォーダンスを一度そこから得てしまうと、人間はそれを覆す行動を取れなくなるんじゃないだろうか。
これをひとことで言えば、コロンブスの卵になる。机の上で卵を立てろと言われても、多くの人にとってはどうしたらよいか分からない。卵や机に固定したアフォーダンス(固定観念)を持ってしまっているし、「あまつさえ卵を割ったら?」と思い付いたとしても、「でもそんなのインチキだと言われたらどうしよう」と臆病になってしまう。
幸島の猿が芋を海水で洗って食べるようになったが、これが世界的に珍しい事件だったのも同じことだ。目の前に海と芋があったとしても、それを組み合わせて考えることは難しい。日本人は海老やイカを食べるけれど、海に面していない国の人にそれを食べさせるのは難しいだろう。何が言いたいのか。つまり、当たり前だと思っていることは、実は当たり前ではないということだ。
食べられるように見えるそれは、ある人にとっては食べられない。また、あなたが食べられないと思っているそれは、本当は食べられるのかもしれない。「食べられない」と思うから食べられないのであって、「食べられる」と思えば食べられる。そういう領域が、実はこの世界にはたくさんある。だけどその領域に踏み込むのは難しい。海に芋をつけて食べる、ただそれだけのことが、すごく難しい。
ぼくは知りたい。どうしたらそのとき、人はコロンブスになれるのかを。どうしたらそのとき、コロンブスの功績を素直に認めてあげられるかを。
2006-02-26
# インフラとアフォーダンス、相対化の話
横浜駅で東京行きのプラットフォームに立つ。
現在14時10分。東京行きの電車は、14時20分発の特急と、14時25分発の普通電車か……。
ぼくは慣れてるからいいけど、分かりにくいなと思った。
こういうシチュエーションで、14時20分発の特急に乗る人はいない。
その後の普通電車と比べて、たいして早く着くわけじゃないし、特急料金を余分に払わなくてはいけないから。
この特急列車が横浜に止まるのは、ほとんど降りる人のためだ。
小田原や伊豆や、もっと向こうから来て、横浜で降りる人。そういう人からすれば、特急電車が横浜で止まるのは自然なこと。だけど、横浜から電車に乗って、東京に行こうとする人からすれば、この電車は分かりにくい。
駅のアナウンスも掲示も、普段から横浜近辺に住んでいる人向けで、「普通電車」とか「特急」とか、「発車時間が5分違う」とか、<知らない人>には役に立たない。たぶんその人たちが知りたいのは、どっちの電車がどれくらい早く着いて、切符の値段がどれくらい違うかだ。
ユーザインタフェースの面からすれば、どうすればいいのかなぁ、と。「特急」とか「発車時間が5分違う」とかをやめて、「500円の運賃が上乗せして必要」とか、「東京への到着時間が5分速い」などとすれば、どうなるだろう。プログラマの感覚で言えば、これは、インフラの都合を情報として見せるのではなく、ユーザーが直接使える情報に変換して提供する抽象化といえるが。えーと、ごにょごにょ。
……ということを、ふと思った。
ところで、ちょっと脱線して、前に書いたエントリとも関係する話。子供のころからずっと疑問に思ってるのだけど、「特急」はどこが「特急」なのか? 「急行」と「準急」、「特急」の関係は? たまに「快速」や、「快速特急」などという電車も見かける。言葉や概念が陳腐化し、相対化する例がここでも見られる。
現在14時10分。東京行きの電車は、14時20分発の特急と、14時25分発の普通電車か……。
ぼくは慣れてるからいいけど、分かりにくいなと思った。
こういうシチュエーションで、14時20分発の特急に乗る人はいない。
その後の普通電車と比べて、たいして早く着くわけじゃないし、特急料金を余分に払わなくてはいけないから。
この特急列車が横浜に止まるのは、ほとんど降りる人のためだ。
小田原や伊豆や、もっと向こうから来て、横浜で降りる人。そういう人からすれば、特急電車が横浜で止まるのは自然なこと。だけど、横浜から電車に乗って、東京に行こうとする人からすれば、この電車は分かりにくい。
駅のアナウンスも掲示も、普段から横浜近辺に住んでいる人向けで、「普通電車」とか「特急」とか、「発車時間が5分違う」とか、<知らない人>には役に立たない。たぶんその人たちが知りたいのは、どっちの電車がどれくらい早く着いて、切符の値段がどれくらい違うかだ。
ユーザインタフェースの面からすれば、どうすればいいのかなぁ、と。「特急」とか「発車時間が5分違う」とかをやめて、「500円の運賃が上乗せして必要」とか、「東京への到着時間が5分速い」などとすれば、どうなるだろう。プログラマの感覚で言えば、これは、インフラの都合を情報として見せるのではなく、ユーザーが直接使える情報に変換して提供する抽象化といえるが。えーと、ごにょごにょ。
……ということを、ふと思った。
ところで、ちょっと脱線して、前に書いたエントリとも関係する話。子供のころからずっと疑問に思ってるのだけど、「特急」はどこが「特急」なのか? 「急行」と「準急」、「特急」の関係は? たまに「快速」や、「快速特急」などという電車も見かける。言葉や概念が陳腐化し、相対化する例がここでも見られる。
2006-02-24
# 相対化されていく(社会的)価値
「自分の本音を相手にぶつけるなどということは裸で街を歩いているような恥ずかしい行いだ」、ということになるらしい。むしろ、その場その場の空気に自分を順応させ、相手を楽しませたり場を盛り上げたりすることが能力の証明であり、かっこいいことなのだ、と彼は言い切った
これは興味深い洞察だなぁ。最近感じるのだけど、世の中のイベント事や習慣が、それそのものの意味をまったく欠いてしまっているような気がする。たとえばバレンタインデーのことを、「女の子が好きな男の子にチョコレートを渡して愛を告白できる日」だなんてとらえている人がいるだろうか? 小さな子供でさえ「歴史的にはそうである」みたいな認識をしているような気がする。
つまり、そういう事象を真正面から捉えることができなくなっているんだ。無理にそういうことをすると、嘘臭くなってしまう。結果として、バレンタインデーで言えばチョコレート以外の何かを付けて本気であることを表現するとかしなければならなくなる。よくあるあれだ。「ディズニーランドに一緒に行ったカップルは別れる」みたいな。最初は「仲の良い二人が一緒にディズニーランドに行って、より仲が深まる」というジンクスだったのが、時間がたつことで陳腐化し、逆の意味でとらえるほうが本当っぽく見える(あるいはどちらも無価値に感じられる)という。
こういうのは、習慣ごとに限らずいろんなところで起きているはずだ。結婚とか、仕事とか、家庭とか。クレヨンしんちゃんなんかが指摘しているのもまさしくその点で、社会的価値観というものの相対化が急速に進んでいるのだろう。ホリエモン事件もそういう文脈でとらえることができるし、たぶんほかのいろんなこともそうだ。で、問題はなぜそういうことが起きるのか、なにかすべきことはあるかだけど……。