メッセージ。 - diary

2006-03-07

# もしきみが、それを良くしたいと本気で思っているのなら

全然話は違うように聞こえるかもしれないけど、先日二十代前半の友人と話していたら、彼がこう言った。「うちの会社は経営が下手すぎる。もっと上手くやれるはずだ」。だけどぼくは、違うと思うのだ。そんなことを言っていてもしょうがない。ぼくはこう答えた。

『たとえば、いま世の中に、うまくいっていない夫婦はたくさんいる。もしかしたら、半分以上の夫婦がうまくいっていないかもしれない。これはなぜだろう? 外にいて「もっと上手くやれるはず」なんて言うのは簡単だ。だけど、現実に自分がその立場に立ったら、ほとんどの人はうまくやれない。そして、会社というのも同じなんだ。夫婦というのは組織であり、会社も組織なんだよ』

そして、組織とはシステムのことだ。この例と照らし合わせてみると、会社がうまく行かないのは自然なことだし、(情報)システムがうまく行かないのも、それと同じだけ当たり前のことのように思える。じゃあ、そんななかでシステムや会社をうまく行かせるにはどうすればいいのか。

ぼくだってどうすればいいかなんて分からないけど、でも言いたいのはこういうことだ。「ここで文句を言っていてもしょうがないよ。『こうすればよい』と思うことがあるならば、そう行動してみよう。あなたはその組織の一員なのだから。組織を良くしたいのなら、そのために行動する権利があるし、義務さえあるかもしれない。とにかく、ここでクダを巻いていないで、やってみよう。もしきみが、それを良くしたいと本気で思っているのなら」。
2006-03-07 19:22:49 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# ちがうなぁ。……

そういうことじゃないんだ。

普通の人が、そこまで情報システムを理解するのは難しい。だけど、「(情報)システムは難しくって高価だ」ということを理解するのは、そんなに難しくない。問題は、いまそれが安価に扱われすぎていることにあると思うのだ。
2006-03-07 18:59:39 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 情報システムの本質と、社会への適用

2005年後半から2006年初頭にかけての事件と情報教育の関連に関するコメント

非常に質の高いコメント。正論だと感じた。
ただし、まだ煎じ詰めることができると思う。この文章では、情報技術をめぐる昨今の事件について、その原因を「情報処理と情報システムの原理に対する理解の欠如」として、問題を解決するために「国民全体の『情報水準』の底上げ」が必要であるとしている。

方向性としては同意だ。
でもぼくは、国民全体の「情報水準」は、期待したほど高められないように思う。情報システムの本質というものを理解するのはとても難しいことだからだ。言うまでもなく人間の能力にはバラツキがあり、思想や習慣もかなり違う。ものごとの本質を理解する力、あるいは何に価値を見出すかも人によってさまざまだ。

この文章に書かれている言葉、「情報システムは作った人と同程度にしか信用できない」、「重要な情報システムを維持する企業の責任者(CIO)は、(中略)その成果に対して応分の責任を取れる人材であるべきである」といった指摘は秀逸だと思う。しかし、いくら高度な教育を施したところで、この秀逸な指摘を肚の底から理解し、実践できる人材はなかなか育たないのではないだろうか。

人間には向き不向きというものがあり、情報システムというものだけにそれほどの教育コストを割けないだろうと考える。かりにこのような理解をできる人材がいたとしても、それを活かせる組織であるとは限らない。情報システムに起因した問題を起こりにくくするためには、情報システムに対する理解だけでなく、コミュニケーション能力や信頼関係、目的共有と執行能力をかなり高度に保つ必要がある。人間と組織の歩留まりをそこまで高めるのは不可能だ。

では結局どうすればいいか。何が問題で、どう解決すべきなのか。それはぼくにもよく分からないけど、少なくとも情報システムの構築・保守コストが、いま一般に考えられているよりもかなり高いことをまず明らかにして、それを社会が理解すべきだと思う。そして、
(1)情報システムに誤りが含まれていてもそのミスを回復できる(フィギュアスケート採点ミスなんかは、コーチや視聴者からの情報でミスを発見できるし、その時点で人手で再計算すればよい。あるいは複システム化と組み合わせるとか。というか、最初から人手でやったっていいんじゃない?)
(2)ミスを回復できない情報システムならば、十分たくさんの人間をミス回避のために投入する(東証の誤発注では、1つの業務に対して複数の部署を用意しておき、それらの発注内容が同期したときだけシステムにコマンドが投入されるとか)

といった仕組みを作るべきなんじゃないかと考える。また、
(3)必要のないところは情報システム化しない。あるいは、ユーザーができるだけ情報システムを使用しない(情報システムは梃子だ。それを使うことで効率化できる。しかし、効率化できるということは、効率的に損失を出せるということでもある。人間が十分気を付けて使えば、得るものもあるだろう。しかし気を付けるコストが割けないのなら、痛い目に合うこともあるだろう。不要なところでは情報システムを使わないこと。必要なところでは、十分気を付けられる人的コストをそこに割くこと)
も効果があるか。

などと愚行する。つらつらと書いてみたが、本当はこんな対策じゃ問題は解決できないかもしれない。もっとちゃんと、本質は何かを(みんなで)考え、(みんなで)理解する必要があると思う。この問題の本質を解明するためには、まだまだ知恵が必要であり、それにかけるコストは十分ペイしうる。今後も情報システムは使われるだろうから。
2006-03-07 18:00:11 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# ザウルスSL-C3200、発売

パーソナルモバイルツール“ザウルス”<SL-C3200>を発売 | ニュースリリース:シャープ

ハードディスクが6GBになったらしい。メモリ容量は64MBのまま。新しいのが出るのはうれしいけど、うえーん、メモリ増やしてよ〜。絶対買うから。
2006-03-07 15:08:10 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-03-06

# ロボットラバ、すごい

ロボットラバが開発されたとのことだけど、これすごいねぇ……。本当に生きているみたい。いろいろ想像しちゃったよ。

 
 前後左右の安定性を考慮した結果「人間向かい合わせ」っていう結論に達したってワケですかね。

というコメントもあるけど、むしろ四足歩行の動物はたいていこういう足の形をしているよね? 画像を見て、あらためて発見した気がした。人間でいうと向かい合わせなんだなぁって。そのほうが安定するのかなぁ。上方向に立ち上がるには、この足の構造のほうが合理的な気がするけど。
2006-03-06 14:51:05 / ふじさわ / Comment: 3 / Trackback: 0

2006-03-04

# Debianと格闘中

ぐえー。Debianを使ってると、たまに息苦しくって死にそうになる。

apt-getでGaucheをインストールしたら、Segmentation Fault。バージョンも0.8.3-3ということで、まぁそんなもんかな、やっぱ自分でコンパイルするべとgccをインストールしたんだけど、やっぱりダメ。./configureで「C compiler cannot create executables」とか言われる。で、ためしにhello.cを書いてコンパイルを試みる。

$ cat > hello.c
#include <stdio.h>

int main(void) {
        printf("hello, world!\n");
        return 0;
}
^d
$ gcc hello.c
hello.c:1:19: stdio.h: No such file or directory

まぁそうなんだろうなぁとは思うけど。どうすればstdio.hをインストールできるのでつか? orz orz orz。くだらないことができないとほんと腹立つのり!

追記:お。dselectで「Std libdevel libc6-dev」をインストールしたらhello.cはコンパイルできたぞ。
追記:やった! configureは通った。で、makeって実行したらこんどは「make: command not found」ですよ。笑っちゃった。
さらに追記:どうも、Segmentation Faultの原因はアーキテクチャとGaucheの相性にある気がしてきた。CPUは「XScale-IOP8032x Family rev 0 (v5l)」(XScale/400MHz)を使っているのだけど、普通のarmではないのかもしれない。要調査。
2006-03-04 19:58:56 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 偽善と大風呂敷

たしかにこういう考え方は偽善的です。
でも、ぼくは物心ついたときに、純粋な善ではなくなってしまった。
物心がつくというのはそういうことです。

そう考えると、アダムとイブが禁断の果実を食べて天界を追われたのも、純粋な善ではなくなったからと言えます。
逆に、物心のつかない存在こそが純粋な善なのだろうと思います。
つまり、自然や、意思の不在こそが、純粋な善であり神であるのかもしれません。
2006-03-04 00:32:37 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-03-03

# モテと見積もり、お返事二題

「高く見積もる人と低く見積もる人。理解と追体験。」にいくつかコメントをいただいたので、お返事してみますー。
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://nnri.dip.jp/~yf/momoka.cgi?op=readmsg&id=909

 REV 『[非モテ][カリカリモフモフ]モテがうまいことをいうと、「私の勇気を出してくれた!」とモテて、非モテがいうと、「NKHI:何この非現実的な意見」といわれるんじゃないかな。』

たしかに、同じようにうまいことを言ったとしても、受け取られ方が変わってくることは実際にあると思います。じゃあ、結果に差が出るのはなぜか。どこに違いがあるのか。それがモテと非モテの違いなわけですよね。

同じように言ってるのになにかが違う。この「なにか」が知りたい。REVさんのコメントでは、この「なにか」を、5W1Hで言うところのWho、つまり「誰が言っているか」に原因があると考えているのですよね?

でも、そこで諦めてしまわないほうがよいと思うのです。「誰が言ってるか」をたしかに女の人は気にします。それは言い換えれば先入観ですよね? そして、先入観というのは、それまでの経験から生じているわけです。普段から好印象を持つ人から言われたことは、良い方向に受け止めます。逆もまたしかり。

モテか非モテかを分けるのは、普段からそういう印象を与えられるかどうかなんです。たとえば、みんなで居酒屋にいったとして、あまり可愛くない女の子が一人浮いていたとする。そういう子に積極的に話しかける男はモテます。なぜかというと、そういう行動が好印象だからです。フェアで優しい男だという印象を与える。

モテは先天的なものじゃないとぼくは思います。普段の行いも大きいよと。

 monolith 『[考察]能力がある程度ばらついて分布していると,大概の場合は相手を低く/高く見積もる方が正確ということもないかな.状況次第ですが.』

これもそのとおりだと思います。正確さを追求するなら、相手を上か下かで見積もったほうがよいでしょう。でも、場合によっては、正確であることよりももっと大事なことがありますし、いずれにせよ「相手が下である」みたいなことは、たとえ思っても顔に出さないほうがよいと思います。

だって、下扱いされたら不快になるでしょう? どんな場合でも高く見積もる。実際に心の中ではそう思っていなかったとしても、少なくとも「あなたを高く見積もってますよ」というフリはしたほうがよいです。そうしたらコミュニケーションが円滑に進んで、物事が前に進みますから。

ぼくはこれをもう一歩進めて、「どんな場合でも相手を高く見積もっちゃえ」と思っています。だって、「こんなすごい人と遊べて楽しい」と思ったほうがトクじゃないですか。実際に相手がすごい人ならそれでよいですし、あまつさえそんなにすごくない人だったとしても、すごい人だとして接することで、モチベーションを高めてくれるかもしれない。

そうすると、その人の実力が発揮しやすくなるはずです。なんの問題もない。実際、こういう風に接してみると、すごくない人ってそんなにいません。やる気になりさえすれば、なにかしらの力を持っている人が多いと思います。「ウソも言いつづければ本当になる」じゃないですけど、ウソで相手を高く見積もって、それに近い結果が得られたら超トクです。

結局は、何をやりたいかなんですよね。正確でありたいのか、それとももっと違うものが欲しいのか。ぼくはもっと違うものが欲しいと思います。どちらが正しいのかは、分からないんですけど、とにかく関西人はこんな風に考えます。
2006-03-03 23:57:10 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# バカが征く復活

昨日ぐらいからつながらなくなっちゃってたバカが征く、新しいURLで再開したみたいですね。→バカが征く。なにはともあれおかえりなさい。
2006-03-03 21:30:28 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 「欲望の三角形」

ルネ・ジラールさんの「欲望の三角形」を、より正確に理解してそうな人のテキスト。読み物としても面白いので、あとでじっくり読んでみようっと。# なんかこのサイト、前にも見たことがある気がするけど……。

 
 社会学者であるほうのルネ・ジラールがいっている(らしい)「欲望の三角形」というのは、簡単に言うとこういうことだ(と思う)。人が何らかの対象物を欲するのは、主体が欲望する他者がその対象物を欲するからなのであって、対象物への欲望それ自体は存在しえない。欲望は必ず他者に向けられていて、この主体 - 他者の関係を対象物が媒介している。こうして成立した主体 - 対象(物) - 他者という「欲望の三角形」を介して?人は社会関係を取り結ぶのだ?という理屈。
2006-03-03 15:40:18 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 暴力は暴力を防止するために発生しつづける

 
  「殺さないために命を投げ出すこと、そうすることによって殺しと死との悪循環から抜け出すために、自分の命を投げ出すことをためらってはいけません」。
  むろん自爆テロを勧めているのではない。ジラールは「世の初めから隠されていること」は本質的な暴力というものだということを言いたくて、こんなことを言っていた。
 
  すでにジラールは1972年に記念碑的な『暴力と聖なるもの』を書いて、暴力が民族学あるいは民族心理学の課題に所属すべき問題であること、共同体の維持と成長に不可避なものであること、暴力は暴力を防止するために発生しつづけるものであることなどをつきとめていた。

ふぅむ。たしかにそうだ。人類というのは本質的に暴力的なんだな。暴力から守るために暴力で抗しようとしたら、その恨みが新しい暴力のタネになる。暴力の連鎖がそこにあって、その原因は、人類がもともと持っている暴力性なんだという考え方。何もしない状態では、そこに暴力があるので、努力をして暴力を押さえ込まなくてはいけない。そうしなければ暴力の連鎖を断ち切れないということだ。

正義の名のもとに暴力で抗することは、また新たな暴力を生むので、何も変わることがない。暴力に暴力で抗することは、本当の正義ではない、ということがいえるのかもしれない。あとでまた考えようっと。
2006-03-03 14:17:04 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 携帯電話とアフォーダンス

東京の電車では、携帯電話を覗き込んでる人が多いなぁと思う。
席に座っている人が、横ならびで全員携帯を目の前に持ち上げているのは異様な雰囲気だ。
その異様さは、ウォークマンを聞いている人を見たときにも感じる。
なんでこんな風に感じるのかは、自分でもよく分からないんだけど。
なんというか、無防備すぎるように感じるのかなぁ。
ウォークマンがはじめて世に出てきたときに思ったのは、「五感の1つを失うことを畏れないのかな?」というようなことだった。
自分だったら、ちょっと怖くてそんなことできない。
外にいるということは、いつ外敵に襲われるか分からないということだ。
原始時代じゃないんだから、襲われるといっても危険な動物が身の周りにいるわけじゃないけど。
でも、悪い人がそのへんを歩いているかもしれないし、車道を外れた車が突っこんでくるかもしれない。
それに、なんと言っても音楽を聞きながらじゃあ、景色を楽しめないじゃないか。
そんなことを思って、いまでもウォークマンの類はあまり好きじゃないのだけど。
同じようなことを、やっぱり電車の中の携帯電話にも感じるんだよなぁ……。
その一方で、電車の中で本を読んでいる人には、あまりそういう感情を抱かないのだけど。
なんでだろうなぁ……。やっぱり自分でもこの感じの原因がよく分からない。

最近は、行き帰りの電車で、いつもザウルスを触っている。
趣味のプログラミングをやっていることがほとんどなのだけど、とても楽しい。
もう元は取ったと胸を張って言えるほどザウルスで遊んでいる。
まぁそれはいいとして。ふとあることに気付いたのだ。
電車の中でザウルスで遊んでいて、目を上げると、隣や前にいる人が携帯電話を睨んでいることが多い。
というか、ぼくがザウルスで遊び始めるのを見て、携帯電話を取り出す人が多いように感じるんだな。
見るともなしに、何をやってるのか覗いてみると、フリーセルみたいなのをやっている。
感覚的なものの見方かもしれないけど、そういう人は、ぼくがザウルスで遊んでいるのを見て、自分もやりたくなったんだと思う。
「退屈だ」と感じたのかもしれないし、「なんか面白そうなもの持ってるな」とうらやましくなったのかもしれない。
あるいは、「自分も何か時間を有効に使わなければ」と感じる人もいるかもしれない。
感じ方はいろいろだろうけど、とにかく人間は、周りの人を見てそれに影響を強く受けるものなんだろうと思う。

フランスの社会学者、ルネ・ジラールという人がこう言ったそうだ。
「欲望とは他者の欲望の模倣である」
たしかになぁと思ったよ。
隣の田中さんが車を買い替えたら、自分も車を欲しくなる。
友達が持っている新しいおもちゃを見て、自分も欲しくなる。
そういう感じは、誰しもが持っているんじゃないだろうか。

まぁこれについても、つらつら考えているのだけど、
1つ思うのは、欲望だけでなく、いろんなことを人間は模倣によって得ているのだろうなということだ。
つまり、人間は別の人間から大きなアフォーダンスを受け取っているんだろうと。
隣にいる人が楽しそうなことをやっていれば、自分もやりたくなる。
「あ、ここでこういうことをやってもいいんだ」と感じたりとか。
そういう模倣のしあいによって、人間の社会というのは成り立っている。
ちょっと前に書いた幸島の猿もきっとそうだ。
ある一匹の猿が、海水で芋を新って食べたらおいしいと発見する。
そうすると、しだいに周りの猿もそれを真似して食べはじめる。
最初の一匹がそれを見つけるまで、たいていは誰も気付かないものなんだ。
それはまさに、コロンブスの卵だろう。

電車の中で携帯で遊ぶ人というのも、周りの人からのアフォーダンスを受け取っている。
でも、だとしたら、ぼくがザウルスで遊んでいて、周りの人はどんなアフォーダンスを受け取るんだろうか。
それで、えーと、っと。仕事だって。とりあえずまとまらないし、ここでえぃっ。送信。
2006-03-03 14:16:48 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# タイマグラばあちゃん

タイマグラばあちゃん

岩手の秘境タイマグラ。NHKのディレクターだった人が、タイマグラの取材をきっかけにばあちゃんを好きになり、会社を退職して村に移り住んで、15年かけて作ったという映画。観てみたいなぁ。どうすれば観れるんだろう。

関連ページ:
ハコフグマン: TVからはじき出される個性
Amazon.co.jp:タイマグラ通信—映画『タイマグラばあちゃん』制作ノートハヤチネ叢書: 本
2006-03-03 04:27:29 / ふじさわ / Comment: 5 / Trackback: 0

2006-03-02

#

なんでこんな小難しいこと書いたんだ?
2006-03-02 20:54:32 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 高く見積もる人と低く見積もる人。理解と追体験。

ああ、つかれた。つかれているので、見たもの、聞いたものにそのまま反応し、感じたことを即座に書いてみます。まだ最後まで読んでいないのだけど、興味深かったので。

 
 他人に相談をして、
 
 「そんなのはこうやって解決しろよ」
 
 と言われたときにしばしば私は、
 
 「ええ〜、そんな誰でも思いつくようなまっとうで正当な解決法を提案するなんて、どういうこと? 残念ながらソレはもう思いついたし試したけど、どうしようもなかったんだよなあ」
 
 などと思ってしまいます。
 
 「それなのにそういう提案をするってことは、このひとはあたしをまれにみる馬鹿だと思っているんだな……そこまで自分を見下している人間と交流する意味ってなんだろう」
 
 と悲観的になってしまいます。

世の中には2種類の人間がいる。基本的に誰かのことを低く見積もる人と、高く見積もる人だ。

低く見積もる人は、何を聞いても自分の理解の範疇で考える。何かを相談されても、自分が正解を知っているつもりになっている。だからありきたりな正論をぶつ。相手が自分の思いも付かないことで悩んでいたり、自分と同じ悩みをかかえていたりするとは想像しない。しかしこれでは、いつまでたっても問題が解決しないし、成長しない。

もう一方の高く見積もる人は、自分の理解の範疇とほぼ同等か、その外を探そうとする。自分の理解と同等の範疇で探すときは、「そうだよね。そういうときもあるよね」という言葉が出る。理解の外を探すときには、「こうしてみたらはどう?」という言葉が出る。そこには共感があり、前へ踏み出す一歩がある。

解を探すには、自分の理解の範疇を飛び出して、相手の理解の範疇にシンクロを試みる必要があると思う。なぜなら理解とは、範疇を少し広げることだから。相手の範疇を広げることは、自分の範疇とシンクロさせることで可能になる。またそれは、自分の範疇を広げることにもなる。共感、肯定、問題共有などを伴う。言い換えれば追体験だ。

男女の間でこのような追体験を行うのは、そう難しいことではない。でも、それがうまくできない人を案外たくさん見かける。個人的には、そういう人は自分の親とちゃんとしゃべったことがないんじゃないかと思う。

たとえば男なら、自分の母親の悩みを聞いたり、今日の献立を考えるのを手伝ったりしているか? 女なら、たまにでも父親と一緒に出かけることがあるか? たったこれだけの違いだけで、モテるかモテないかに雲泥の差が出てくる。
2006-03-02 14:38:51 / ふじさわ / Comment: 1 / Trackback: 0
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