メッセージ。 - diary

2006-03-01

# ぼくも四分反フンフンしたい。

2006-03-01 21:59:35 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# ぼくらがここにいる理由

「サブカルチャーとは何か?」で書いたことは、この間のWiki小話/Vol.6で感じたことの延長線上で考えたことでもある、というお話。Wiki小話/Vol.6でぼくは、「尖ったWikiはどこにいる」というタイトルで話した。趣旨は、「Wiki開発者は楽しんで作っている。その楽しみのエネルギーこそが『尖った』ものを作るものじゃないか」というものだった。

日本のWiki屋さんの中には、個人的な楽しみでそれを作っている人が多い。裏を返せば、便利な機能とか、ユーザーの利便性を高める機能とかを地道に作りこんでいる人はけっこう少ないということだ。一方で海外を見ると、多機能であることや高度なアプリケーションの互換性を重要視する一派がいるらしい(詳しくは塚本さんの発表資料などを参照してください)。なんでかなぁと思ったわけですよね。

ぼくは日本のWikiの状況を「悪く言えばユーザー不在だ」とも言った。この言葉に同意してくれた人もいたみたいだけど、ぼく自身はこれはリップサービスというか、「そういう面もあるよね」ぐらいの感覚で、真剣に悩んだりしていない。以前、「Wikiが流行らない理由」という話題で盛り上がったときのように、流行っていないことをけっこう楽しんでいたりもする。でも、なんでだと。

Wiki小話/Vol.6の感想で書いたように、なんとなくWikiって、漫画やアニメの状況とイメージがかぶるところがある。ちゃんとした界隈からは放っておかれているという感じ。そして中にいる人たちも、放っておかれていることを心地良く感じている気がする。漫画/アニメもWikiも、必要以上に多くのユーザーを欲しがっていない。好きな人はどうぞみたいな。

それで、中の人たちは「うおー。萌えー」とかいって楽しんでるんだけど、外にいる人たちからは「ナンダアイツラ」みたいな感じで蔑まれてたりして。そういうところが、日本的なのかなという気がする。ハイカルチャーとは対置され、地位が低いと見なされているけど、純粋に自分たちの好きなものを作ることが許される場がそこにあると。

無意識のうちにぼくらは、「ハイカルチャーに分け入って、社会的に認められてしまうと窮屈だ」と感じている。建前の世界では遊べないことを何となく察知している。オタク文化と恋愛資本主義の対立なんかも、同じ構図なんじゃないかなぁ。創造的な遊びは、やっぱりサブの文化の中にいないと味わえない。恋愛というのはなにやらうらやましく感じるけど、そこに創造の楽しみは感じられない。だからぼくらはここにいる。
2006-03-01 04:15:41 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 人によって見えるものが違うという話

なんだろう……。何か言葉をつぶやいたとき、それをボヤキと受け取る人もいれば、「楽しそうにやってるな」と感じる人もいる。その感じ方はもう、世界観の違いであり哲学の違いなんじゃないかな。言葉をつぶやいた人と、聞いた人が反対の感じ方をするのなら、それはけっこうしんどいことだ。楽しんで書いた文章を読んでガッカリされたら、そりゃあちょっと慌てちゃうよね。
2006-03-01 03:17:27 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-02-28

# サブカルチャーとは何か?

サブカルチャーとは、若い人による新しい文化であり、新しいがゆえに一段低く見られる。既存の文化に親しんだ人(その時代の大人、既得権者)からすれば、その新しい何かは異物である。自分たちの文化と違うものだから、気持ちが悪い。ちゃんと接してみれば、たとえば漫画もアニメも楽しめるだろうけど、それを一段下に置きたくなる。既得権者たちはそれを、「文化」の外に置こうとする。

「サブカルチャー」は、サブの名を冠しながらも実質的にその時代を支配する。そして時間がたち、若い人たちが年老いて既得権層になれば、サブカルチャーは「文化」に組み入れられる。そのころには、漫画やアニメといった既存のサブカルチャーとはまた別の、新しいサブカルチャーが生まれる。

インターネットもまた、サブカルチャーである。それはカルチャー/文化(ハイカルチャー)の外に置かれ、一段低いものとして扱われる。しかし実質は、ゆっくりと、しかし確実にその時代を支配してゆく。

アメリカというのは特殊な国で、サブカルチャーを容易にハイカルチャーに組み込もうとする力があるのかもしれない。beatlesは世界の音楽ビジネスを塗り替え、ハリウッドは映像エンターテイメントのスタンダードになった。しかし冷静に見れば、それは子供向けエンターテイメント以外の何者でもない。

もしそれらが日本で生まれていたなら、きっと「サブカルチャー」と呼ばれていただろう。日本という国は、サブカルチャーを「サブ」のまま内包する力学を持っている。たぶん、ほかの歴史ある国々もそうだろう。
2006-02-28 13:05:27 / ふじさわ / Comment: 3 / Trackback: 0

2006-02-27

# インターネットで何が変わるか

 
 文章を書く、写真を撮る、語り・対話・議論を録音する(中略)そして、その結果を皆がインターネット上に置く。ではそれで何が置こるのか。(中略)バブル崩壊と共に終了した第一次インターネット・ブーム時の結論は「何も起こらない」だった。(中略)そこに圧倒的な技術革新が起きたために、局面は一気に動いた。「何かを表現したって誰にも届かない」という諦観は、「何かを表現すれば、それを必要とする誰かにきっと届くはず」という希望に変わろうとしている。

最後のところ、そうかね? なんとなくぼくは、そう思わないなぁ。必要とする人に、必要とするものを届けるのは難しい。グーグルがいくら優れていたって、人が検索キーワードを入力しなければ、必要とするものを届けることができない。 「求めよ、さらば与えられん」、これは事実かもしれない。しかし、基本的に人は求めない。自分が何を必要としているかすら、理解している人は多くない。「面白いもの」で検索しても、面白いものは見つからない。馬を川へ連れていっても、水を飲ませることはできない。もし何かを使えば水を飲ませられるとしても、その「何か」が「グーグル」であるかどうかは、もっとよく考えないと分からない。
2006-02-27 21:59:27 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# 芋を海につけて食べる

 
 ある概念にいったん名前がついて、カテゴリ化が定着してしまうと、そのカテゴリを越える発想はそうめったに出てこない。

なんとなく考えているところが似ているように感じた。この人は「名前が付いてしまうと」という前提で考えているけど、さらに一歩進めることができると思う。つまり、名前を付けなくても、なんらかのアフォーダンスを一度そこから得てしまうと、人間はそれを覆す行動を取れなくなるんじゃないだろうか。

これをひとことで言えば、コロンブスの卵になる。机の上で卵を立てろと言われても、多くの人にとってはどうしたらよいか分からない。卵や机に固定したアフォーダンス(固定観念)を持ってしまっているし、「あまつさえ卵を割ったら?」と思い付いたとしても、「でもそんなのインチキだと言われたらどうしよう」と臆病になってしまう。

幸島の猿が芋を海水で洗って食べるようになったが、これが世界的に珍しい事件だったのも同じことだ。目の前に海と芋があったとしても、それを組み合わせて考えることは難しい。日本人は海老やイカを食べるけれど、海に面していない国の人にそれを食べさせるのは難しいだろう。何が言いたいのか。つまり、当たり前だと思っていることは、実は当たり前ではないということだ。

食べられるように見えるそれは、ある人にとっては食べられない。また、あなたが食べられないと思っているそれは、本当は食べられるのかもしれない。「食べられない」と思うから食べられないのであって、「食べられる」と思えば食べられる。そういう領域が、実はこの世界にはたくさんある。だけどその領域に踏み込むのは難しい。海に芋をつけて食べる、ただそれだけのことが、すごく難しい。

ぼくは知りたい。どうしたらそのとき、人はコロンブスになれるのかを。どうしたらそのとき、コロンブスの功績を素直に認めてあげられるかを。
2006-02-27 20:27:48 / 芋を海につけて食べる / Comment: 0 / Trackback: 0

2006-02-26

# インフラとアフォーダンス、相対化の話

横浜駅で東京行きのプラットフォームに立つ。
現在14時10分。東京行きの電車は、14時20分発の特急と、14時25分発の普通電車か……。

ぼくは慣れてるからいいけど、分かりにくいなと思った。
こういうシチュエーションで、14時20分発の特急に乗る人はいない。
その後の普通電車と比べて、たいして早く着くわけじゃないし、特急料金を余分に払わなくてはいけないから。

この特急列車が横浜に止まるのは、ほとんど降りる人のためだ。
小田原や伊豆や、もっと向こうから来て、横浜で降りる人。そういう人からすれば、特急電車が横浜で止まるのは自然なこと。だけど、横浜から電車に乗って、東京に行こうとする人からすれば、この電車は分かりにくい。

駅のアナウンスも掲示も、普段から横浜近辺に住んでいる人向けで、「普通電車」とか「特急」とか、「発車時間が5分違う」とか、<知らない人>には役に立たない。たぶんその人たちが知りたいのは、どっちの電車がどれくらい早く着いて、切符の値段がどれくらい違うかだ。

ユーザインタフェースの面からすれば、どうすればいいのかなぁ、と。「特急」とか「発車時間が5分違う」とかをやめて、「500円の運賃が上乗せして必要」とか、「東京への到着時間が5分速い」などとすれば、どうなるだろう。プログラマの感覚で言えば、これは、インフラの都合を情報として見せるのではなく、ユーザーが直接使える情報に変換して提供する抽象化といえるが。えーと、ごにょごにょ。

……ということを、ふと思った。

ところで、ちょっと脱線して、前に書いたエントリとも関係する話。子供のころからずっと疑問に思ってるのだけど、「特急」はどこが「特急」なのか? 「急行」と「準急」、「特急」の関係は? たまに「快速」や、「快速特急」などという電車も見かける。言葉や概念が陳腐化し、相対化する例がここでも見られる。
2006-02-26 16:06:19 / インフラとアフォーダンス、相対化の話 / Comment: 2 / Trackback: 0

2006-02-25

# つかれてます。

あちゃー。Wiki関係のメーリングリストで、めちゃめちゃ署名を間違ってしまっていました。ふだんは、ここでもそうなんだけど平仮名にしてるのに、漢字の署名にしてしまった(漢字はお仕事用)。自分でも気付かないうちにテンパってるのだなぁ……。
2006-02-25 19:26:07 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
recent days<< | >>old days