メッセージ。 - diary

2024-07-13

# にゃー

表現はときに人を傷付け、そして自分をも傷つける。だから怖い。「今日は楽しかった」という言葉さえ、戦場や不幸の底にいる人には恨みがましく聞こえるのだ。どんな言葉も人を傷つけうる。

だから書けない。どんな言葉も表に出したら傷付く人がいるから。「今日は楽しかった」という事実があったとしても、それを表明しなければ「なかったこと」と同じだ。何も言わず、何も語らず、何も伝えなければ誰も傷つくことがない。
2024-07-13 06:57:02 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# にゃー

「好きなものは後に残しておく」とか「やるべきことをまず片付けてから、やりたいことをやる」というのは有効な戦略だと思うのだけど、やりたいことを先延ばししてしまうという悪い習慣にもなってしまいがちだなぁと思う。

人生の時間は有限なので、やりたいことから優先していかないと時間切れになってしまう。やりたいことはばんばんこなして、次のやりたいことを見つけていくぐらいの気持ちがないといけないんじゃないの!?と自分に問い掛けてみたり。
2024-07-13 06:48:02 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

# にゃー

test

2024-07-13 06:36:01 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2024-07-12

# にゃー

続きもののお話を観ていると、最後に近付くにつれて気が重くて観られなくなる。たとえば全12話だと10話ぐらいから。「もうすぐ終わってしまう」という気持ちと「ひどいこと(起承転結の転)が起こってしまうのを見ていられない」という気持ちが出てくるんだよね。面白く感じているからこそこういう拒否反応が出るんだけど、どうにかならないものか。
2024-07-12 21:00:02 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2024-05-13

# にゃー

日本のGDP(国内総生産)が4位に転落したとか生産性や付加価値がどうとかいう話がよく目に付く。でもなんか、個人的にはGDPも生産性も付加価値もいまいちピンとこない。日本は生産性や付加価値が低くて、外国はそれらが高いというのはどういうことなのか。

なんとなくだけど、結局のところアメリカさんや世界の人は「お金が多く流通する」ことを生産性が高いと言っている気がする。たとえばアメリカではここ数十年で収入が何倍に増えたけれどもインフレで物価も上がったとか。たくさん収入をもらってたくさん支出したことを生産性と呼んでいるのではないか。

経済のことは素人だし頭がそんなに良くないのでまったく頓珍漢なことを言っているのかもしれないけど、もし「お金の流通の多寡を生産性と呼んでいます」と仮定すると、説明できるような気がするなぁという事象がいくつか思い付く。

たとえばインバウンド。外国からの観光客が日本に来ると、円安の影響もあって何もかもがとても安いと驚いているとのこと。しかも値段の安さに加えてサービスも断然いいとか、治安が良いとか街が綺麗だとかが評価されている模様。

値段の安さは円安とか長年のデフレが要因といえるだろうから保留するとして、後者のサービス、治安、街が綺麗はどういうことか。もしかしたらこれは、「日本人はお金をもらっていないにもかかわらず何らかの仕事をしている」ということなのではないか。

お店の人がお客さんのために期待以上の品質のサービスを提供しているとか、他者に迷惑をかけないよう暮らしているとか、人を平等に扱うとか。日本人にとっては当たり前のことでお金の授受がなくても自然に行われている行動が、外国人から見れば普通でないというのなら、外国ではそれらの安全や品質や親切をお金で売り買いするのがスタンダードだけれども、日本ではお金ではないもので授受されているということの気がする。

お金のやり取りが伴わないから経済活動にはカウントされず、結果として生産性や付加価値が低くて国内総生産も低いということなら、「なるほど、それはそうかもね」と納得できる部分がある。いや、日本すごいと言いたいわけではなく。生産性とかGDPの計算方法って、どこまで信じていいのかなというような話。

以前にブータンはGDP(国内総生産)ではなくGNH(国内総幸福量)を重視してますよといった話があったけれども、あれに似た話かな。たとえば唯物主義的になんでもかんでも「お金」を介するようにしたら、あちらさんのいう「生産性」も「国内総生産」も「付加価値」も上がるんじゃない?でもそういうことをして市民が日々の暮らしに幸せを感じられるようになるかは疑問だ。

逆にアメリカなんかで市民が不幸そうにしているのは、なんでもかんでもお金を介するようにしちゃった過度の資本主義が一因なんじゃないかとか。お金がなければ安全や安心や信頼が手に入らないなら、そりゃまぁしんどい社会だろうなと思う。
2024-05-13 00:06:01 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2024-05-07

# にゃー

写真をレタッチすることの是非とか、どれくらいレタッチするべきかについて。

YouTubeでまきりなさんという方のチャネルをいつも楽しく試聴しているが、最近レタッチについて語られていた。自分でも考えることのあるテーマなので現時点での自分の考え方を書いてみる。
https://www.youtube.com/watch?v=f13AxSj3H88&t=15s

結論からいうと、ぼく個人としては「やりたい人はやればいいし、やりたくない人はやらなければいい」というのがレタッチに対する考え。「それは写真かどうか」は個人的に気にしない。

どうしてこう考えるかというと、きっかけになったのはモノクロ撮影かなぁ。まきりなさんや他の人が撮ってる写真を見て、最近自分でもモノクロ写真を撮っている。モノクロはけっこう楽しくって、カラー写真では見えなかったものが見えるというか、強調されるというか、「この絵はモノクロのほうがいいな」というケースがあるんだよね。

でも、モノクロというのは言ってしまえばレタッチだ。現実にある色を抜いてしまっているわけだし、カラーかモノクロかを撮影者が選んでいるわけだから。そこに作画の意図が介在しているし、モノクロかどうか以外にも被写体と背景の選択、構図や光やシャッタスピードなど、結局のところ写真は撮影者の意図が反映されている。

逆にほとんど意図せずランダムにシャッターを切っても、「面白い」写真というのはほとんど撮れないというのが経験上ある。だから写真というのはある程度撮影者によって作られたものであるし、撮影者が作るものだと思う。そして、どれくらい作り込むか、どう作るか、というのは結局のところ撮影者の意図しだいだし、それをどうこう言うつもりが自分にはあまりない。

個人的には自分が撮る写真はほとんどレタッチしない。基本的には自分の記録と記憶のために写真を撮っているから。絵を描いたり物語を作ったり他の人に見せる作品を作っているわけではないから。他の人の写真を見るときも、あまりレタッチが入っていないほうが好きかな。写真を見たとき、「すごい写真だなぁ」「どうやって撮ったんだろう」「自分でも撮ってみたいなぁ」という気持ちになることがあって、それがレタッチなしで撮られたものならより「すごいな」という感情が増すとは思うけど、別に競争をしているわけではないから、「レタッチするのはズルい」とか「真実じゃない」とかいう風には考えない。

「その人はそう選択したんだな」「その人はそういう人なんだな」というだけ。誰がどういう風に生きようとも、それはそれでいいと思う。ただそういったたくさんの生き方のなかで、「好きだな」と感じるものがたまにあって、そういうに触れるのはうれしいかな。いまのぼくにとって、そういうのはレタッチがどうこうというよりも、撮影した人の視点とか世界との接し方であることが多い気がする。「こんな風に世界を見て、世界と接することができるのは素敵だなぁ」という写真があるんだよね。世界観が写真に込められているというか。

というか、撮影とか絵作りに意図がある以上、どんな写真にも世界観が込められているのだろう。だとしたら、写真を見て好きかどうかは、撮った人の世界観、撮った人の世界が好きかどうかということになる。そんな風に、思わず好きになってしまう世界観を持っていて、それを写真に表現できる人はすごいなと思う。
2024-05-07 21:57:02 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0

2024-01-26

# にゃー

少し前に人と話していて、「英語が喋れてすごいですね。外国人と喋っているところを見て感動しました」みたいなことを言われた。なので「いやいや、ぼくの英語なんて全然たいしたことないんですよ」と返事したうえで以下のようなことを説明した(実際、ぼくの英語はひどいもので本当にたいしたことではない)。

- 人間どうし、生きているどうしなので、面と向かえばお互い言葉が分からなくても言いたいことはなんとなく分かる。大事なのは英語や言葉を喋ることではなくて、相手が言いたがっていることやしたがっていることを理解し何かをしてあげようとする気持ちだ。むしろ言葉が分からないのに、なんとかして相手を助けてあげようとするその姿勢にこそ、人は感動する。だから英語を話せないことを恥じる必要はない。「英語が話せないから」とかいう理由で怖気づき、相手に対して手を差し延べられなかったならば、それこそが恥じるべきことだ。

- とはいえ英語がまったく喋れないと相手の言いたいことが大雑把にしか理解できないので、喋れるほうが便利だ。それに少しでも喋れると勇気になる。ぼくも過去にできなかったことがたくさんあって悔やしかったので、英語を勉強しはじめた。

- 英語の勉強法はいろいろあるけれども、楽しみながらやるのがいいんじゃないかと思う。たとえばぼくは、最近YouTubeで外国人によるカメラレビューや写真について語っているのをよく見る。英語についていけなくて何を言っているのかよく分からないことも多いけれど、それでも同じカメラ好き、写真好きどうし、どんな気持ちでどんなことを言おうとしているかはなんとなく分かる。語られているカメラやレンズのことを知りたい、撮られた写真の撮影技法などを知りたいという気持ちで見ているけど、この人はどういう考えで写真に向きあっているか、この人はどんな人なのかにも興味が湧いてくる。いや、もっといえば「この人はこういう人なんだな」というリアルな実像が心のなかに住みつくような感じ。ちょっと好きだな、みたいな。

- そんな風にただ楽しんでいるだけなんだけど、英語を学ぶ過程で「英語を喋っている誰かを好きになる」というのは重要な要素なのではないかと思う。なぜかというと、英語を喋れるようになるためには、英語自体を学ぶだけではダメで、英語で喋っているその音や表情に込められた気持ちとか共感とかコンテキストが、「喋る」という行為の根幹にあると思うから。逆に文法や単語だけ一生懸命覚えて使いこなせるようになったとしても、そこに乗る気持ちや心を理解できなければ喋れるようにはならないだろうから。

- あと、ぼくは基本ダメな人間だから、頑張って英語を勉強するということが難しい。だから頑張ってなんかいなくて、ただ英語の勉強をやめなかっただけ。自分の頭が悪いことを自覚して、無理せずちょっとずつでもいいからできることをやっている。「ちょっとでもいいから今よりできるようになりたい」、そういう気持ちを10年とかもっと長い期間持ち続けて何がしかをしているから、多少は英語を喋れるようになってきている。
2024-01-27 07:28:56 / ふじさわ / Comment: 0 / Trackback: 0
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