メッセージ。 - diary
2006-01-20
# ありゃ? こんな記事...
ありゃ? こんな記事を見つけちゃった。宮崎さんはオタクじゃなかった?という暴露話のようです。
(追記:コメントまで読むと、「オタクじゃなかった?」というのは言いすぎのようですね。難しいなぁ)
ToS : silver shooting star : 宮崎勤事件を覚えてますか?
http://utaukaeru.exblog.jp/3803644/
(追記:コメントまで読むと、「オタクじゃなかった?」というのは言いすぎのようですね。難しいなぁ)
ToS : silver shooting star : 宮崎勤事件を覚えてますか?
http://utaukaeru.exblog.jp/3803644/
# オタクの動機
「動機が解明されなかった宮崎事件」というくだり、もしかしたら動機が解明されないのも当然なんじゃないか?と思った。なぜなら、宮崎さんのようなオタクにとって、自分の動機(何をしたいか)というものは最も隠しておきたいものだからだ。裁判官や検察やお茶の間の人間などに、自分が何をしたいかを理解されてたまるかとオタクは思っている。
オタクは、メタに振る舞ったりアニメのような仮想世界を道具に使ったりするけど、それらは社会や仲間に対するマスカレード(と自己認識のメタ化)が目的のような気がする。理解されてはいけないのだ。たとえばスーパーマンの正体がバレてはまずいのと同じように。それは神聖なもので、汚れた人間の手に触れさせてはいけないものだという考えがある気がする。
そういう意味では今回の事件、報道記者や識者をして「動機が分からなかった」と言わしめたのは、ある意味宮崎さんの勝利なのかもしれない。彼は一番大事なものを守ったのだ。
オタクは、メタに振る舞ったりアニメのような仮想世界を道具に使ったりするけど、それらは社会や仲間に対するマスカレード(と自己認識のメタ化)が目的のような気がする。理解されてはいけないのだ。たとえばスーパーマンの正体がバレてはまずいのと同じように。それは神聖なもので、汚れた人間の手に触れさせてはいけないものだという考えがある気がする。
そういう意味では今回の事件、報道記者や識者をして「動機が分からなかった」と言わしめたのは、ある意味宮崎さんの勝利なのかもしれない。彼は一番大事なものを守ったのだ。
2006-01-19
# 論理と善悪
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2006/01/post_1c33.html
はげどうのところもあるけど、うーん。……まぁ、よい問題提起。
いまよりもう少し若かったころ、どうして過失が罪になるんだろうと考えたことがある。たとえば、手術中にミスをして人を死なせてしまったお医者さんがいた場合、それは罪になるんだろうか? 手を抜く人や技術が圧倒的に足りない人は論外としても、一生懸命頑患者さんのために張って失敗する人もいるだろう。そういう人たちを「人を殺した」といって同列に扱うのは合理的だろうか?
人間はミスをする。ミスをした人に対して「反省しろ」と刑を執行したとして、改善するだろうか? 反省とミスには、それほど大きな相関関係がないと思う。いいところ、まわりの人が他山の石として気を引き締めるぐらいではないか。どんなに頑張っても人間はミスをする。「ミスを100%なくそう」とするなら、人間を全部始末して機械にやらせるしかない。しかし、機械だけが住む国なんて、社会とは呼べない(ここでは社会の定義はおいておく)。
あるいはとてもとても悪いことを考えて、それを合法的に実行してしまう人がいる。たとえばヒットラーさんなんかはそうだろうし、帝国主義でほかの国の人を苦しめた人たちもそうだろう(「悪い」の定義はとりあえずおいておく)。そういう人たちは、合法であるからといって反省の必要がないのだろうか。後世の人がそれを見て「あれはいけないことだ」と思わなくてよいのだろうか。
結局のところ、法やシステムに善悪は判断できない。人殺しに使われたといって、包丁やピストルに罪がないのと同じだ。物理や機械や論理には、善悪がない。きっと人間の体にも善悪がない。それが存在するのは心の中だ。罪人の体を刑によって制限するということは、包丁やピストルを破棄する以上の効果がない。それでは足りないのだ。善悪という観点では。
もし、社会に善や悪という概念が必要ないならば、ただその者が成した行為の軽重において淡々と罪を決定することは合理的であると思う。しかしそれは、人間や社会から善や悪の概念を奪うものである。機械になれと言うようなものだと思う。
たけくまメモ: 宮崎勤の死刑判決に思う結局のところ、動機主義と司法の論理とは根本的に相容れないものがあるのではないか。人間の行為は裁けても、心の中までは、誰も裁けないのだ。であるならば、動機の詮索なんかは最初から止めて、ただその者が成した行為の軽重において淡々と罪を決定すればいいのではないだろうか。
はげどうのところもあるけど、うーん。……まぁ、よい問題提起。
いまよりもう少し若かったころ、どうして過失が罪になるんだろうと考えたことがある。たとえば、手術中にミスをして人を死なせてしまったお医者さんがいた場合、それは罪になるんだろうか? 手を抜く人や技術が圧倒的に足りない人は論外としても、一生懸命頑患者さんのために張って失敗する人もいるだろう。そういう人たちを「人を殺した」といって同列に扱うのは合理的だろうか?
人間はミスをする。ミスをした人に対して「反省しろ」と刑を執行したとして、改善するだろうか? 反省とミスには、それほど大きな相関関係がないと思う。いいところ、まわりの人が他山の石として気を引き締めるぐらいではないか。どんなに頑張っても人間はミスをする。「ミスを100%なくそう」とするなら、人間を全部始末して機械にやらせるしかない。しかし、機械だけが住む国なんて、社会とは呼べない(ここでは社会の定義はおいておく)。
あるいはとてもとても悪いことを考えて、それを合法的に実行してしまう人がいる。たとえばヒットラーさんなんかはそうだろうし、帝国主義でほかの国の人を苦しめた人たちもそうだろう(「悪い」の定義はとりあえずおいておく)。そういう人たちは、合法であるからといって反省の必要がないのだろうか。後世の人がそれを見て「あれはいけないことだ」と思わなくてよいのだろうか。
結局のところ、法やシステムに善悪は判断できない。人殺しに使われたといって、包丁やピストルに罪がないのと同じだ。物理や機械や論理には、善悪がない。きっと人間の体にも善悪がない。それが存在するのは心の中だ。罪人の体を刑によって制限するということは、包丁やピストルを破棄する以上の効果がない。それでは足りないのだ。善悪という観点では。
もし、社会に善や悪という概念が必要ないならば、ただその者が成した行為の軽重において淡々と罪を決定することは合理的であると思う。しかしそれは、人間や社会から善や悪の概念を奪うものである。機械になれと言うようなものだと思う。
2006-01-18
# 「C MAGAZINE」休刊
プログラマのための雑誌「C MAGAZINE」が休刊するらしい。プログラミングに前のめりになっている人が読める、数少ない雑誌の1つだったのになぁ。本というものの価値が落ちたのか、コンピュータが面白くなくなったのか。
http://www.fx-it.com/kihon/top.html
http://www.fx-it.com/kihon/top.html
2006-01-17
# SIの問題点
SI(「システム・インテグレーション」の略。企業で使うコンピュータシステムを作ること)で問題が発生する最大の理由は、仕様が決まらないことだと思う。(ここでいう問題ってのは、納期に間に合わないとか、1億円で作ると言ったのに5億円かかってしまったとか。そういう話がよくあるのです。)
そして仕様が決まらないのは、システムを欲しがるお客さんが「こんなのが欲しい」と具体的に説明できないからだ。お客さんは、システムをSI屋に発注しようと思っても、プロじゃないので、どんなシステムが欲しくて、しかもそれが実現可能かよく分かっていないことが多い。
たとえば、○×商事が社内の人事システムをコンピュータで作ろうと考えたとする。すると実際には、○×商事の「情報システム部」などというところがその作業に責任を持って主体的に動き、実際のシステムは□△ソフトウェア開発会社に発注することになる。
けれども、○×商事のシステム部門はまず人事の業務をよく知らないから、どんなシステムを作ればよいか分からない。また彼らは、コンピュータシステムに関する知識がそれほど高いわけでもないので、どんなシステムを実現可能なのか分かっていない(それが分かるレベルなら自分たちで作るように思う)。
仕様が決まらないのだ。そもそも、どんなシステムがあれば業務が効率化するかというのは、すごく難しい問題だ。人事システムを作りたいなら、その業務に熟知し、どう変えればいまより良くなるか理解できる人間でなければならない(ついでにその人には現場を変えられる力も必要)。しかし、そういった人間はシステム部門におらず、本業が忙しいため仕様を決める作業にそうそう時間を割けない。また、コンピュータに詳しくないので、何が実現できるかをうまく想像できない。
システムを作るときには、忙しくて有能な人とたくさん話し、仕様を聞き出さねばならないし、何ができるかを聞いてもらわなければならない。だけど、システムを作る担当部署である情報システム部門にも開発会社にも、たいていそんな権限が与えられていない。一般に、情報システム部門は社内での立場が弱く、下働きぐらいにしか思われていない。また、SI屋に対しても出入りの業者の1つぐらいにしか考えていない。
実際、「システム開発会社の者です」といって顧客を訪問すると、工事入構者用の腕章を渡されることも多い。システム開発というのはそんなものとしてしか扱われていない。そんな環境で、「あなたはどんなシステムが欲しいですか? どんなことに困っていますか? こんなことができますよ。そこはこう改善できますよ」なんて話ができるだろうか? システムを変えるということは、現場を変えるということだ。「あなたのやり方をよくできますよ」と指摘しその考えを採用してもらうことだ。しかしそれは理解されていない。
そして仕様が決まらないのは、システムを欲しがるお客さんが「こんなのが欲しい」と具体的に説明できないからだ。お客さんは、システムをSI屋に発注しようと思っても、プロじゃないので、どんなシステムが欲しくて、しかもそれが実現可能かよく分かっていないことが多い。
たとえば、○×商事が社内の人事システムをコンピュータで作ろうと考えたとする。すると実際には、○×商事の「情報システム部」などというところがその作業に責任を持って主体的に動き、実際のシステムは□△ソフトウェア開発会社に発注することになる。
けれども、○×商事のシステム部門はまず人事の業務をよく知らないから、どんなシステムを作ればよいか分からない。また彼らは、コンピュータシステムに関する知識がそれほど高いわけでもないので、どんなシステムを実現可能なのか分かっていない(それが分かるレベルなら自分たちで作るように思う)。
仕様が決まらないのだ。そもそも、どんなシステムがあれば業務が効率化するかというのは、すごく難しい問題だ。人事システムを作りたいなら、その業務に熟知し、どう変えればいまより良くなるか理解できる人間でなければならない(ついでにその人には現場を変えられる力も必要)。しかし、そういった人間はシステム部門におらず、本業が忙しいため仕様を決める作業にそうそう時間を割けない。また、コンピュータに詳しくないので、何が実現できるかをうまく想像できない。
システムを作るときには、忙しくて有能な人とたくさん話し、仕様を聞き出さねばならないし、何ができるかを聞いてもらわなければならない。だけど、システムを作る担当部署である情報システム部門にも開発会社にも、たいていそんな権限が与えられていない。一般に、情報システム部門は社内での立場が弱く、下働きぐらいにしか思われていない。また、SI屋に対しても出入りの業者の1つぐらいにしか考えていない。
実際、「システム開発会社の者です」といって顧客を訪問すると、工事入構者用の腕章を渡されることも多い。システム開発というのはそんなものとしてしか扱われていない。そんな環境で、「あなたはどんなシステムが欲しいですか? どんなことに困っていますか? こんなことができますよ。そこはこう改善できますよ」なんて話ができるだろうか? システムを変えるということは、現場を変えるということだ。「あなたのやり方をよくできますよ」と指摘しその考えを採用してもらうことだ。しかしそれは理解されていない。
# ケータイの型番が揃っていることについて
圏外からのひとこと(2006-01-17) -- それにしてもケータイの型番が揃っていることが気持ち悪い
http://amrita.s14.xrea.com/d/?date=20060117#p03
モデル名がそろっているのは消費者にとって分かりやすいと思う。規格みたいな技術的なものを強調しすぎると、消費者に嫌われるんじゃないかなぁ。とくに携帯やパソコンみたいなところは技術の進歩が早くて理解しにくいから。ま、それはいいとして。
型番が揃っていることの気持ち悪さって、たぶん「オレ様の言うことに従っておけ」という思想への不快感なのではないかなと思った。ドコモのやり方(ロードマップを決めて「はいこのレールの上を走りなさいよ」という方針)は、ドコモが未来を正しく予測できているならばそれでいい。だけどそうじゃない可能性もある。
ロードマップを決めてその方向に皆を走らせるのは、(少なくとも)短期的にリソースの投資効率を上げるので、naoyaさんの指摘するようによい面もあるだろう。だけど多様性を犠牲にすることでもあるので悪い面もある。たぶんessaさんの考え方は、誰が正しいかなんて分からないんだからいたずらにレールを決めないほうがよいというものだ。その背景にはインターネット的、あるいは「多様性は善」的なものがある。
ドコモの考え方は、インフラ管理者と消費者の関係を一方通行にするもので、(少し古いという意味の)近代的なもののように思う。一方多様性は善派の「誰が正しいか分からないので」という考え方は、生物の基本戦略にも通じるもので、ぼくはけっこうよいと思う。essaさんの、こういう動物的な勘の鋭さは氏の良さであり、考え方の根底をなしているもののような気がする。
http://amrita.s14.xrea.com/d/?date=20060117#p03
モデル名がそろっているのは消費者にとって分かりやすいと思う。規格みたいな技術的なものを強調しすぎると、消費者に嫌われるんじゃないかなぁ。とくに携帯やパソコンみたいなところは技術の進歩が早くて理解しにくいから。ま、それはいいとして。
型番が揃っていることの気持ち悪さって、たぶん「オレ様の言うことに従っておけ」という思想への不快感なのではないかなと思った。ドコモのやり方(ロードマップを決めて「はいこのレールの上を走りなさいよ」という方針)は、ドコモが未来を正しく予測できているならばそれでいい。だけどそうじゃない可能性もある。
ロードマップを決めてその方向に皆を走らせるのは、(少なくとも)短期的にリソースの投資効率を上げるので、naoyaさんの指摘するようによい面もあるだろう。だけど多様性を犠牲にすることでもあるので悪い面もある。たぶんessaさんの考え方は、誰が正しいかなんて分からないんだからいたずらにレールを決めないほうがよいというものだ。その背景にはインターネット的、あるいは「多様性は善」的なものがある。
ドコモの考え方は、インフラ管理者と消費者の関係を一方通行にするもので、(少し古いという意味の)近代的なもののように思う。一方多様性は善派の「誰が正しいか分からないので」という考え方は、生物の基本戦略にも通じるもので、ぼくはけっこうよいと思う。essaさんの、こういう動物的な勘の鋭さは氏の良さであり、考え方の根底をなしているもののような気がする。
# ヒューマンエラーはなぜ起こる
2006-01-14
# グルーミングといえば……
あれー? グルーミングという言葉を使ったら、うまく伝わらなかったみたい。Googleで検索しても、ペットショップ関連ばかりひっかかるし、世間ではワンちゃんのブラッシングぐらいの意味合いで理解されているのかなぁ……。
グルーミングといってぼくが思い浮かべるのは、ラッコなんだよね。ラッコって、海の上でプカプカ浮かぶあのラッコ。仰向けになって、おなかの上で貝を割ったりしてかわいいよね。たまにラッコは、自分の体をゴシゴシとこすってたりして、その仕草がまたかわいい。
でもその仕草は、実はグルーミングなんだ。海に浮かぶラッコは、そうやって一定時間おきに体毛に空気をなじませなければ、そこで生活できない。気持よさそうにゴシゴシくるくるやるラッコだけど、それなしでは生きられない大事な作業なんだね。
はじめてそれを知ったとき、けっこうびっくりして、なんだかいやに合点がいったなぁ。ごはんを食べたり、寝たりするだけでなく、生きるために必要なことってあるんだよね、動物にも。ラッコは、なんでそれをしなきゃ死んじゃうって知ってるんだろうね? 面白いなぁと思う。
ラッコのグルーミングは、見ていてけっこう気持ちよさそうだ。きっと気持ちいいんじゃないかな。すごくほほえましい。だけど、そのほほえましさの裏で、ラッコは必死に生きてる。それがかっこいいなぁと。ぼくは、人間だってきっと、知らずにグルーミングをやってると思うんだな。
なにげない普段のことや、ちょっとした嗜好、いつもの変な癖なんかは、そうだ、きっとグルーミングなんだ! そう思ったらね、まるでラッコを見るように、人間の変なところや理解しにくいところとかも、それなりにほほえましく思えてくるんだな。
グルーミングといってぼくが思い浮かべるのは、ラッコなんだよね。ラッコって、海の上でプカプカ浮かぶあのラッコ。仰向けになって、おなかの上で貝を割ったりしてかわいいよね。たまにラッコは、自分の体をゴシゴシとこすってたりして、その仕草がまたかわいい。
でもその仕草は、実はグルーミングなんだ。海に浮かぶラッコは、そうやって一定時間おきに体毛に空気をなじませなければ、そこで生活できない。気持よさそうにゴシゴシくるくるやるラッコだけど、それなしでは生きられない大事な作業なんだね。
はじめてそれを知ったとき、けっこうびっくりして、なんだかいやに合点がいったなぁ。ごはんを食べたり、寝たりするだけでなく、生きるために必要なことってあるんだよね、動物にも。ラッコは、なんでそれをしなきゃ死んじゃうって知ってるんだろうね? 面白いなぁと思う。
ラッコのグルーミングは、見ていてけっこう気持ちよさそうだ。きっと気持ちいいんじゃないかな。すごくほほえましい。だけど、そのほほえましさの裏で、ラッコは必死に生きてる。それがかっこいいなぁと。ぼくは、人間だってきっと、知らずにグルーミングをやってると思うんだな。
なにげない普段のことや、ちょっとした嗜好、いつもの変な癖なんかは、そうだ、きっとグルーミングなんだ! そう思ったらね、まるでラッコを見るように、人間の変なところや理解しにくいところとかも、それなりにほほえましく思えてくるんだな。